07.街の酒場にて
「新婚なのに、さっそく呼び出して悪いね」
待ち合わせていたグラウツの街の酒場へ向かうと、先に来ていたウォルター・ブリングスが手をあげてディーンに自分の居場所を示す。
「いや、大丈夫だ。それで、何かわかったのか?」
屋敷の様子を思うにちっとも大丈夫ではないような気もしたが、今晩ディーンが外出を控えることで何かが改善される訳でもない。
「ああ。僕の友人がポートクリオンへ旅行に行ったらしいんだが。そこで、君の新しい噂が流れてるみたいだ」
「ポートクリオン? 行った事もない場所だ」
「君は戦場で部下に捕虜を虐待させて、それを肴に酒を飲んでいたそうだよ」
行ったことも無い場所で、覚えのない噂が流れているのは今に始まった事ではない。ディーンには捕虜を虐待して喜ぶ趣味はなかったし、
「そんな風に顎で使える様な部下なんていなかったけどなあ」
昼間、ジリアンにも言ったようにそれほど偉い立場でもなかった。ただ侯爵家の次男ということで、少しばかり上の階級に就いていただけである。
その階級には中身など伴っていないことはよく分かっていたから、必要以上に威張り散らしたりしたこともない。むしろ、年上の部下になんてどう接してよいものか困惑していたくらいだ。
「僕は、君の義母上が怪しいんじゃないかと思うんだけどなあ」
「ナタリー殿か」
確かにナタリーとの関係は良好ではない。
ナタリーは十五年ほど前、ディーンが七つの時にハーヴェイ家へやってきた。ディーンは物心つく前に実の母親を亡くしているから、彼女を本当の母親と比べることも無かったし、むしろ若く美しい母親ができて嬉しく思っていたくらいだ。だが彼女はとっつきにくい女性で、ハーヴェイ兄弟から「義母」と呼ばれる事を嫌った。隔たりは昔からあった。
ディーンが軍隊に入った頃、かつ悪評が広まり始めた頃から、ナタリーの態度はあからさまになったように思える。
そして、休暇でハーヴェイ家へ戻って来た時、パトリックが軍隊はどんなところなのかと、興味津々といった感じでディーンに訊ねたのだ。その場面をナタリーが見てしまった。彼女がパトリックすらディーンから遠ざけるようになったのはその時からだ。
おそらくナタリーは、パトリックが軍隊に興味を持ってはまずいと思ったのだろう。一人息子が大切なのはわかるが、家庭教師もいなくなってしまった事だし、これを機に、王都の寄宿学校へ入れてやったらどうかとディーンは思っているが、ナタリーがディーンの意見を取り入れることなどないだろう。
「しかしなあ。俺の悪評をばらまいてもハーヴェイ家の評判が落ちるだけだぞ。ナタリー殿にとってもそれは得策とは言えないんじゃないか?」
「けど、それで君を今の地位から引きずりおろせたら、次の侯爵は彼女の息子なんだろ」
爵位を剥奪されるほどのことと言えば、殺人を犯したとか密輸組織のリーダーを務めたとか、そういった決定的な犯罪行為である。もちろん、噂だけでは剥奪されるに値しない。
「ナタリー殿の肩を持つ訳ではないが、彼女が屋敷から出る事は殆どないし、彼女を訪ねてくる客人もいないよ。各地で噂をばらまくなんて、出来ないんじゃないか?」
「手紙があるだろう。君の義母上は手紙のやりとりすらしないのか?」
「いや……」
ナタリーはしょっちゅう手紙のやりとりをしているが、相手の多くはアマリア王国の貴族のようだ。ではディーンの噂はアマリアの貴族を経由してこちら側にやって来ているのだろうか。ずいぶんと回りくどいやり方に思えるが。
「けど、彼女が君の悪評を広めるには、それしかやり方が無いんだろ?」
「あのな、ウォルター。本当に、ナタリー殿の肩を持つわけではないんだが……君の考えが正しいとすれば、ナタリー殿が俺の父と兄を葬った、という考えはほぼ消えるんじゃないか」
ディーンには父と兄を殺したのではないかという噂もついて回っている。もちろんディーンはそんな事はしていないし、ウォルターもディーンを信じてくれている。だとしても、二人の死は偶然なのだろうか、ひょっとして誰かが……と、考えたくはないが考えてしまう。
ナタリーを良く思っていないウォルターは、パトリックを爵位につけるために彼女がやったのではないかとも言っているが。
「彼女は俺を事故死か病死に見せかけて始末すればいいだけだ。過去に二度行っているんなら、三度目も容易いものだろう? 何年も前から地道に、わざわざ悪い噂を広めなくたってさ」
「う、ううーん……」
ディーンの言い分は尤もだと考えたのか、ウォルターも腕を組んで首を捻る。
ハーヴェイ家には問題が多すぎるのだ。
立て続けに当主が死に、元気だった祖母は見る影もなくなってしまった上、ナタリーはあの通りだ。パトリックから敵意を感じることは無いが、彼はナタリーにディーンとの接触を極力禁じられているらしい。
ディーンも、パトリックの勉強をみてやろうとした時に、ナタリーにはっきりと言われた。ディーンの存在はパトリックに悪影響を与えるからあまり近づくなと。
おまけに使用人も多数が辞めてしまい、屋敷の管理にまで手が回らない。
今日はジリアンが洗濯物を干していて、ディーンは驚いた。そして情けなくも思った。形だけの、期限付きの妻とはいえ、自分は娶った女にこんな真似をさせているのかと。
「まあ、今は色々と大変だろうけど……でも、めでたいこともあったじゃないか!」
ウォルターは追加の酒と料理を注文すると、笑顔でディーンに向き直る。
