20.歩み寄り
翌朝になるとジリアンは朝食を持ってディーンの寝室へ向かった。
あの後朝まで眠ったディーンは手足の痺れも和らいだようで、起き上がれるようになっていた。
「お医者様が処方してくれた薬が効いたのね、良かったわ」
「めちゃくちゃ不味い薬だったけどな」
「何言ってるの、美味しい薬なんてそうそうないわよ」
ジリアンはワゴンからベッド用の食事台に朝食のトレイを移そうとしたが、ディーンが手で制する。
「そっちのテーブルでいい。歩けるよ」
「急に動いて、大丈夫なの? もう少し安静にしていた方がいいんじゃない」
「やけに優しいな」
「だ、だって。貴方は今、健康を損なっているんですもの」
とは言ったものの、これまで自発的にディーンの世話をしようと思った事はなかった。着替えを手伝ってあげようとか、いつもひと房だけ跳ねている髪の毛を梳かしてやろうとか。彼がジリアンの代わりに毒を飲んでしまったことに、罪悪感を覚えているのだろうか。
ディーンが起き上がり、自分の足で歩き出したので、ジリアンは彼の指し示したテーブルまでワゴンを押していく。
罪悪感。いや、昨日、ディーンを失うのではないかと思った時、ジリアンは後悔した。もっとディーンと話しておけばよかった。侯爵夫人としてこの領地を盛りたてると決意したはいいが、もっとディーンと話し合い、協力し合えばよかったと。そしてディーンの命が無事だったことに安堵した。また何かあった時に──あっては困るが──後悔しないよう生きるべきだとも思った。
「その食事は誰が……?」
ジリアンが自分の分もテーブルに乗せた時、ディーンがそう訊ねる。
「私が作ったのよ」
「君が……? 君は、料理も出来るのか」
「手の込んだものは無理よ。貴方の口に合えばいいけど」
エリンかマーカスの用意したものしか食べるなと言われはしたが、エリンはともかくとして、マーカスに食事の用意をさせるのはさすがに気が引ける。そしてエリンは今朝他のことで忙しそうであったから、自分で作ってしまったのだ。
トーストとベーコン、卵を焼いたものと、野菜のスープといった簡単なものだが。それでもディーンは感慨深そうに目の前の皿を見つめいてた。それから顔を上げて、ジリアンが自分の向かいに座っている事に気づくと、目を見開いた。
「君も一緒に食べるのか」
「食べ終わったら、貴方に不味い薬を飲ませなくてはならないもの」
「良く効く薬だと分かったから、嫌々でもちゃんと飲むさ。だが、こうして君と向かい合って朝食を食べるのは初めてだな」
普段は屋敷の食堂の長いテーブルを使って食べるが、住人全員が揃う事は殆どない。ナタリーは遅くまで寝ていて部屋で食べる事も多いようだし、反対にジリアンは一番乗りのことが多い。キャロルが起きてきていれば、彼女が食べ物を喉に詰まらせたりしないよう見守ることもある。あとはパトリックと一緒になることも多かった。ディーンの起床は遅めで、ジリアンが食べ終わった後に食堂に来るのが常であった。
「あるわ。結婚式の後、宿屋で」
「ああ……」
シーツを偽装した後別々に眠り、そして翌日は向かい合って朝食を食べた。ただし互いに無言であった。
だが今朝は違う。ディーンはジリアンの用意した朝食を「美味い」と言ってあっという間に平らげてしまう。彼の食欲はジリアンを大いに安心させた。
それから二人はこれからのことについて語り合った。これから、といっても新婚夫婦に相応しいような甘い話ではないのだが。
「臨時で雇った人たちのことは、ミスター・ブリングスが色々と調べてくれるらしいわ」
「そうか。彼にも迷惑をかけてしまったな」
まさか招待されたパーティーで、あんなことが起こるなど思ってもいなかっただろう。
