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22.迷路



 事情が変わったことをエリンに伝えなくては、と思ってはいたが、改めて口にするのは恥ずかしい。

 どのようにして伝えるべきかと迷っているうちに、エリンの方から訊ねてきた。


「あの……ジリアン様? 今朝、あたしがジリアン様のお部屋に洗顔用のお湯を運んだ時ですね、あの、そのー……」

 エリンは裸で眠っているジリアンとディーンを見てしまったのだという。

 あれから毎晩ディーンと眠っているが、ジリアンはエリンよりも早く起きる事があったし、エリンもエリンで手一杯の時は別の仕事を優先しなくてはならず、これまで発覚しなかったのだ。

 そして今朝、裸で眠る二人を見てしまったエリンは、何が起こったのかと驚き、どうしてよいのか分からずにそのままジリアンの部屋を後にしてしまったようだ。

「ええと、うん、あの。エリン、貴女に言わなくてはと思っていたんだけれど、なんだか、言い出しにくくて……」


 自分は自らの意思でディーンに抱かれた。三年経ったら離縁するという約束は反故になった。

 エリンに伝えると、彼女は複雑そうな表情を見せる。

「ジリアン様が侯爵をお好きだって言うんなら、この結婚の事についてはあたしはもう何も言いません。けど、ジリアン様は誰かに、その……」

「そこなのよね」

 ジリアンは誰かに命を狙われているようだ。だが理由が分からないから、対策の立てようがないのだ。この先ずっと皆と同じ食事を取れないままなのだろうか。一人では屋敷から出られないままなのだろうか。自分を庇ったせいでディーンやエリンが怪我をするのではないだろうか。そういった懸念が数えきれないほどずらりと並んでいる。


「エリン、もし貴女がこの屋敷にいるのが苦痛だというのなら……」

「いいえ! あたしはジリアン様とともにあります! 絶対ですよ!」

 このような状況である。エリンが辞めたいというのであれば紹介状を書いても良いと思っていた。或いは、自分の実家へ戻りたいのならば退職金を支払おうとも。

 農家の娘とはいえ、ジリアンと一緒に教育を受けていて読み書きも出来る。エリンならばハーヴェイ家の使用人でいる事よりも、もっと素晴らしい未来があると思っての発言だった。

「あたし、他の使用人の事もちゃんと観察してるんですけど」

 ディーンが毒を飲んでしまった事件から、エリンは他の使用人の行動にも目を光らせるようになったという。だが、どちらかと言えば皆「自分の食事にも毒が入っているのではないか」「また何かあるのではないか」と不安に思っているようだった。

「この調子では、また使用人が減ってしまうかもしれないわね……」

 幸い領民たちの耳には入っていないが、屋敷の使用人が減ると何か勘ぐられるかもしれない。それにエリンはもちろん、ディーンやマーカスの負担も増えていく。肩を落としかけた時、来客があった。




 屋敷の前でちょうど鉢合わせたらしいウォルターとルイーズが、連れ立って玄関ホールへやって来た。いつも軽いノリで機嫌のよさそうなウォルターだが、美人のルイーズに会えたことで今日は特に嬉しそうにしている。

 彼はディーンに「人妻だからな」と小突かれつつも、鞄の中から書類を取り出して見せた。


「臨時で雇った人たちの調査が終わったよ……いや、終わったというか」

 十人のうち、九人までしか身元が分からなかったのだ。

「一人は偽名で、住所も嘘のものだった。ここに女性が五人分と、男性四人分の書類がある」

 そこで皆が顔を見合わせる。パーティーの当日に臨時で雇った人間がカップに毒を入れたのだとしたら、偽名を使った者に違いないと皆が思ったようだ。ウォルターは九人分の書類をジリアンに見せる。そして全員の顔を思い出せるかと訊いた。

 ジリアンは彼らの顔を良く見た筈である。特にディーンの事を口止めしようとして集めた時。だが書類に記された彼らの情報を見ながらその顔を思い浮かべようとしても、すぐには浮かんでこなかった。見たら思い出せるはずなのに、自発的に思い浮かべるのは難しい。