「めちゃくちゃ美人な奥さんだよな。で、彼女とは、どうなんだ?」
結婚式に来てくれていたウォルターはジリアンの外見を知っている。確かに彼女は目の覚めるような美人だ。
だが、どうなんだと問われても答えられるようなことは何もない。それに。
「彼女……ジリアンは、俺の噂をとっくにご存じだったよ。俺の話は旅の巡礼者あたりから聞けるらしい」
「そ、そうなのか……けれど、知っていても嫁いでくれたのなら、噂を信じている訳じゃないんだろう」
「いや、俺と同じさ。国王陛下の勧めを無下に出来るわけがないと。それから両親の立場も気にしていたな。彼女には弟がいるらしいから、彼の将来も考えたんじゃないか。実際、彼女は俺を警戒していたしな」
初夜の出来事は忘れられない。屈辱的な意味で。
二晩続けてディーンが何もしなかったら、ジリアンはようやく少しだけ警戒を解いたが、彼に対する態度は固いままだ。
初夜の何から何までをウォルターに教えるつもりはないが、彼は古く、親しい友人である。ハーヴェイの屋敷に遊びに来ることだってあるから、自分とジリアンの結婚がどういったものなのか、話しておいた方がいいかもしれない。
ディーンは手元のグラスを呷り、そして語った。
もちろんウォルターは驚いた。
「……三年経ったら、離縁するだって?」
「ああ。その方がいいだろう。互いに歩み寄るつもりがないんだし、それに王宮側は俺の家の事情……ナタリー殿はともかく、祖母のことや使用人が殆どいない事だよ。それを、伏せてヴィヴィエ家に話を持って行ったらしいんだ。こっちだって、騙したみたいで気分が悪いからな」
「そう、か……」
ウォルターはショックを押さえきれないようだ。しきりに顎を触っては、「そうか」、「そうなんだ……」と繰り返す。それからふいに顔を上げた。
「じゃ、じゃあ、下世話な事を訊くけどさ。君は……そっちの方は、他で済ませるってことかい」
初めこそはディーンもそうしようかと考えた。だがこの先三年、ジリアンが孕むことは決して許されない。ディーン以外の種でも宿された日には大変なことになる。世間からすればそれはディーンの子ということになるし、離縁出来なくなるどころか次の侯爵の血筋も怪しいものになってしまう。
「彼女に禁欲を強いて、自分だけ……というのはフェアじゃないだろ」
ディーンの科白にウォルターは肩を竦めた。
「そういう考え、君らしいな。けど、その……我慢できるのかい? だって、あんな美人じゃないか」
「できるさ」
最初の夜は、ジリアンの刺々しい態度に腹が立って、こんな女に手を出してたまるものかと思った。だが、彼女は確かに美人だし、それに肉付きもちょうど良い。がりがりに痩せている訳でもなく、太っている訳でもない。コルセットをつけない方針なのだろうか、本当の身体のラインがよく分かる。今日の昼間などは、洗濯ものを取るために屈みこんだりするジリアンの腰つきに目を奪われた。
髪の毛をきっちりと結い込んでいるのだけは残念だが、それでもジリアンの肌はみずみずしく、頬はうっすらと薔薇色に染まっていて……要は、ぷりぷりとしていて活きがよく、美味しそうだと思ってしまう。
いや、でもあれは生意気な女だぞ。少しでも気を抜けば、辛辣な言葉を浴びせてくる可愛げのない女だ。
「我慢、できるとも」
まるで自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。
酒場を出ると、ディーンは辻馬車を止めるために大通りへ向かった。遅い時刻のせいか人の気配は殆どない上に、霧も出ている。馬車が通りかかるのを待つ間、ディーンは考えた。
ハーヴェイ家の当主が立て続けに亡くなったことを、ディーンがやったのだと思っているものは多いようだ。だが、ディーンはやっていない。クライヴが生きていた頃は、堅苦しい役割を兄に任せられて良かったと思っていたほどだ。
父と兄の死が偶然でないとしたら……ウォルターは、ナタリーがパトリックを爵位につけるためにやったのではとの考えも捨てきれないようで、別れ際にはナタリーの動向に気をつけろと言ってよこした。
たしかに、ディーンまでもがいなくなれば、得をするのはパトリック、というかその母親のナタリーであろう。さらに詳しく言えば、彼女の自尊心が。
使用人たちが辞めていった大きな理由はそこだ。荒くれ者の好色男──という噂──が当主になってしまったというのもあるだろうが、また誰か死ぬのではないか。ナタリーが殺人犯でないにしても、どちらにしろハーヴェイ家は呪われているのだ。そんな屋敷で過ごしていたら、自分にも不幸が降りかかるかもしれない、と。
霧の向こうから蹄の音がして、ディーンはぎくりとした。
ディーンが戦場にいた頃、屈強な男たちも恐れる者があった。それは、死を告げに来る、首なし騎士の亡霊──デュラハーン──である。
戦ではいつ命を落とすとも限らない。皆それをわかっていて戦場に出る。
だが、自分が死ぬ詳しい日時を知ってしまったらどうだろう。
お前は明日、敵の刃にかかって死ぬぞ、などと告げられたら、恐れ知らずと謳われた戦士でも尻尾を巻いて逃げ出してしまうのではないだろうか。
霧の中から現れたのは、よく見知った形状の辻馬車であった。
ディーンはほっと息を吐いて手を上げ、馬車を止める。
今は、戦場にいた頃よりも、首なし騎士の亡霊が恐ろしかった。