05.契約
「あんたとは寝ないって、言ってやったんですか! やりましたね!」
後からハーヴェイの屋敷にやってきたエリンであるが、二人きりで話すことが出来たのは、夕食後の寝支度の時間であった。
ジリアンは昨夜の出来事を話して聞かせた。
「あの男、どんな顔してました?」
「たぶん、びっくりして、それから気を悪くしていたんだと思うわ。そんな顔よ」
「へえ。あたしも見てみたかったです」
エリンは鏡台に向うジリアンの髪の毛を梳いていく。
ジリアンの髪は細かなきつい巻毛である。ブラシでは上手く毛先まで通らないので、はじめは目の粗い櫛を使わなくてはならない。頭皮をちょうど良い強さで撫でられ、気持ちのよさにほっと溜息を吐く。
「暴力を振るわれなくてよかったですね。安心しましたよ。でも、ちょっと意外です」
「ええ……私も、もっと酷いことになるかと思っていたわ」
教会から乗った馬車の中で、ディーンは自分の顔を傷が気になるかどうかと訊ねてきた。ジリアンの機嫌を窺うような態度が少し癇に障った。
ジリアンはディーンが悪い評判を纏うに足る人間だと、身を以って知っている。彼は覚えていないようだったが、ジリアンはかつて彼に言われ、そしてされた事を忘れるつもりはない。
ジリアンが己の意思を告げた時のディーンは、軽く狼狽したように見えた。
生意気な口をきくなと頬を張り飛ばされる事も、無理矢理圧し掛かられる事も覚悟していた。だが、彼はそうはしなかった。「俺だって君と寝たいとは思わない」と彼は声を荒げたが、ジリアンに向かって怒鳴ったというよりも、やけくそじみた嘆きに聞こえて、恐ろしいとは思えなかった。
「エリン。あなたは実際に会ってみて……ディーン・ラクリフ・ハーヴェイのこと、どう思った?」
「どうって……頬に恐ろしい傷がありますよね。それに身体が大きいから、他人を威嚇するのに充分な姿ですよ」
「それは、噂通りの人物に見えたということかしら」
エリンはジリアンの髪を梳かす手を止め、うーんと唸りながら首を捻る。
「侯爵には、あたしがここに到着した後ちょっとした挨拶をして、それから使用人たちを紹介してもらった程度なんですよ。さっそく怒鳴られるとか厭味を言われるとかいやらしい目で見られるとか、そういった事はなかったように思いますけど……でも、まだわかりませんよね。本性を隠してるだけかもしれませんから」
「そう、よね」
「しかしこの屋敷、気が滅入るどころの話じゃありませんよねえ。ナタリー様は感じ悪いし、パトリック様とやらは姿を現さないし、おまけにキャロル様があんな……」
「え、ええ」
そのことはずっとジリアンの胸を重たく塞いでいる。
ジリアンは弟ばかり構う両親に複雑な思いを抱いて、修道院に自分の安寧を見出した。ここは、ヴィヴィエ家とは比べ物にならぬほどの息苦しさだ。家族を紹介する時の、ディーンの諦めたような口調と表情。彼は、家から離れた戦場が、唯一ほっとする場所ではなかったのだろうか。
そこでハッとする。どうして彼に同情しようとしているのよ、と。
「でもね、ジリアン様。あたし思ったんですけど」
「え、ええ。なあに」
「ディーン・ハーヴェイが父と兄を殺したって噂……あたしだったら、地位や名誉よりも、こんな陰気くさい屋敷から離れる方を選びますけどね」
「では、あなたは彼に関してのその噂は否定するということ?」
「さあ。高貴な人の考える事は、庶民のあたしには分かりませんね。あ、もちろんジリアン様は別ですよ! けどね、それより……あたし、気づいちゃったんですけど」
エリンは声をひそめた。
「ディーン・ハーヴェイがいなくなったら、次の侯爵は、パトリック坊ちゃんです」
「え、ええ。そうね……」
ナタリーは、ディーンの父親アーサーの正式な妻である。異国人の血が混じっていようが、今のこの国の決まり事では、パトリックには爵位の継承権がある。
「前侯爵のクライヴ・ハーヴェイが亡くなり、ディーン・ハーヴェイもいなくなったら……そう願う人物って、絞られませんか?」
「エ、エリン。あなたは……ひょっとして、ナタリー様の事を言っているの」
エリンは肩を竦めた。
「けど、表向きの発表では、前々侯爵は病死で、前侯爵は落馬でしたっけ。それが真実だとしても、女一人でそこまで仕込むには結構手間ですよね。ナタリー様が感じ悪いってだけでそこまで考えちゃいましたけど、彼女の背後にあるものは全く分からないし……あっ、これ、ここだけの話にしといてくださいよ」
「も、もちろんだわ」
紅茶を飲んでいたナタリーの姿を思い浮かべる。ディーンとの折り合いは良くないようだった。では、前侯爵クライヴとはどのような間柄だったのだろう。それに、夫であるアーサーとは?
