04.伏魔殿
翌朝は、宿の使用人たちがジリアンを気遣うように馬車まで誘導してくれた。やはりディーンに酷い目に遭わされたと思われたのだろうか。
ジリアンが起きた時は紅茶の染みは生乾きになっていて、血液にしては幾分薄いように見えたし、シーツとテーブルの上のティーポットを繋げて考えれば、細工したことが分かってしまうような気がした。
だが、ディーンの纏う噂の方が強烈だったのだ。赤茶けた染みは彼の仕業だと、皆が思い込んでしまうくらいに。
「これからラガリエの屋敷に向かうが」
馬車が走り出すとディーンが口を開いた。結婚式を挙げた後は宿に一泊して、それからハーヴェイ家の領地ラガリエへ向かう事になっていたから、それは言われなくてもジリアンにも分かっている。
「俺の家族の事を話しておいた方がいいだろう。……君は、どこまで知っている?」
ディーン・ラクリフ・ハーヴェイについての情報は、王宮からの書簡に色々と記されてあった。年齢や経歴、領地の広さや領民の数、どれだけ穀物が収穫できるか、などなど。
だがジリアンはディーンのことなど詳しく知りたいとは思わなかったから、碌に目を通しもしなかった。今思えばそれは間違いであった。今後の身の振り方を考えるのに、知っておいた方が良かったのだ。
何かと悪い評判を持つディーン自身の口から聞いたところで、それにどれほどの信憑性があるだろう。
「別に……家族構成を話すだけだ。俺の主観や何かが含まれてる訳じゃない」
ジリアンのもの問いたげな視線に気づいたのか、ディーンは言い添える。
「まず、半年前に父のアーサーが亡くなって、爵位を継いだ兄のクライヴも二か月前に亡くなった。そして俺が侯爵となった。ここまでは知ってるよな?」
「ええ」
半年の間に二人も亡くなっている。恐ろしいことだ。その二人を、ディーンが殺したという噂もある。
ちらと彼を見やると、まずは頬の傷が目に入って、次に彼と目が合った。彼はまたジリアンの視線に何かを思ったに違いないが、そのまま話を続けた。
「ラガリエの屋敷には、まず、俺の祖母キャロルがいる。それから、義母のナタリー」
「義母?」
「ああ。本当の母は俺が幼いころに亡くなってる。父は後妻としてナタリーを迎えたんだ」
それは知らなかった。なかなか、複雑そうな環境である。ディーンとナタリーの関係は良好なのだろうか。それとも……。
「それから、異母弟のパトリック」
「異母弟ですって」
「彼はまだ十三歳の少年だ」
とはいえ、ディーンの父がナタリーを正式に妻として迎えていたのならば、その異母弟とやらにも爵位を継ぐ権利はある。ハーヴェイ家にはまだ後継者がいるという事だ。
国王はハーヴェイ家の断絶を憂いたらしいが、ディーンが最後の侯爵という訳ではない。ジリアンとディーンが、急いで結婚する必要などあったのだろうか。
「君の言いたい事は分かるよ」
また表情を読まれてしまったようだ。自分はそんなに分かりやすいだろうかと、ジリアンは思わず頬を押さえる。
「義母のナタリーは異国人なんだよ」
「異国……」
「アマリア王国の貴族だ」
このプロヴリー王国は、隣国のアマリアと断続的に戦を続けている。大昔から、戦争したり休戦したりの繰り返しであった。ディーンの赴いていた戦地というのも、その国境地帯である。
アマリアでは国境よりの街から人が逃げ出して、ゴーストタウンのようになっている場所がいくつかあるという。ナタリーは先にプロヴリーへ嫁いでいた姉を頼って、こちら側へ入国したらしい。
「国王陛下は、侯爵家の直系にアマリアの血が入るのが厭なんだろうな。貴族は王宮で開かれる議会に呼ばれる事もある訳だし」
そこでやっとジリアンにも合点がいった。
プロヴリーとアマリアは、言語は同じで文化も民族もそれほど変わらない。しかしアマリアでは共和制への移行を叫ぶ運動が何度か起きている。よって、こちら側へ流れてくる貴族たちもたくさんいた。
プロヴリー国王はこれを容認してはいるが、アマリアの血を引くものが多数王宮を闊歩するようになっては拙いと思っているのだ。
馬車は木立を抜け、ラガリエの領地に入ったようだった。窓の外に見える丘陵地帯には羊が放牧されている。やがて荷車ともすれ違うようになり、鍬を持った農民たちが行き交っているのも見えた。活気ある土地に思える。
「ああ。見えてきた。あれが、ハーヴェイの屋敷だ」
ディーンの示した方角を見ると、一際大きな建物が目に入る。立派だが瀟洒ではない。石造りの、砦を思わせるような古い屋敷である。あれが、これからのジリアンの住処となるのだ。
「この男が、執事のマーカス。それから……」
