21.たった一人の
ジリアンがラガリエを去ること前提で動いているのは分かっていた。
彼女が侯爵夫人となってしまったことで命を狙われたのならば、申し訳なく思うし、全力でジリアンを守りたいと思う。だがジリアン個人が狙われているのだとしたら──彼女は他人の恨みを買うような性質ではないように見えるが──ディーンと離縁して、生家や修道院に戻っても彼女が狙われるのだとしたら、そんなのは嫌だ。
「俺は君と他人になりたくない。君に対して責任ある立場でいたい」
その時不思議な事が起こった。
ジリアンの頬が朱に染まったのだ。彼女は口をぱくぱくさせたが、結局は何も言わずに閉じてしまった。
「ごめん。また、偉そうなことを言ってしまった。俺は君が頼りたいと思えるような立派な男じゃないっていうのに」
「わ、私は別に……」
ジリアンは空いた食器をトレイに乗せ、さらにそれをワゴンに移す作業を始めた。が、食器がガチャガチャぶつかるだけで作業はちっとも進んでいない。しかも彼女らしくもなく、フォークを床に落とした。カシャンという鋭い音でディーンも我に返る。
ジリアンに給仕をさせておいて、何を偉そうに自分は黙って見ていたのかと。もう病人というほどでもない。
「あ、悪い。手伝うよ」
立ち上がってジリアンの脇に立てば、彼女は息を吸い込んで飛び上がる。きつくひっつめた髪の生え際まで真っ赤であった。ディーンはようやく気が付いた。ジリアンの頬が赤くなったのは、偉そうな自分に怒りを覚えてのことではなかったのだと。
ひょっとしたら彼女は照れているのではないかと。
「ジリアン?」
「わ、私は別に……貴方を頼りないと思っている訳ではないわ」
ジリアンはディーンからぱっと顔を逸らし、再び不器用な片づけを始める。
「ジリアン……君はひょっとして、照れているのか?」
ストレートに訊ねると、ジリアンの手元でガチャン!と大きな音が鳴った。
「わ、悪かったわねっ」
彼女はそう言って、ワゴンを置き去りにして出て行ってしまった。ディーンは彼女が閉めた扉を見つめながら思った。彼女には以前、同じセリフを吐かれた事が何度かある。狩猟小屋で図らずも関係を持ってしまった時もそうだった。あの時はジリアンのことをなんて可愛げのない女だと思ったが。
その時もう一度扉が開いて、ジリアンが顔を覗かせた。
「その不味い薬、ちゃんと飲みなさいよね」
それだけ言って扉は再び閉められる。
なんて可愛いんだ。今日は何故だかそう思えた。
*
君は一人しかいない。
ディーンの言葉はまっすぐにジリアンの胸に響いた。もちろんジリアンという人間は一人しかいない。だがディーンが言ったのはそういう事ではなく……ディーンにとってたった一人の女性はジリアンだと、彼がそう言っているのが分かったからだ。
ジリアンはディーンを頼もしい存在だと思った事がある。あれは、意図せず関係を結んでしまった時の事だ。あの時のジリアンはとても参っていて、ディーンの存在が力強く、有難く思えた。
落ち着いてディーンと距離を取ってみても、やはり彼は力強い存在であった。予想外の事が起きても、みっともなく慌てふためくことは無い。なんとなく、ディーンがいれば大丈夫だ、と思わせる何かがある。いや、もしかしたらそんな風に思っているのは自分だけかもしれない。だがジリアンにとってディーンはそういう存在になりつつあったのだ。
「侯爵様! 怪我しなすったんだって?」
「もう歩いて平気なんですか」
領民たちがやって来たのはその翌々日のことであった。ディーンは捻挫をした事になっているから、彼らの前では足を気遣うように歩いて見せる。
「ああ。出直させて悪かったね。さっそく打ち合わせに入ろうか」
彼は領民たちをテーブルの置いてあるウッドデッキの方へと誘い、マーカスに用意してもらった書類を見ながら修理の必要な井戸や水路について話し始めた。