「もう一度彼らの顔を見たら、分かるはずなんだけど……」

 そう呟いてはみたが、身元のはっきりしている九人の顔を見たところで、限りなく怪しい人物の顔を思い出せるかどうかと言えば、それも厳しい気がした。

「でも雇った人のうち、五人は女性だったわ。そして男性が五人。そのうち三人は庭師の方で、芝生の手入れをしてもらったのよ」

 庭木を軽く剪定してもらった他、人間チェスをするために、芝生をチェス盤のように刈ってもらったのだ。

「その人たちはパーティー当日の朝に仕事を終えたの。だから夕方にはいなかった」

 毒を入れたカップが朝から用意されていて、それを他の誰かがパーティー終了後にジリアンの元へ運んだとは考え難い。庭師の三人は除外してもいいだろう。

「……となると、だいぶ絞れるね」

 ウォルターは書類をばさばさと整理する。しかし、身元の分からない人間を追う事は難しい。グラウツの街で募集をかけたのだから、街に出入りする人間ではあるのだろうが、ジリアン毒殺に失敗した後は行方をくらませてしまっているかもしれない。


「話の途中で悪いんだが」

 ディーンが懐中時計を取り出して時刻を確認した。彼はこれから水路の修理に向かう事になっているのだ。夕暮れまで作業を進めるつもりだから、帰りは暗くなってからだと言う。

「最近は危険な目にも遭ってないが……ジリアン、充分気を付けてくれ」

「ええ」

 ジリアンが頷いた時、ルイーズが「あ、そうそう」と言ってポンと手を打った。

「私、今日はジリアンをお借りしようと思って来たのよ。昨日から主人が出掛けていて、話し相手が欲しかったの。ジリアンはうちに来たことがないでしょう? それで、お誘いしても大丈夫かしらって」

「君の家か」

「ええ。私の乗って来た馬車はまだ待たせてあるわ。もちろん、帰りもしっかり送らせてもらうわよ」

「ジリアン、どうする」

 ジリアンは、ディーンがまず自分にどうしたいかを訊ねてくれたのが嬉しかった。ここで彼が勝手にルイーズに返事をしていたら、ジリアンの性格上カチンときていたかもしれない。

「ルイーズの家、行ってみたいわ」

「きっと、うちの三倍は使用人がいるぞ」

 ハーヴェイ邸が少なすぎるだけなのだが、それでも十人以上が仕えているのならば、商人としてかなり成功している家なのだろう。ラガリエに来てからどこかの屋敷に招待されるのは初めての事だったので、ジリアンはこの訪問を楽しみに思った。




 ダントン邸は白い大きな建物で、庭は手入れされ輝くように花が咲き誇っていた。

 ディーンは使用人の数は三倍と言っていたが、もっといるのではないだろうか。ハーヴェイの屋敷の方が広さはあるが──そもそもハーヴェイ邸は屋敷の殆どを封鎖している状態だ──ダントン邸は隅々まで手が行き届いている。清掃はもちろん、壁や天井の装飾、古いがぴかぴかに磨かれた調度品。ダントン夫妻の趣味の良さが窺えた。


 応接間に通してもらうと、毒混入事件を知っているルイーズは、わざわざキッチンに出向いて自らがお茶を運んでくれる。

 ティーポットに添えられたルイーズの白くて細い指。金の髪はゆったりと結い上げられているが、解れている部分からはちっともだらしなさを感じさせない。ディーンの兄、クライヴが思いを寄せていた人。


「貴女って、本当に素敵ね」

 ジリアンは思わず呟いていた。ルイーズはびっくりしたように瞳を丸くして、それから笑った。

「私は貴女の方が素敵だと思うわ。髪……前よりも緩く纏めているのね」

「え、ええ」

 ディーンはジリアンに髪を下ろして欲しいようだった。だがジリアンは侯爵夫人としてのんびり構えていられる状況でもなく、繕いものをしたり、自分の食事を作ったり、キャロルの花壇の草取りをしたりといった雑用もこなしている。髪を下ろしていては仕事に差し支えるのだ。