「ジリアン様。髪の毛、どうします? 三つ編みでいいですかね?」
「ええ。きつく、縛ってちょうだい」
エリンがジリアンの髪を結い終えたとき、部屋にノックの音が響いて二人とも顔を上げた。
侯爵邸のジリアンの部屋は、ディーンの私室の隣となっている。不本意ではあるが夫婦なのだから仕方がない。だが、ノックされているのは廊下側に面した扉ではなく、ディーンの部屋と直接繋がっている扉だ。
「ジリアン、俺だ。入ってもいいか?」
「え、ええ」
ジリアンは鏡を見て自分の髪がきちんと三つ編みになっている事を確認すると、寝衣の上にガウンを羽織ってから返事をした。ディーンが扉を開けてこちら側へ入ってくる。すると、エリンがジリアンを庇うように前に立った。
「な、ななな何か、ジリアン様に御用ですかね」
エリンは震える声でそう言って、持っていた櫛をディーンに突きつけた。
「エリン……」
「ジ、ジリアン様は、もう、お休みになるところなんですけど」
ディーンは驚いたようにエリンの様子を見ていたが、やがて皮肉げにふっと笑う。
「君の主人に危害を加えるつもりはない。ただ、ジリアンと二人で話がしたいだけだ」
「ふっ、二人で……?」
その言葉にエリンはますます身体を固くする。彼女の忠誠心は有難かったが、ジリアンもディーンと話がしたいと思っていた。たとえば、この屋敷の住人についてとか。
「エリン、私は大丈夫だから」
「ジリアン様、でも」
「彼は、私に手を出すほど落ちぶれてはいないようだから」
二人きりになった途端にディーンが襲い掛かってくるとはもはや思えなくなってきていたが、釘を刺すつもりでそう言ってみる。エリンは「あいつジリアン様にそんな事言ったんですか」とでも言いたげに驚いた顔をしたが、もう一度「大丈夫よ」と頷くと、彼女はしぶしぶと言った感じで引き下がった。
「さて」
エリンがいなくなると、ディーンはジリアンと向き直った。
「君はもう、この屋敷から逃げ出したいんじゃないかな」
ジリアンはぎくりとして姿勢を正す。この屋敷にエリンが一緒に来てくれなかったら、自分は今頃途方に暮れていただろうからだ。
「うちは窮乏している訳じゃないが……こんな状態だからな。使用人も逃げ出してしまって数が少ない。俺も爵位は兄が継ぐものだと思い込んで暮らしていたから、さっぱり分からない事が多くて、マーカスに助けてもらってなんとかやってる状況だ。俺は結婚相手として条件が悪い。自覚はあるよ」
「……そうなの?」
侯爵夫人になれるのならば、家の環境や夫の噂などものともしない女性も少なくはなさそうだ。ジリアンはそのタイプではないが。
「それに俺たちの間には愛情がある訳じゃない。そしてこの結婚を受け入れた君自身にはなんの見返りもない。君がこの家に我慢できなくなる日がやってくることは、容易に予想がつく……だから、期限を決めようじゃないか」
「期限?」
「ああ。この国では、三年経っても子に恵まれなければ、離縁の申し立てができる。貴族ならば申請は通りやすいだろうな。……それでどうだ?」
「どうって……私たち、三年後に離縁するということ?」
「俺たちは国王陛下の命で結婚したが、互いに寝るつもりはない。だったら、このまま期限付きで夫婦を演じて、そして離縁の申し立てをした方がよくないか? そもそも後継ぎを期待されての結婚だからな。子が生まれなければ国王陛下だって仕方がないと思うだろう。君だって解放されると分かっていれば、少しは気が楽だろ。どう思う?」