「そうね。ダントン夫妻は帰った直後だったけれど……でも、彼が残っていてくれてとても助かったわ」
ディーンが倒れた時、ジリアンは呆然としたまま彼の手を握って座り込んでいた。ウォルターがてきぱきと動いて戸惑う使用人たちに指示をだしてくれたのだ。彼がいなかったらジリアンもどうなってしまっていたか分からない。
「それから今朝早く、井戸の修理のことで村の人が来ていたんだけれど。貴方は捻挫をしていて、二、三日動けないと言ってあるわ」
「捻挫? 俺が?」
「ええ。毒を盛られて倒れたなんて言える訳がないでしょう?」
「それは、確かに」
せっかく明るい兆しが見えてきたというのに、領民たちはまた呪いだなんだと騒いで、怯えてしまうだろう。
「風邪をひいたことにしようかと思ったのだけれど、それもやわな印象を与えてしまう気がして。それで、階段で足を滑らせた私を貴方が受け止めて、捻挫したことにしたのよ」
「君が泥を被ってくれた訳か」
「いいえ。貴方をヒーローにしてあげたの」
そこで二人はくすくすと笑った。ディーンと話をするのは楽しい、ジリアンはそう思った。
朝食後はマーカスから報告を受けた。
使用人に聞いてはみたが、ジリアンにお茶を用意したのが誰なのかは分からなかったと。それはそうだろう。この屋敷の使用人がやったとは思いたくないし、やったとしたならばマーカスに喋る訳がない。
「それに関しては、ミスター・ブリングスの報告を待ちましょう」
「彼が調査してくれるという話ですね」
「ええ。家族構成や財政状態まで調べられるかもと言っていたから、ひょっとしたらそこから何か分かるかもしれないわ」
「そうですね。しかし──」
臨時で雇った使用人たちが実際にこの屋敷で働いてみて、噂通りの場所ではないと分かってくれたなら、正式にこの家の使用人になってくれるかもしれないという狙いがもともとあったのだ。
だがあんな場面を目の当たりにしては、それも無理だろうとマーカスが言う。ジリアンもそうねと答え二人で肩を落としていると、来客があった。ルイーズである。
「ジリアン、昨日はどうもありがとう。昨日の今日だけれど、さっそく遊びに来てしまったわ。お邪魔しても大丈夫だった?」
「ルイーズ!」
彼女の眩しい微笑みを目にし、無性にほっとした。ジリアンは昨日から張り詰めっぱなしだったのだ。それにルイーズはディーンの幼馴染だから、彼が危険な目に遭ったと言えば、怒りや不安を共有してくれるかもしれない。そんな安堵だ。
実際、ルイーズは美しい顔を強張らせ、眉間に皺を寄せた。それでも彼女は美しかったが。
「ディーンが……? それで、彼は大丈夫なの?」
「ええ。安静にしてろとは言ったけど、もう動き回れるようだから、そのうち寝室から出てくるかもしれないわ」
「そう……。回復が早くて良かったわね」
ルイーズはきょろきょろと辺りを見渡し、
「ねえ、それで……ナタリー様は?」
やはり彼女もナタリーがやったのだと思ったらしい。ジリアンは首を振る。
「毒は貴女のカップに入っていたのでしょう? ナタリー様が狙うとしたらディーンのような気もするけれど。でも、彼女の考えている事はよく分からないから」
「そうね。私にもナタリー様の考えは分からないわ。でも、彼女ではない気がするのよ」
彼女が犯人だったとしたら分かりやす過ぎる。それにナタリーはパーティーに一瞬顔を見せたぐらいだったから、屋敷の奥で何をしていたとしてもおかしくはない。が、いくら彼女でも息子の前であんな恐ろしい事件を起こすとは考えにくい。パトリックに問い詰められたナタリーの様子は、ジリアンが見ていても哀れになるほどだったのだ。
臨時で雇った使用人たちのことをウォルターが調べている事を伝えると、ルイーズは首を傾げた。