 緩めに纏めると髪の多さが際立つが、頭皮が引っ張られて痛みを感じる事もない。ジリアンなりの譲歩であった。

「ひょっとして、ディーンのリクエストなのかしら」

 ジリアンの態度が分かりやすかったのか、ルイーズはくすくすと笑う。

「上手くいっているようね。良かったわ」

「でも、問題は山積みよ」

 パーティー以来ナタリーは気落ちしていてあまり姿を見せないし、キャロルもあのままだ。パトリックはやはり一人で勉強している。ディーンと領民の距離が縮まったのは喜ばしいことだが。

「そうよねえ……その身元の分からない男の顔は、覚えていないのね?」

「ええ……会えば分かると思うのだけれど」

 修道院にこもらず社交界に出ていれば、もっと人の名前と顔を覚える能力が身についていたかもしれない。今のハーヴェイ家は社交界からも避けられている節があるから、他人の地位や名前、顔を覚えておかねばという意識も低かった。自分の認識が甘かったのだというようなことをジリアンが呟くと、ルイーズは慰めるように首を振った。

「でも、あの日は初めて顔を合わせる領民もいた訳でしょう? 情報量が多すぎて、貴女の頭の中は余裕がなかったのだと思うわ」

「そう言ってもらえると、救われる気がするわ」

 ルイーズは美しい上にとても優しい。クライヴが惹かれたのも分かった気がした。


 夕刻近くになると、ルイーズはジリアンに夕食もうちで食べていってくれと言った。

 彼と本当の意味で夫婦になって以来、ジリアンは彼と一緒に彼の部屋で夕食を取っていたが、ディーンは今日遅くなると言っていた。先に食べてしまう事に気が引けたが、ルイーズの誘いである。ディーンも分かってくれるだろう。

 彼が食事を取る時に、自分は向かいに座って飲み物だけでも付き合えば良いだろうか。そう考えて頷くと、ルイーズは調理の監督をするから、主人自慢の庭でも見ていてくれと言う。ルイーズの屋敷の人間がジリアンに毒を盛るとは思えない。ジリアンは恐縮したが、ルイーズは「貴女には安心して欲しいから」と譲らなかった。


 彼女の気遣いを有難く思いつつ、ジリアンは庭へと出る。ダントン邸の庭は素晴らしいものだ。なにか参考にするようなことを見つけられれば、キャロルの花壇に活かせるかもしれない。そしてキャロルが新しい事を忘れていく速度を、遅らせることができるかもしれない。ジリアンはそう考え、庭を見て回った。




 ダントン邸の庭の生垣は迷路のように張り巡らされ、中に入ってしまったら迷って出られなくなるのではないかと不安になる。だが、見上げれば庭の中央部には二階建てのガゼボが設えられている。あそこに行って上から庭を眺めてみるのも良いかもしれない。


 ガゼボを目指す途中、庭師が剪定作業をしている所を通り過ぎる。

 広い庭に人の気配があることにほっとした。だが、何か違和感を覚えてジリアンは庭師を振り返った。彼は植木ばさみを使って生垣を整えている。普通の光景だ。

 すると、庭師は植木ばさみを脇に置いて、ゆっくりと立ち上がった。何か。何かがおかしい。このまま立ち止まっていてはいけないような気がして、ジリアンはドレスの裾を掴むとその場から走り出した。


 生垣の迷路を急ぎ足で進む。

 生垣はジリアンの頭よりも高いから、左右の様子は確認できない。だが、ガサガサという音だけが自分の後を追ってきている。走りながらジリアンの胸にはある時の感覚が蘇っていた。


 これは、ハーヴェイの屋敷の裏手の林で、誰かに追いかけられた時と一緒だ。

 繁みをかき分けてドレスにかぎ裂きを作り、小川で転んで、それでも逃げたいと思うほど恐ろしい何か。あの時と一緒なのだ。


 角を曲がると、ガゼボが目に入った。二階建てのガゼボの上に登れば、出口までの順路を確認できる。だがそんな事をしていては、あの男に追いつかれてしまう。

 ジリアンはガゼボを通り抜け、迷路の先に分け入った。

 右、左、左、ただ直感で生垣の中を進む。途中、飛び出していた枝にドレスを引っ掛け、ビリリと音がした。だがドレスの損傷を確認している余裕はない。


 なにもかもがあの時と一緒だ。今はとにかくこの生垣の迷路を脱出しなくては。

 何度か角を曲がった時、ジリアンの目の前は行き止まりであった。緑の繁みは無情にも壁のように立ちはだかっている。思い切って突っ込んでみようかと考えるも、下部は細かい木の枝が密集しているように見えた。