彼らにお茶を出した後もジリアンはその様子を見守っていたが、領民たちはやや緊張感している。当たり前だ。議題は井戸や水路についてで、修理は必要だが緊急性のあるものではない。それを領主の屋敷で領主を交えて話しているのだ。
普通の領地であれば、領民が共有して使っているものについて管理したり相談に乗ったりする役目の人がいるのだろう。だが今のラガリエは普通とは言えない。小さなことでも一つ一つ真摯に対応していかなければ、領民からの信頼は得られない。
やがて領民たちも緊張を解いて、笑い声も混ざる様になってきた。パーティーを開いたのは間違っていなかったようだ。こういった事を積み重ねていけば、ディーンはジリアンがいなくとも統率者として周りから認められていくだろう。
初めは彼を置いてここを去るつもりであった。後継ぎをもうける事もせず、陰気くさい場所にディーンを置いていくことに罪悪感を覚えたジリアンは、ならばせめて領地を活気づけよう、それが自分の役目だと勝手に目標を立てた。ここを出て行く時に目標が達成されていれば、罪悪感が払拭される気がしていたのだ。
今でも屋敷の使用人は少ないままだし、住人達の仲が良いとはとても言えない。おまけに何者かがジリアンの命を狙っていて、不思議な現象もよく起こる。だがディーンと領民の距離は縮まった。これは大きな進歩だ。
この調子ならば、自分がいなくとも彼は立派にやっていけるはずだ。晴れ晴れとした気分の筈なのに、ジリアンの胸はちくちくと痛んでいた。
デッキを離れ、肖像画の廊下を歩く。あまり見ないようにしていたが、視界の端に映ってしまったものに違和感を覚えたジリアンは、思わず初代ハーヴェイ侯爵の肖像画を見直してしまった。
ディーンと同じような黒髪。男性にしては長めの髪。伸びたと思った分は以前見た時と変わりないように思えた。視界の端でとらえただけなのに、どうしておかしいと思ったのだろうと眉間に皺を寄せた時、
「……あ」
唐突に気付いてしまった。
初代侯爵のスカーフ留めについた宝石の色が変わっているのだ。前は赤い石がついていたのに、青になっている。
風が入って、廊下に置かれた観葉植物の葉がさらさらと音を立てた。
びくっとして振り返ったが廊下には誰もいない。またどこかからナタリーが現れて「ほうらね」と得意げにククッと笑いそうな気もしたが、彼女はパトリックに責められて以来少々萎れ気味で、自室にこもっている事が多くなった。
絵の具が劣化して色味が変わったのだろうかとも考えたが、その部分だけというのは不自然だ。もう一度初代侯爵を眺めたが、以前のように薄気味悪いとは思わなかった。
次に見た時に変化があったら怖いのであれ以来じっくりと見たことは無かったのだが、ついでに歴代侯爵の肖像画を見て回る。
八代目は軍人だったのだろう。甲冑に身を包み兜を抱えたポーズで描かれてある。ジリアンはあまり戦場に詳しいわけではないが、八代目の頃の甲冑は今とはデザインもだいぶ違うようだ。
十三代目の侯爵は妻と一緒に描かれていた。黒髪ではあるもののあまり貴族らしくない、少々危険な雰囲気のいい男で、その妻は銀髪の可愛らしい女性だった。
ずいぶんと若い侯爵や侯爵夫人の肖像画もあるが、プレートに記された死没年月日を見るに、飾られているのは必ずしも晩年に描かれたものではないようだった。
そのまま端の方まで歩き、二十三代目のクライヴ・オーソン・ハーヴェイの前で止まる。ディーンとはあまり似ていない、優しげで知的な感じの人。実際はどんな人だったのだろう。ディーンにとってはどんな兄だったのだろう。それに父親のアーサーは、本来のキャロルはどんな人だったのだろう。
この一年足らずの間にディーンが失ったものを思うと、やけに切なくなった。