意外な申し出であった。それに。
「どう思うって……私が選んで良いわけ」
ディーンの子を産み、この家に根を下ろすか、それとも……。
どちらが良いかなんて、そんなの決まっている。ディーンの提案に乗るということは、この家は自分には無理だと匙を投げだすようで癪でもあるが、意地だけでこの先暮らして行けるとも思えない。
「ああ。離縁の申請が通った後は、君の自由だ。修道院へ戻るならその時の寄付金はハーヴェイ家が持つよ」
「じゃあ、三年……」
三年だけ、この家で何とかやっていく。そして修道院の静かな暮らしに戻るのだ。先の目標を決めると、なんだか気が楽になった。
「じゃ、決まりだな。三年間、なんとかうまくやっていこう」
ディーンはそれだけ言うと、ジリアンのベッドの毛布を捲った。彼がここで眠るなんて聞いてない。ジリアンは思わずディーンの腕を掴んで止めた。
「ちょ、ちょっと……! どうしてここで」
「どうしてって……早朝、使用人が入ってくるだろ。うちは人手が足りないから、毎朝って訳でもないが」
昨夜の宿では初夜ということで気を利かせてもらったのだろう、二人が起き出すまで他者が入ってくることはなかった。
しかし普通はこちらが眠っているうちに、使用人が入ってくる。洗面器に水やお湯を満たしてカーテンを開けていくのだ。冬は暖炉に火を入れてもいく。
その時、ベッドの中に夫婦が揃って眠っていれば、使用人たちは主夫妻はそれなりに仲が良いのだと思うだろう。
「一緒に眠りもしない夫婦に子供が生まれるわけないだろ。君だってそのくらいは知ってるよな?」
「も、もちろんだわ」
「周りには俺たちの仲が良いと……子孫繁栄の努力をしていると思ってもらわないと、申請が通らないかもしれないだろ。役人の調査だって入るんだ」
つまり、ディーンと同じベッドで眠らなくてはいけないと言う訳だ。
ジリアンはベッドを眺め回した。昨夜の宿と同じくらいの広さのベッドだ。端と端に横たわれば、寝返りを打っても身体がくっついてしまう事はないように見える。
「安心していい。君には手を出すつもりはない」
彼はジリアンを見もしないでベッドに上がり、毛布の中へ身体を滑らせた。
では、彼は男性のそういった欲求をどうするつもりなのだろう。ジリアンも反対側からベッドに入った。ディーンはこちらに背を向けて横たわっている。
ああ、彼はきっと、他の女性で済ませるつもりなのだ。そうだ。きっとそう。ジリアンは心の中で頷いた。導き出した答えに納得はしたが、自分はそれでほっとしているのだろうか。よく分からない。
手を伸ばしてナイトテーブルのランプを消す。
三年。期限を決めた事で楽にはなった気がするが、ずいぶんと気の長い話だとも思う。キャロルはともかくとして、パトリックやナタリーとどう接していけばよいのだろう。
三年。ナタリー。侯爵家の呪い。ふと胸が翳って、ジリアンはディーンの方をちらりと振り返った。暗くてよく見えないが、生身の人間の気配はある。生身の、生きている人間の気配が。
今夜、自分たちは三年経ったら離縁するという取り決めを交わしたが、ディーンは、三年先も生きているのだろうか。
そこまで考えて、ジリアンはぶるっと震えた。