「おい、侯爵夫人よ」

 後ろから呼びかけられてジリアンは息をのんだ。男は植木ばさみを持ったまま迷路に立ち塞がり、ジリアンの行く手を阻んでいる。もうこうするしかない。ジリアンは生垣ではなく、男に向かって肩から突進した。

 ジリアンの行動は男の想定外のものだったのだろう。男は鋏を構える間もなくよろめいた。ジリアンは再び走り出す。


 対峙した時にはっきりと思い出した。あれは、ガーデンパーティーの時に臨時で雇った男だ。だが庭師として雇ったのではない。テーブルや椅子、ワイン樽の運搬を頼んだのだ。

 彼はパーティーが終わるまでハーヴェイ邸にいた筈。ジリアンのカップに毒を入れたのはあの男なのではないか。それに、林でジリアンを追いかけてきたのも。

 夢中で何度か角を曲がると、急に視界がひらけたのでジリアンはあの時のように前のめりに転んでしまった。

「ジリアン!? 大丈夫?」

 あの時目の前に現れたのはディーンであったが、今回はルイーズだ。

 ここは彼女の家なのだから当たり前でもあるが。ジリアンは足をもつれさせながらなんとか起き上がると、ルイーズに抱きついた。

「ああ、ルイーズ!」

「貴女が迷路で迷ってしまったのではないかと思って、様子を見に来たのよ。結構入り組んでいたでしょう。それに、大丈夫? 怪我はしていない?」

 彼女の気遣いは有難かったが今はそれどころではない。殺人鬼かもしれない男がダントン邸の庭に潜んでいるのだ。

「た、大変よ! 私のカップに毒を入れた男が、貴女の庭にいるのよ!」

「なんですって……?」

 ルイーズは美しい顔をぴしりと強張らせた。




 ルイーズは腕を組みながらうろうろと歩いている。

「では、その男は庭師に変装してうちの庭に潜んでいたという事?」

「そういう事になるのかしら……」


 外は危険だからと、二人はダントン邸の奥の間で今起こったことを話し合っていた。

 庭の迷路はグレゴリーの趣味であり、手入れについてルイーズは詳しく知らないようだった。

「迷路の生垣については、グラウツの街の業者に頼んで手入れしてもらっているみたいだけれど、それ以上の事は分からないの」

 だから毎回同じ人間か来るのかどうかもルイーズは把握していなかった。

「お役に立てなくてごめんなさいね」

「いえ、いいのよ」

 これほど豪奢な屋敷だ。手入れや維持の方法について一つ一つ細かく覚えていろと言う方が難しい。

「でも、うちの執事や家政婦ならば分かるかもしれないわね」

 ルイーズは静かに扉の方へ向かった。ドアノブに手をかけて、ジリアンを振り返る。

「ジリアン。その男の顔、まだ覚えている?」

 覚えているはずだ。しかし何故あの男がダントン邸に潜んでいたのだろう。ジリアンが今日ダントン邸にやって来ると事前に分かる訳がない。訪問は急に決まったことだし、その時ジリアンの近くにいたのはディーンとウォルター、ルイーズだけだ。あとはエリンとマーカスに出かける事を伝えたが、まさか彼らの中の誰かが……いいえ、そんな筈はない。

 たぶん、あの男の元々の職業が庭師なのだろう。あの日は身元を偽ってハーヴェイの屋敷に来ていた。どうしてジリアンを狙ったのかは分からないが、きっとそういう事だ。

 ジリアンはルイーズの顔を見ながらこくこくと頷いた。

「覚えているわ。それに、もう一度見たら確信できる」

「そう……では、」

 ルイーズは表情を変えずに扉を開ける。


「その男、こんな顔だった?」

 扉から現れた男を見て、ジリアンは悲鳴を上げた。




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