ジリアンはこの屋敷を離れたいと思わなくなっていた。このまま侯爵夫人としてディーンを助け、彼の痛みに寄り添いたいとすら感じている。
そう遠くない未来にディーン・ラクリフ・ハーヴェイ二十四代目侯爵の肖像画が掛けられるのではと、ぞっとしたことがあるが、まさか自分の方が棺桶に近かったとは。
ジリアンが自分の気持ちの変化を告げたら、彼は喜んでくれるだろう。そして全力でジリアンを守ろうとしてくれるだろう。だがその事で彼がまた毒を飲んでしまったりしたら。窓ガラスに投げ入れられた石が彼の頭に当たったら。自分を庇ったせいでディーンに何かあったら。ジリアンは自分を許せなくなるだろう。
数日後の夜、ディーンは怪我をして帰ってきた。彼はこの日領民たちと一緒に井戸の修理をしていたのだ。その時、金具に指を挟んでしまったらしい。
「貴方まで一緒になって大工仕事をしたの?」
ディーンの親指の爪は一部が黒く変色していて、爪の際には血が滲んでいる。
監督業務に赴いたのだとばかり思っていたジリアンは、彼の怪我の手当てをしながらそうぼやいた。
「君に言った事があると思うが、俺は軍人の頃から中身の伴わない立場にあったんだ。指図だけして見てるというのは、どうも気が引ける」
「村の人が恐縮してしまわなければ、それでもいいと思うけど」
「最初はびっくりされたけどね。最後の方にはだいぶ打ち解けたよ。そうそう、この前のパーティーに来てなかった人も今日は集まってた。彼らとも話をしたよ」
ディーンは嬉しそうに報告する。彼と領民たちとの関係は、このまま上手くいきそうだ。そして水路の修理には来週から取り掛かるという。井戸の方は一日で終わったが、水路はそうもいかないらしい。
「来週は俺のいない日が増える。君は屋敷を離れないで、エリンかマーカスと共に行動してほしい」
ディーンが倒れて以来、屋敷の住人が何かを食べて気分が悪くなったり、窓ガラスが割られたり、脅迫めいた手紙が投げ入れられる事は起きなくなっていた。
ウォルターからは中間報告が届いていて、臨時で雇った十人のうち、五人の身辺調査が終わっていた。財政状態や家族構成、友人関係に普段の行動範囲まで調べてあったが、特に妙なところはなかった。
「忘れた頃に、何か起こるかもしれない」
「忘れた頃と言えば……初代侯爵の肖像画があるでしょう? スカーフ留めが青色に変わっていたの」
「スカーフ留めだって?」
「ええ。前は赤い宝石がついていたでしょう」
そこでディーンは首を傾げた。
「……そうだったっけ」
なんと彼は覚えていないようだ。装飾品の類に目がいかないのも彼らしいと言えば彼らしい。呆れるべきか笑うべきか分からずに、ジリアンはディーンの手当てを終えて立ち上がった。
それからテーブルクロスを洗濯に出しておこうと思い立ち、テーブルに掛けられた桃色の布に手を伸ばした。
ディーンの私室に桃色の布というのも似合わぬ代物だが、彼は用が足せれば色やデザインは全く気にしない性質だし──少しは気にして欲しいものだが──使用人の手が回らないから、前回洗いに出したものがまだ出来上がっていなかったのだ。
仕方がないので普段はキャロルかナタリーの部屋で使っているであろうこの桃色の布を、ジリアンは手に取ったのだった。
テーブルからばさりと布を剥がした時、
「思い出したぞ!」
ディーンが叫んだ。
彼が言っているのはスカーフ留めの宝石のことかとジリアンは思った。振り返れば、ディーンはジリアンを初めてみるような表情で凝視している。
「ジリアン、君は……」
「ど、どうしたの」
ディーンはゆっくりと腕を持ち上げ、ジリアンの手にした桃色のテーブルクロスを指した。
「君は、ぶりぶりのピンクのドレスを着ていたんだ……!」
腰掛けていた椅子から立ち上がり、大股でジリアンの方へ歩いてくる。
「そうだ。俺はテーブルいっぱいの料理にはしゃいでいて……まるで髪の毛がドレスを着てるみたいな、そんな女の子と目が合った」