ディーンは二人を出迎えた使用人たちを、ジリアンに紹介した。五十代と思われる、口ひげをはやした品の良い男性が執事のようだ。それから仕着せのメイドたちが数人。屋敷の大きさのわりに、ずいぶんと人数が少ないように思えた。
「あっちが食堂と厨房。二階が寝室。それからこの先の『暖炉の間』がいわゆるリビングルームになってる」
玄関ホールでディーンは各部屋の位置を簡単に指先で示したのち、その暖炉の間の扉を開けた。その名の通り、扉を開けた正面には大きな暖炉が設えてある部屋だ。今は暖炉を使う季節ではないので何も燃えてはいないが。
テーブルでは赤茶色の髪の毛を高い位置で結った女性が、お茶を飲んでいる。
「ナタリー殿」
ディーンにそう呼ばれて、彼女はようやくこちらを見た。ディーンの義母はジリアンを不躾な視線で眺め回す。
「こちらがジリアン。前にも話したと思うが、エルノー公爵の孫娘で、ヴィヴィエ家の……」
「とにかく、その人があなたの妻ってわけね。わかったわ。私はナタリーよ」
彼女はよろしくともつけ加えず、最低限の自己紹介だけをすると再び紅茶を飲みだした。ディーンと義母の関係は良好とは言えないだろう。
「それから……」
ディーンは暖炉の間をきょろきょろと見回す。
「ナタリー殿。パトリックはどこに」
「さあ。あの子のことですもの。お部屋で勉強でもしているんじゃないかしら」
その時、ジリアンは視線を感じて顔を上げた。先程自分たちが入ってきた扉の隙間から、こちらを覗いている者がいる。
「あ、パトリック!」
ディーンも気づいて名前を呼ぶと、彼はさっといなくなってしまった。姿が一瞬見えただけであったが、赤茶色の髪で、ナタリーの息子だと一目でわかる容貌をしていた。
ディーンはため息をついて頭を掻く。
「……今のがナタリー殿の息子で、俺の異母弟のパトリックだ」
ディーンはだいぶ疲れた表情になっている。移動疲れと言うよりも、彼はこの屋敷にいる時は、いつもこんな感じなのではないだろうか。
彼の説明を聞いているうちに、だんだんとジリアンの胸に黒い靄のようなものが充満してきて、息苦しくなった。
結婚式にディーンの親族が出席していないのは何故だろうと不思議に思っていたが、これでは仕方ない。
……そういえば、彼には祖母がいるのだった。祖母ならば孫の結婚式に出席したいと思うのではないだろうか。いや、もしかしたらジリアンの事が気に入らなかったのかもしれない。公爵の孫娘などではなく、公爵令嬢を連れてこいとか、もっと富豪の娘を迎えたいとか、そんなところかもしれない。いやいや、高齢だろうし、膝が悪いとか体が丈夫でないとかで、王都までの移動が辛いだけかもしれない。
ジリアンがそんな事を考えていると、ディーンは暖炉のそばの方へ歩き出した。
「ばあ様」
見ると、暖炉の前の揺り椅子に老人が座っている。まったく気配が無いので気づかなかった。彼女は居眠りしているのか、目を閉じたままだ。
「ばあ様……起きてますか。妻を連れてきましたよ」
ディーンの祖母──キャロル──は、ゆっくりと目を開け、ゆっくりとまばたきを繰り返す。それからぼんやりとディーンを見た。
「あら、エディ」
「ばあ様。俺はディーンですよ……結婚の話は前に聞かせたと思いますが、覚えてますか」
「ああ、エディ。どうしましょう。貴方から貰った指輪、失くしてしまったの」
「……ばあ様。指にしっかりと嵌めてあるじゃないですか、ほら」
ディーンはそう言って祖母の手を取り、大きな石の付いた指輪をキャロルに見える位置に手首ごと運ぶ。
二人のやりとりを見ているうちに、ジリアンの胸に生じた黒い靄はその色濃さと密度を増していった。浅い呼吸を繰り返しながら、
「キャロル様。ジリアンと申します……これから、よろしくお願いしますね」
なんとか自己紹介を終える。キャロルは分かっていないかもしれないが。
「フローラ! フローラじゃない」
「え……」
キャロルはジリアンの顔を見て、ぱっと目を見開く。
「私のお人形、どこへやったの? あなたに貸してあげたじゃない」
「え、あ、あの……ご、ごめんなさい。探しておくわ」
何となく話を合わせ、隣のディーンを見上げる。彼は険しい、だが悲しそうな瞳で小さく首を振った。
「屋敷の住人はこれで全部だ。今日からここが、君の家だよ。ジリアン」
もともと、気の進まない結婚ではあった。国王に後継ぎをもうける事を期待されての結婚だ。だがジリアンはディーンに抱かれるつもりはなく、彼もジリアンとは寝ないと言い切った。これだけでも先行きが大いに不透明だというのに。
ジリアンはもう一度暖炉の間を見渡した。紅茶を飲むナタリーの背中。パトリックが覗いていた扉。そして、目の前ではキャロルが居眠りを始めている。
今日からここが、君の『檻』だよ。ジリアン。
そう言われたような気がしてならなかった。