23.白馬に乗った……
「最近ジリアン様綺麗になったと思わない? まあ、もともと綺麗な方だけどさ」
「ああ、分かる。雰囲気が柔らかくなったっていうか」
「それを言うなら、侯爵もじゃない?」
「じゃあ、上手くいってるんだあ。はじめはどうなる事かと思ってたけどねえ」
使用人たちのお喋りを聞きながらエリンは心の中で頷いていた。
ジリアンは気丈な女性だ。皆がジリアンならば一人でも大丈夫だ、と思ってしまうくらいに。けれどそれはジリアンが人一倍優しく正義感が強く細やかな気配りができる人だからであって、そんなジリアンにこそ支えが必要だとエリンは思っている。自分が出来る事ならば何でもする覚悟だけれど、やはりジリアンには伴侶が必要だ。
エリンもはじめは侯爵を誤解して警戒していたが、どうやら彼は噂通りの人間ではないようだ。ちょっと垢抜けないけれど、素朴で真っ直ぐな人だ。ジリアンとは似合っているように思える。
彼らが上手くいくことによって屋敷の中の雰囲気も変わってくるのでは。そんな予感がした。
「フローラ、フローラ……?」
エリンの目の前をキャロルが横切っていく。
「キャロル様、ジリアン様……じゃない、フローラ様はお出かけしてるんですよ」
天気の良い日はジリアンがキャロルを傍に置き、話しかけながら雑草取りをする事も多い。悲しいことだが、このようになってしまった老人を塔や地下に閉じ込めてしまう貴族もいるのだ。キャロルは食事を一日何度も要求したり、突然屋敷からいなくなってしまうという事はまだない。だがキャロルの症状が進行しても、ジリアンは根気よく彼女に寄り添うような気がしている。
「お庭の草取りならば、あたしがしますよ」
「フローラはどこなの。フローラ、」
「ダントン夫人のおうちですよ。ルイーズ・ダントン様。フローラ様は夜には帰ってきますから、安心なさってください」
「フローラ……」
キャロルは気落ちしている風に見えた。庭にも出たがらなかったので、エリンは彼女を暖炉の間の揺り椅子に座らせ、本を読んでやった。やがてキャロルは居眠りを始めたので、エリンは自分の仕事に戻った。
水汲みを終え繕いものを済ませてから暖炉の間に戻ると、揺り椅子にキャロルの姿がない。自室へ引っ込んだのだろうかと見に行ったが、キャロルはそこにもいなかった。庭にもいない。
「え、ちょ、ちょっと……キャロル様ー!」
叫んでも返事はなく。他の使用人と手分けして探しても、キャロルは見つからなかった。先程キャロルに徘徊する様子は見られないと思ったばかりだったのに。
念のためにと見に行った厩舎で、ディーンの使った馬以外にもう一頭が消えている事に気づくと、エリンは目眩を覚えた。
*
「この調子なら、二、三日中には終わりそうだな」
「侯爵様が力持ちで助かりましたよ」
「ああ、俺たちだけじゃもう一週間はかかってたかもしれねえ」
「ずいぶん大げさだな。そんなに持ち上げられると俺は調子に乗ってしまいそうだ」
「じゃ、明日には終わりそうだな」
「おいおい」
「あははは! 冗談ですって」
夕暮れに差し掛かり、水路の補修はここまでとなって、ディーンたちは後片付けを始めていた。
捲っていたシャツの袖を下ろした時に、シャツもズボンもブーツも泥まみれな事に気づき顔を顰める。明日はもっと汚してもよい服を着て来なくては。屋根裏部屋を漁れば襤褸切れのような服が出てくるかもしれないが、それではジリアンに物乞いみたいな服を着るなと怒られてしまうかもしれない。想像してふと笑みをこぼした時、
「おい、なんか来るぞ」
「ほんとだ」
皆の視線に倣えば、何かがこちらへ向かってくるところだった。馬に乗った人物のようだ。ドレスをひらひらと靡かせている事からして、女だろう。白馬に乗った女がこちらへやって来る。
「……あれ、もしかして、侯爵様んとこの……」
「え、ば、ばあ様!?」
キャロルはどう見ても自分一人で馬を操っている。彼女が元気だった頃はそんな姿を目にしていたが、今のようになってしまってからはそれも無かった。
ひょっとして、とうとう徘徊まで始まってしまったのだろうか。屋敷の使用人たちは今頃焦って彼女を探しているかもしれない。どうにかして馬を止めさせ、屋敷に連れ帰らなくては。というディーンの懸念を余所に、キャロルは絶妙な手綱捌きで土埃を上げながらディーンの横に馬を止めた。
「エディ! ……じゃない、ディーン! フローラ……じゃない、ジリアンが大変だよ!」
「ば、ばあ様?」
キャロルが自分を失い始めてすぐの頃は、時折覚醒することもあった。しかし最近はそれも全くない。久しぶりに自分を取り戻したのだろうか。それともこれは新しいタイプの錯乱なのだろうか。
「何をぼやぼやしてるんだい。あんたの嫁が大変だって言ってるだろう!」
そう怒鳴りつけるキャロルは、まぎれもなくかつてのくそばばあであった。白馬に乗ったくそばばあだ、とディーンは心の中でひとりごちてみる。
「ばあ様? いったい……」
「いいから早くお乗り! ジリアンが殺されてもいいのかい!」
「殺されるだって……?」
「そうさ! あいつの家に行ってしまったんだ! 今度こそ殺される!」
──あいつだよ! あいつがやったんだ!