「な、なんで……」
なんで今頃思い出すのよ。しかも、着ていたドレスまで。十一歳のジリアンでもあのドレスは自分に似合わないと知っていたのに、母親に押し切られたのだ。
「君は、はっきりした顔立ちの可愛い女の子だった。君のような子を見た事がなかった俺は、びっくりして……」
「びっくりして、私を『陰毛のお化け』だって言って、飴玉を投げつけたのね」
「ご、ごめん」
「ネズミや鳥が住んでいそうな繁みとも言われたわ」
「本当に、俺は悪ガキだった」
「私の髪の毛をどうこう言った人は、みんな禿げればいいのよ」
「え? いや、うん……その罰は、甘んじて受けよう」
今のディーンにその兆候はないし、歴代侯爵の肖像画からみても、そういった家系ではなさそうだ。だがディーンはジリアンの悪態を、頭を垂れ身体の脇で拳を握り、これ以上ないほど厳粛な態度で受け止めようとしている。ジリアンが念じたぐらいで彼の髪が抜ける訳はないのだが。ジリアンが危惧していたように「昔のことを根に持ちすぎだ」とは言わなかった。
「……でもやっぱり、貴方は髪の毛があった方がいいと思うわ」
「俺は、君の気が済むならなんでもするよ」
「では、では……」
考えながらも、ジリアンには分かっていた。自分はとっくにディーンを赦していたのだ。
ジリアンは手にしていたテーブルクロスを脇に置くと、「ついてきて」と言って自室へ続いている扉を開けた。そして鏡台の前に座る。ディーンが後ろに立ったのが鏡越しに分かった。
「私の髪を梳かしてくれたら、赦してあげるわ」
そう言って後ろに手をやり、髪の毛を留めているピンを外した。
「この櫛を使ってもらえる?」
ジリアンは鏡台の上にあった目の粗い櫛をディーンに渡した。
「……俺が触っても、いいのか?」
「ええ。触らないと、梳かせないし」
ディーンは躊躇っていたが、ようやく手を伸ばし、だが櫛は受け取らずにジリアンの螺旋の繁みに指を差し込んだ。まるで空気を含ませるようにふわふわと持ち上げては、その感触を確かめているようだ。
「素晴らしい髪だ」
そう呟くとジリアンから櫛を受取って、やっと作業に取り掛かった。力任せに櫛を引き下ろしそうな印象のディーンであるが、彼はそうはしなかった。壊れものでも扱うようにジリアンの髪を優しく梳かしていく。
「もっと力を入れても大丈夫よ」
「ああ。けど……加減が分からなくて。君を痛がらせたらと思うと」
「もう少し力を入れてくれないと、くすぐったいのよ」
すると、それまで頭皮を撫でるように弱々しく滑っていた櫛に、少しだけ力がこもる。鏡越しにディーンを見ると、彼は真剣な表情でジリアンの髪を梳いている。彼を知らない人がこの顔を見たら、びっくりして逃げ出すほど険しい顔だ。だがジリアンはなんとなく微笑んでしまっていた。
「次は、このオイルを髪全体に伸ばしてつけるの。それから、今度はこっちのブラシで梳かして、最後は指で整えるの」
「女性は色々と大変なんだな」
「あら。男が何もしなすぎるのよ」
「兄はお洒落が好きだったよ。華美なものは避けていたけれど、身に着けるものは拘ってたな」
「……貴方の、お兄さん」
「ああ」
知的で優しそうなクライヴ・オーソン・ハーヴェイ。肖像画のクライヴが身に着けていたシャツと上着は、派手ではないが彼の持つ雰囲気を最大限に際立たせるようなものだった。自分に似合うものをよく知っているのだろう。
「兄は、ルイーズに惚れていたんだ」
驚いて顔を上げると、鏡越しにディーンと目が合った。意外であったが幼馴染なのだから不思議はない。
「彼女の結婚が決まった時、兄はまだ十六歳の学生だった。どうにもならなかったよ」
「ルイーズは、その事を……?」
「いや。兄は伝えていなかったと思うし、彼女も気づいていなかったと思う。兄は優しすぎて、押しも弱かったしな」
