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08.キャロルのこと

※虫の類の描写があります。



 庭にパトリックがいる。彼は、大きな樹の幹を見つめているようにみえた。

「パトリック? どうしたの」

 花壇の雑草を抜いていたジリアンは、帽子の角度を直しながら、パトリックに近づいた。


 ハーヴェイ家に専属の庭師はいない。二か月と少し前、大勢の使用人が辞めた時に、一緒にいなくなってしまったようなのだ。

 今は月に二度だけ、街の方から庭木の剪定をしに来てくれる人がいるようだが、雑草の処分までは追いつかない。

 自分が掃除や洗濯にまで手を出すと、他の使用人たちが気後れしてしまう事に気づいたジリアンは、こうして世話をする者がいない庭の面倒を見る事が多くなっていた。

 エリンはジリアンの世話だけしていればよいという状況でもなく、彼女が炊事を担当することも多くなった。その時だけ、ジリアンはこっそりとエリンに手を貸している。

 炊事ならば修道院でもやっていた事だ。貴人の家のコックのように、とまではいかないが、他人の舌に耐え得る料理を作る事はなんとか出来る。その作業は、わりと楽しくもあった。


「クワガタ虫を探してるんだ」

「クワガタ?」

「知ってる? 黒くて、ハサミがあって、かっこいいんだ!」

 それならば知っている。たまに、修道院の壁にくっついている事があったからだ。

「知ってるわよ。でもあの虫って、多くは夜か、朝方に活動するんじゃないかしら」

「そうなの? 去年、一匹だけ捕まえたんだけど、母さんに見せたら、悲鳴を上げちゃって……だから、今年はこっそり探してるんだ」

「あっちの方なら、見つかるかもしれないわよ。一緒に、行ってみましょうか」

 生垣や花壇の向こうは木立になっている。ジリアンはそちらの方を指さした。




 木立の中へ入ると、葉の隙間から入り込んでくる陽射しによって、身体に光と影のまだら模様が出来る。パトリックは目を狭めながら、樹木の上の方を探しはじめた。

 もう少し大人びた感じなのかと思っていたけれど、充分に少年らしいところもあるんじゃない、とジリアンは微笑ましく思う。それにジリアンの弟のドミニクは、どちらかと言えば家の中で本を読んだりしているのが好きな方で、こういった事──カッコいい虫を捕まえるとか、そんなことだ──には、あまり興味を示さなかった気がする。


 微笑ましく思う一方で、可哀想にも思った。パトリックは学校へ行かせてもらえないから、同じ年頃の友達がいないのだ。広い敷地を走り回る事はできても、それを分かち合える存在がいない。だが、彼を学校へ通わせるようナタリーにかけあっても、彼女はジリアンやディーンの言葉は聞いてくれないだろう。

 今はせめて、この時間を彼と楽しもう。ジリアンは腕まくりをした。

「あの虫は、こういう樹が好きなのよ」

 ジリアンはある一本の樹を指し示す。樹皮の一部がはがれそうになっていて、その隙間からは樹液が垂れていた。

「この皮を剥がすと、下にいるかもしれないわ」

「ほんとに?」

 ジリアンは樹皮に指を引っ掛け、そして剥がした。


 そこには確かに黒っぽくてテカテカしている虫が何匹かいた。

 ただし、クワガタよりもずっと平べったくて身体が長い。足のたくさんついているそれは、寛ぎ場を急に暴かれた事に焦ったのか、たくさんの足を使って蠢き始め、樹と樹皮の隙間に入り込んでいった。


「…………」

 ジリアンとパトリックはその様子を目にし、一瞬固まったのち、

「キャアアア!」

「うわああ!」

 抱き合って後ずさり、そして同時に尻もちをついた。



*



「エディ。エディ。ちょっと来てちょうだい」

「ばあ様。俺はディーンですよ」

 エディ──エドワード──は、キャロルの夫でディーンの祖父のことである。とうに亡くなっているが、キャロルにはそれが分からなくなってしまったらしい。

「エディ。あのね、今度のハモンド家の舞踏会のために、新しくドレスを作りたいのよ」

 ディーンはため息を吐いた。

「シンディに、素敵なドレスを作るって言ってしまったの。彼女がびっくりするようなのを仕立てたいわ」

「ばあ様……ハモンド家で舞踏会の予定はないし、シンディ殿は、三年前に亡くなってますよ」

 キャロルはこうして昔のことばかりを話すようになってしまった。ふいに普通の状態──こうなってしまう前の状態だ──に戻る事もあるが、その機会はだんだんと減ってきているように思える。


 ディーンは子供の頃、祖母の事があまり好きではなかった。

 キャロルは気の強い女性で他人に厳しく、孫だからといってディーンや兄をべたべたに甘やかしてくれるということも無かった。

 友人から「おばあ様から小遣いをもらったんだ」、「母さんに怒られて夕食抜きになったんだけど、おばあちゃんがこっそりパンを持ってきてくれたんだ」などという話を聞くと、世間一般のおばあさんとはそんなに優しいものなのだろうかと、自分の祖母と比べて考え、首を捻りまくったものだ。

 ディーンが学校へ通いだし、軍隊へ入ると祖母と顔を合わせる事も少なくなり、以前ほどの苦手意識はなくなった。

「ねえ、エディ。シンディは、よその国からお帽子を取り寄せたんですって」

「ばあ様……」

 だが、あの強気な祖母がこうなってしまった。胸の塞がる思いだった。


 その時、庭の奥にある木立の中から恐ろしい叫び声が聞こえた。

 ディーンは身構える。事故でもあったのだろうか。それとも、野盗の類だろうか。

 木立の方へ向かおうとして、その前に武器になるものを取ってきた方がいいかもしれないと迷った瞬間、今度は大笑いする声が聞こえてきた。よく注意して聞いてみれば、ジリアンとパトリックの声である。