「それ……大丈夫なの?」
「大丈夫って……?」
「その方、昨日のパーティーに来ていたディーンのお友達よね。彼は、信頼できる人なの?」
ルイーズは昨日以外にもウォルターと顔を合わせていて、この屋敷で一緒にお茶を飲んでいる。だがそれだけでウォルターの人となりを知るのはもちろん無理だろう。
ジリアンもルイーズよりは多く会っているが、ウォルターの本来の性質を知っているのかと問われれば、否である。
ディーンは彼を好いているようだし、ディーンの古い友人だと言うだけでジリアンはウォルターを無条件に信用してしまっていた。
「え。私……」
「あ、でも。ディーンの友達だからといって信用ならないというのは、私にも当て嵌まってしまうわよね。ごめんなさい。私、貴女を不用意に惑わすことを言ってしまったわ」
「いいのよ、そんな。貴女は心配してくれただけですもの」
自分では考えもしなかった可能性を指摘してもらえたのはありがたいと思う。だが、疑わなくてはならない人間が増えるのは、疲れるし、悲しいことだ。
「今日一日考えたんだが」
朝のように夕食をディーンの寝室に運び、二人で食事を終えた時ディーンが改まった様子で口を開いた。
「犯人が見つかるまで、君は俺の傍を離れない方がいい」
「貴方の傍を……?」
「ああ。事が片付くまで実家で過ごしてもらおうかとも考えたんだが、犯人は君を追いかけるかもしれない。俺は、自分の手の届かないところで君が危険な目に遭うのは嫌だ」
好きなんだと思う、というぼんやりとした告白をされた時よりも、ジリアンの胸はざわめいていた。ディーンはジリアンを守りたいと言っているのだ。
少し前までの自分であれば、見縊らないでよと腹を立てていたかもしれない。だが今は素直にディーンの気持ちを嬉しく思った。
黙って突っ立っているジリアンに何を思ったのか、ディーンは言い添える。
「俺は確かに当主として未熟だし、君の方がしっかりしてる……今のは、偉そうに聞こえたかもしれない。けど、身体の方は殆ど元通りだ。君が俺と一緒にいる事で、避けられる災難はあると思う」
「……私といる事で、貴方が災難に巻き込まれるかもしれないのよ」
毒を飲んでしまったのが良い例だ。思えば、窓ガラスに石を投げ入れられた時も、ディーンは身を挺してジリアンを庇ってくれた。ジリアンはジリアンで、ディーンが傷つくのは嫌だった。それが自分のためであればなおさら。
ディーンが考えたように実家に戻るのもいいかもしれない……だめだ、それでは両親や弟が巻き込まれるかもしれない。なんと、自分は災厄そのものではないか。その事に気づいて愕然とする。
なんてこと。呪われているのは侯爵家だと言われていた筈なのに……いや、災厄を娶らなくてはならなかったという点では呪われているといってもいいだろう。
侯爵家の存続のために決められた結婚であったが、むしろ存続のためには自分は今すぐ去った方が良いのではないだろうか。毒殺未遂や脅迫文などの証拠を出せば、国王は直ちに離縁を認めるかもしれない。
「ジリアン……君は、妙な考え事をしているんじゃないだろうな。俺は、自分の手の届かない場所で君を危険な目に遭わせたくないと、そう言ったはずだ」
「けど、私がいる限りこの屋敷は黒い影を纏ったままだわ」
国王の懸念は侯爵家の断絶なのだから、ジリアンが去ればまた別の女性に白羽の矢が立つのだろう。侯爵夫人としての自分が狙われているのか、それとも立場や肩書を抜きにしたジリアン自身が狙われているのかは分からない。だから、新たな侯爵夫人が危険な目に遭うかどうかも今のジリアンには分からないが。
「……代わりの侯爵夫人は、たくさん候補がいるはずだから」
「ジリアン。でも君は……君は一人しかいない!」