──また、誰か死ぬよ
やはりキャロルは何かを知っていたのだろうか。彼女の訴えには根拠があったのだろうか。
「ばあ様、あいつ、とは……?」
「だから早く捕まえろって言ったんだ! あいつだよ! ルイーズ・ダントンだよ! あいつがアーサーもクライヴも殺したんだよ!」
「な……なんだって!?」
ルイーズが父と兄を殺し、ジリアンまでをも手にかけようとしている……? すぐには信じられなかった。むしろ祖母の錯乱の方を疑ってしまう。
「アーサーが死んだときは確信はなかった。だがクライヴの時に彼らは殺されたんだって、わたしは思ったね。次はわたしの番かもしれないじゃないか! わたしは自分を守っていただけだよ!」
「え、ちょ、ちょっと……では、ばあ様は」
「演技も疲れるもんだね! けど、あの娘は私の世話をしてくれた。いい娘だよ……ほら、早くお乗り!」
「わ、分かった」
目まぐるしい展開に思考が追いつかない。
ルイーズが殺人を犯したという話はまだ信じられないが、ジリアンの無事を確かめたい。彼女をダントン邸に送り出してしまったのは自分の責任でもあるのだ。
ダントン邸の門は解放されており、キャロルは馬車回しのところまで馬を走らせた。ディーンが飛び降りて呼び出しベルの紐を引こうとした時、
「あっ、侯爵!」
「ディーンぼっちゃん!」
エリンとマーカスが馬に乗ってやって来たところだった。
「侯爵、大変なんです! キャロル様がいなくなって……ひょっとしたらジリアン様を追いかけてここに来たんじゃないかって……ごめんなさい! あたし、ちゃんと見てなくって」
「わたしが何だって?」
「うわっ、キャロル様!?」
馬上から声をかけられたエリンは驚いてすてんと後ろに転んだ。
「キャロル様……?」
マーカスも目を見開いたまま呆然とキャロルを見上げている。
「あんたたち、説明は後だよ。ディーン、早くルイーズ・ダントンを呼びな」
「は、はい」
ベルを鳴らすとダントン家の使用人が顔を出した。ルイーズとジリアンは奥の客間にいるという。突然の四人の来客、しかもその顔触れにダントン家の使用人は驚いていたようだが、客間へはすんなりと通してくれた。
だがジリアンがいるはずの客間には誰もおらず、テラスへ続く扉が開けられており、それは風でキィキィと揺らいでいた。
「妻は本当にこの部屋に入ったのか」
「は、はい。間違いございません」
使用人たちにすべての部屋を探させたが、ジリアン、そしてルイーズの姿はどこにもなかった。
「あんたたち、何か隠してるんじゃないだろうね」
キャロルが凄む。その時テラスから裏庭へ下りていたマーカスがディーンを呼んだ。そして花壇を指さして見せる。様々な花が植えられており、種類の違うものを綺麗な石で仕切っていた。
「この石は……」
「はい」
黒くてすべすべした、平べったい石。
ジリアンの部屋の窓に、脅迫文と共に投げ込まれた石。
同じものがルイーズの家の花壇にあったのだ。白いものや緑がかったものもあるが、皆すべすべしていて平たい石だ。
「主に河口で採れる石ですね。園芸用に売り買いされたり、持ち帰られたりすることもあるのでしょう」
「ああ……」
ディーンは目を閉じた。もちろん、こういった石を置いている家庭は他にもあるのかもしれない。だがルイーズが犯人だというキャロルの言葉は、ディーンの中で確信に変わろうとしていた。
ルイーズ。まさか、君が。だが何故。
ダントン邸の使用人たちを振り返り、ディーンは告げた。
「俺の妻に何かあったなら……君たちがルイーズを守ろうとして嘘をついているというのなら……俺は、全力でダントン家に関わる者たちを追いつめるぞ」