 二人は笑いながら木立の中からこちらへやって来た。

 パトリックはお腹を押さえて笑っている。ジリアンは彼のお尻についた汚れを手で払ってやり、それから自分のスカートも払った。

「ああ、びっくりしたあ」

「私もよ。まさか、あんな……」

 そう言ってジリアンは自分の身体を抱きしめ、ぶるっと震えた。その様子を見たパトリックがさらに笑い、ジリアンもまた笑った。


「二人とも、何があった?」

 妙に親密そうな空気が流れており、話しかけるのは少し躊躇してしまったが、敷地内の事は把握しておかなくてはならない。

「ジリアンとクワガタを探してたんだ」

「……クワガタ?」

 意味が分からない。

「それで、ジリアンが木の皮を引っぺがしたら、中に……ああ!」

 パトリックも先ほどのジリアンのように震えた。だが、そこからは純粋な恐怖だけではなく、興奮や情熱といったような、きらきらした感情が垣間見える。

「クワガタではなくて、ムカデがたくさんいたの。二人とも驚いて、転んだのよね」

 ジリアンがくすくすと笑いながら言い添えた。

「パトリック、手を洗っていらっしゃい。キッチンに行けば、エリンの作ったパンケーキがあるわ」

「やった」

 パトリックは嬉しそうに屋敷の中へ駆けこんでいく。あのように少年らしいパトリックを見るのは実に久しぶりな気がした。それにしても、一緒にクワガタを探しただって? ジリアンが?


「フローラ、フローラ」

 木立の中での事を詳しく聞こうとすると、キャロルがジリアンの袖を引っ張った。

「なあに、キャロル様」

「フローラ。あなた、ウサギ小屋の扉を閉めなかったでしょう。私のウサギが、逃げ出してしまうところだったのよ」

「まあ、ごめんなさい。今度から気をつけるわ」

「ジリアン、ちょっと……」

 キャロルに話を合わせるジリアンの袖を、今度はディーンが引っ張る。

「なに?」

「君はフローラではないし、うちにはウサギ小屋なんてないぞ。どうして話を合わせたりするんだ」

 ディーンに言われたジリアンは、一度キャロルの方を振り返り、もう一度ディーンに向き直って声を潜める。

「そんなことしたら、キャロル様が混乱するかもしれないでしょう」

「……そうなのか?」

 ディーンには、話を合わせてしまうことによって、キャロルの症状が進行してしまうような気がしてならなかった。ジリアンはもう一度キャロルを振り返る。

「ご本人の前で、こんな事を話すのはよくないわ」

「聞こえても、本人は分かってないさ」

「いいえ。本当のキャロル様は断片的に存在しているのよ。そういう時だってあるのだから……」

 ジリアンは人差し指を唇の前で立て、咎めるような視線をディーンにくれてよこした。




「キャロル様は、いつから、その……」

 ディーンは夕食後にジリアンに呼ばれ、彼女の部屋にいた。

「父が亡くなった時は、嘆き悲しんではいたけどまだ大丈夫だった。それで兄が亡くなった後から、急に……」

「そう……ショックなことが続いたからでしょうね」

「それまでは、けっこう……いや、かなり気の強い女性で、よくナタリー殿ともやりあってたよ」

 本当に急だった。兄が亡くなってからまだ三か月も経っていない。


「実は、修道院でも、ああなったシスターがいたの」

 ディーンはなるほどと思った。ジリアンはキャロルの言動にそれほど動揺を見せなかったからだ。

「そのシスターは足腰も悪くて、一人では遠くに行けなかったのだけれど、キャロル様はそういった意味では元気だから、ちゃんと見ていた方がいいわ。突然、いなくなってしまったりするのよ。故郷の話なんかを頻繁にするようになったら、注意した方がいいかもしれない。寒い季節だったら、大変なことになるわ」

「わ、わかった」

 やはり使用人がもっと必要だ。マーカスに頼んで、少し離れた街や村で募集をかけて貰っているが、人は集まらない。もう少し条件を良くしてみようか。……となると、今働いてもらっている人たちの待遇も変えていかないといけないな。などと考えていると、ジリアンが続ける。

「あの病気……病気といっていいものか分からないけれど、新しいことからどんどん忘れていってしまうのよね。そのシスターはご飯を食べた事も忘れてしまって、一日に何度も食事の催促をしていたわ。今のところ、キャロル様はそのような事はないみたいだけれど……あ、それから。フローラって、どなたなの?」

「祖母の、幼なじみらしいよ。遠くに嫁いで、今は、新年の挨拶の手紙のやりとりをしてるくらいだ」

 もっとも、来年の挨拶はキャロルには無理だろう。

「ふうん……それから、元気なころのキャロル様はどういった事がお好きだったのかしら」

「祖母は、本当に元気な人だったよ。健康のための運動だって言って、自分で薪割りしてたくらいだからな。花壇の手入れをする事もあった。わりと、外で過ごすことが多かったように思う」

「そう……」

 ジリアンはディーンの言葉を、何度も頷きながら心に留めおいているようだった。そして、

「ありがとう。もう、行っていいわよ」

 と、言い放った。


 確かにまだ休むような時間ではない。ないがしかし。

「君は、老人や子供には優しいんだな」

 ディーンはそう言ってジリアンの部屋を出た。

 俺にはちっとも優しくないけどな。そう心の中で付け加えながら。




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