十六歳であったのならば、淡い恋だったのかもしれない。だが若さに任せた情熱的なものだったかもしれない。クライヴはどんな気持ちでルイーズを見送ったのだろうと思うと、胸が苦しくなった。想いを伝える事なく、亡くなってしまった人。……自分もそうなるのだろうか。自分はディーンに気持ちの変化を伝える事なく、ここを去っても──或いはこの世を去ることになるかもしれないのだ──いいのだろうか。
「会ってみたかったわ、貴方のお兄様に」
「案外、君とは気が合ったかもな……こんな感じでいいか?」
「え、ええ」
ディーンが髪全体にオイルを伸ばし終わったようだったので、ジリアンはブラシを手渡す。ディーンは先程よりも手際よくなっていて、頭皮を擦られたジリアンはため息をついた。
「あの、わ、私……」
伝えようと思うとどうしても口調が硬くなった。が、
「君の髪の中になら住める」
ジリアンの髪を梳かしながらディーンが呟いた。過去のフォローのつもりなのかどうかは分からない。
「もうちょっとまともな事は言えないの」
「賛辞を贈ったつもりだったんだが」
ジリアンが笑うとディーンも笑った。ディーンがブラシを鏡台に戻し、ふと、彼の両手がジリアンの肩に置かれた。
「そのまま……聞いてくれ。兄がルイーズに気持ちを伝えずこの世を去ったことを思うと、もう一度言っておきたい。俺は、君が好きだよ。確かに俺たちの結婚は国王の命によるものだった。けど、俺は最初に名が挙がったのが君で本当に良かったと思っている」
大きな手は温かく柔らかに両肩に置かれている。彼に応えるのならば今なのだろう。
「わた、私……」
声が掠れた。ディーンと目が合ってしまうのが、そして赤くなっているであろう顔を見られるのが照れくさくて、ジリアンはぱっと俯いて自分の顔が鏡に映らぬようにする。
「私、貴方のこと、好きよ。問題は山積みのような気もするけど、一つ一つ真摯に取り組もうとする貴方を見るのが好き。このまま、お手伝い出来たらと思うわ」
「ジリアン……」
「でも、私のせいで貴方が傷つくのは嫌なの。もし貴方が私を庇って、今度こそ命を落とす様な事が起きたら……私も生きてはいられないわ」
「そうならないように全力を尽くす。君が狙われた理由が分かれば、対策も立てられるんだが」
今はいつどこで、どういった事に注意を払えばよいのかまったく分からない状況だ。
「俺は……もし、君がいなくなったら、亡霊でも幻でもいいから会いたいと思うだろうな」
ディーンは静かな口調であったが、その言葉にジリアンはぱっと顔を上げた。初代侯爵の肖像画を気味悪いと思わなくなった理由が、分かった気がしたからだ。クライヴの肖像画を眺め、ジリアンは彼に会ってみたかったと思った。それはディーンのお兄さんだから。初代侯爵もディーンの一部であるから。
「ディーン。貴方は時折、とても素敵な言葉をくれるのね」
「……そうか?」
肩に置かれたディーンの手に自分の手を添えると、彼が屈みこみ、ジリアンのこめかみにキスをした。どちらからともなく顔を近づけてそのまま口づけをかわす。
結婚式でかわした触れ合せるだけのものとも違う、狩猟小屋でかわした激しいものとも違う。互いの気持ちを伝え合うような優しいものだった。
だがそれもやがて深いものへと変わっていく。唇を吸い、舌を絡め、ジリアンの息が上がってきた頃にディーンが言った。
「約束は反故という事でいいんだよな」
「……ええ」
「ジリアン。君とベッドに行きたい」
「……もうちょっと、ロマンチックに誘えないの」
「さっき詩的な表現を試したら、君にダメ出しを喰らったんだが……えー、じゃあ、俺の本当の妻になってくれ……?」
「ばかね。髪の中に住むのどこが詩的なのよ」
ジリアンはくすくすと笑いながら、ディーンの首に腕を回したのだった。