脅しめいた事は言いたくなかったが、こうなっては致し方ない。だが使用人たちは抱き合ってぶるぶると震え、首を振るばかりだ。泣き出す者までいた。では、使用人たちは何も知らないのだろうか。ジリアン、君はどこにいるんだ。ディーンが焦り始めた時、ダントン家の執事がやって来た。
「あの……関係があるかどうかは分かりませんが、うちの馬車が一台、消えております。轍を追えるかもしれません」
*
ジリアンはダントン家の馬車に乗せられていた。
男がいる扉の方に向かう訳にもいかず、テラスへ出る扉を開けようとがちゃがちゃしている隙に、後ろから捕まえられてしまったのだ。
そしてルイーズが何も言わずにその様子を見ていた事に気づき、やっと、彼女のしている事を把握した。男はルイーズに雇われていたのだ。では、林で追いかけてきたのも、カップに毒を入れたのも、ジリアンの部屋に石を投げ込んだのも、ルイーズの差し金なのかもしれないと。
ジリアンは向かいに座るルイーズを見た。ジリアンの手足は縛められてはいなかったが、ルイーズは小型のクロスボウをジリアンに向けている。馬車の操縦はあの男が担っていた。
「そのクロスボウ……」
「これ? そうよ。林で貴女を狙ったものと同じよ。放ったのはあの男だけれど。それからクライヴもそう」
ジリアンは目を見開いた。クライヴは落馬で命を落とした。殺されたのかもしれないと聞いてはいたが、ルイーズがやったとは思ってもみなかったのだ。しかも、クライヴはルイーズに恋をしていたというのに。
「クライヴの乗った馬に向けて放ったら、見事に成功したわ」
「で、では……ディーンのお父さまは……」
「ああ、あれね。とっても簡単だったわよ。主人が異国で買ってきた良く効く薬だって言って、毒を飲ませたの。たちの悪い風邪でもともと弱っていたから、思ったより早く死んでいったわ」
彼女はまるで今日の天気でも話題にするかのように、何でもない事のように喋る。無表情で淡々と呟くルイーズは、ぞっとするほど美しかった。
「な、なぜ……」
「何故、ですって? 貴女、まだ分からないの?」
ちっとも分らなかった。アーサーとクライヴを手にかけ、ジリアンの命を奪ったところで、ルイーズが得をすることなど一つもないように思える。今は恐怖よりも、どうして、という気持ちのほうが強い。
その時馬車が停まった。
「降りるのよ。早く」
クロスボウをお腹の辺りに突きつけられ、ジリアンは外に出るしかなかった。
馬車を下りてみれば、そこはハーヴェイ家の狩猟小屋の前だ。御者を務めていた男が窓ガラスを割って鍵を開ける。
「中に入って」
「こ、ここは……」
「ええ。うちで殺す訳にはいかないものね」
ジリアンはやはりクロスボウを突き付けられながら小屋の中へ入った。そしてルイーズはとんでもない事を言う。
「そこの貴方。ジリアンを殺す前に彼女と寝なさい」
「な……」
「おや。いいんですかい」
「さ、触らないでよっ」
男が舌なめずりしながらジリアンに触ろうとしたので、ジリアンは男の手をぴしゃりと打った。
「ジリアン。大人しくしてくれないと、困るわ」
ルイーズの持つクロスボウはジリアンを狙ったままだ。
「貴女は私が送ると言った申し出を断って、屋敷へ戻る途中にその男とここで逢引きしたの。情交の痕跡があれば、ディーンも貴女の不倫を認めざるを得ないでしょう? でも、別れ話がもつれて、あなた達は心中した。私はそういうシナリオにしたいの」
「ちょ、ちょっと待ってくれよダントン夫人。話が違うじゃねえか。なんで俺まで死ぬ事になるんだ」
「黙りなさい」
武器は男に向けられた。
「事情を知っている者を生かしておく訳がないでしょう? さあ、早くジリアンを抱きなさい」
「む、無茶言うなよ……この状況で出来る訳ねえだろ」
男とジリアン、ルイーズは交互にクロスボウを向ける。彼女は、ジリアンについてディーンを失望させたいらしい。ということは……いや、まさか。ルイーズは結婚している。夫とも仲が良さそうだったではないか。
「ジリアン! ここにいるのか!?」
考えを巡らせていると、懐かしい声がした。
「ディーン!」
「ジリアン?」
すぐにディーンの姿が現れる。エリンとマーカス、なぜかキャロルも一緒だ。だが彼らはルイーズが武器を手にしているのを見て、そしてそれがジリアンを狙っているのを見て、動けなくなった。
「あら、ディーン。来てくれたの?」
「君の馬車の轍を追ったんだ……」
微笑むルイーズにディーンは呆然としながら答えた。轍は途中で追えなくなったが、道は一本道に入っていたと。そしてハーヴェイ家の狩猟小屋の前に停まった、ダントン家の馬車を発見したのだ。
「そうなの……。でも、まだ、終わってないのよ。少し、待っていてもらえる?」
「ル、ルイーズ……君は、いったい何を……どうしてジリアンを……」
「私、最初は彼女を追いだすだけにしようと思っていたのよ? けど……林で恐ろしい目に遭わせても、脅迫文を投げ込んでもジリアンは出て行かなかったわ。だから、殺すことにしたの。あのパーティーの翌日、ジリアンのお葬式の準備をしているんじゃないかしらって、貴方の家に行ったのにジリアンはピンピンしているし、毒を飲んだのは貴方だって言うじゃない。危なかったわ。ごめんなさいね、ディーン。だから、回りくどいことは止めにしたの」
「な、なぜ……君は、ジリアンを……」
「もう。本当に鈍いんだから」
ルイーズはジリアンに武器を向けたまま、ディーンを見つめた。うっとりと、柔らかく。まるでここが教会の祭壇の前であるかのように。こんな時でも彼女は美しかった。
「ディーン、どうしてラガリエを離れて王都へ行ってしまったの? しかも、卒業して帰ってくるどころか、貴方は戦地へ行ってしまった! 私、貴方に女性が群がるのではないかと、気が気ではなくて……いろんな噂を流したわ。旅行へ行った先で、貴方に纏わる恐ろしい噂を」
「何だと……あ、あれは……君の仕業だったのか」
「ええ。私はそうするしかなかったの。けれど貴方がラガリエに戻ってくる様子はなかった。そこで、お父様とクライヴが亡くなれば、貴方は戻ってくるしかないわよね! 爵位を継がなくてはならないんですもの。でも、爵位を継いですぐに結婚するなんて思ってなかったわ……可哀想なディーン、貴方の本意ではなく、国王の命令だったのでしょう? だから私がジリアンを追い払ってあげようと思ったのよ」
狂気を孕んだ恋心を吐露されて、ディーンは愕然としている。ジリアンも、隣の男も、エリンもマーカスもだ。
「し、しかし……君はグレゴリーと……」
「そうよ。グレゴリー・ダントンと結婚すると言いに行ったとき、どうして止めてくれなかったの? ねえ、どうして?」
「俺は、十四歳だったんだぞ。それに……」
「酷いわ。私、結婚式の時も貴方が止めに来てくれるのではないかと、ずっと待っていたのよ? ダントン夫人となってからも、貴方が攫いに来てくれるのではないかと、ずっとずっと待っていたのに……でも、それも今日で終わりね」
「ルイーズ、待て……!」
ルイーズの指がクロスボウの引き金を引こうとした時、キャロルがさっと動いて狩猟小屋に置いてあったシャベルでルイーズの頭を殴った。矢は発射されたが床に突き刺さり、そしてルイーズは気を失って倒れたのだった。




