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02.ディーン・ラクリフ・ハーヴェイ



 ディーンが教会へ着くと、先にやって来ていた旧友のウォルター・ブリングスが笑顔で彼の背中を叩いた。

「やあ! なかなか決まってるじゃないか、今日の姿は」

「さすがに、今日くらいはな」

 戦場帰りで爵位を継いだばかりのディーンは、貴族のお洒落とは何たるかを学ぶ機会も無く妻を娶る事となったのだ。急に決まった結婚だから、晴れ着を一から仕立てる暇も無く、既製服のサイズ直しをぎりぎりで間に合わせた。


「しかし、君が結婚するなんて、嘘みたいだなあ」

「まったくだよ」

「なんだなんだ、他人事みたいに」

 実際、いまいち現実味がない。というか、父と兄が立て続けに亡くなったことからしてまだ信じられないのだ。幼いころからハーヴェイ家の後継ぎは兄のクライヴだという認識があったため、まさか自分が、こんな形で侯爵になるとは思っていなかった。

「君の花嫁は、修道院生活が長いんだって?」

「ああ、そうみたいだ」

「世間から隔絶された暮らしをしていたのなら、ええと、君にまつわる……諸々の事は、知らないかもしれないね」

 ウォルターはディーンを気遣ってか、少し言葉を濁した。




 ディーンには覚えのない噂がついて回っている。

 ディーンは王都にある学校を卒業した後、軍隊に入って身を立てる事にした。このプロヴリー王国は、西方に位置するアマリア王国と長らく交戦中である。


 あれは、初めての長期休暇をもらって、王都で開かれた夜会に出席した時だ。参加客がやたらと自分を遠巻きにして、ひそひそと何かを話しているのだ。軍隊に身を置く貴族は少なくない。いったい何が珍しいのだろうと不思議に思った。


 次に王都の夜会へ参加したのはその半年後だ。自分の顔を見て悲鳴を上げ、逃げ出す女性もいた。ディーンはちょうどその時、顔に真新しい傷を負っていた。左の頬から顎にかけて剣で切られてしまったのだ。その傷痕は今もくっきりと残ってしまっている。だいぶ薄くなったとはいえ、花嫁はこれを見て驚かないだろうかと、ディーンはなんとなく頬に手をやった。


 だが、その夜会で悲鳴をあげられた理由は他にもあったのだ。ウォルターが「社交界で君の妙な噂が流れている」と教えてくれた。

 なんでも、自分は戦場では残虐な振る舞いをしており、命乞いする敵を背後から斬りつけたり、とっくに死んでしまった敵兵の身体を、何度も何度も刺し貫いては気味悪い笑みを浮かべたりしているのだそうだ。


 それだけではない。人妻に手を出して決闘騒ぎになったとか、戦場では女を手籠めにしているとか、そういった話も広まっていた。爵位を継ぐ訳でもない軍人の自分に、なぜそのような噂がついて回るのかと変には思ったが、妙な話はそのうちに収まるだろうと放っておいた。しかし時間が経つにつれて新しい話が出てくる。ウォルターは「誰かが故意に噂を広めているのではないか」と言った。

 ディーンが戦場にいる間、ウォルターは色々と尽力してくれたが、まだ噂の出どころを突き止めるには至っていない。


 そんな中、ディーンは数か月の間に立て続けに父と兄を失った。悪鬼だ死神だ、色情狂だという噂を纏っているディーンである。世間に何を言われるか予想はしていた。そして予想通り、ディーンは親兄弟殺しだと囁かれたのである。

 これまではディーン個人に纏わる噂ばかりであったが、兄の死の直後から、ハーヴェイ侯爵家は呪われているのだという話も生まれたようだ。

 そんな時に国王から結婚を勧められた。こんな話を持ってくることからして、王はディーンが肉親殺しだとは思ってはいないようだが、呪いの方は信じてしまっているのではないだろうか。次はディーンが命を落とすと。その前に子孫を残せと。

 まだ結婚など考えたことも無かったが、王の勧めを断るわけにもいかない。それに、後々身を固めたいと思う時が来るのだとしても、まともな家の令嬢が自分を相手にすることは無いだろう。彼女らはディーンが色魔の極悪人だと信じ込んでいるのだから。


 そして国王は、ディーンの花嫁として、ジリアン・ヴィヴィエを推した。エルノー公爵の孫娘で、ディーンとは身分的にも釣り合いが取れる相手だ。しかも、修道院生活が長いというから、もしかしたらディーンの噂話も知らないかもしれない。それは都合が良かった。

 そして何より、ディーンが惹かれたのはジリアン・ヴィヴィエを描いたという肖像画であった。彼女ははっきりとした顔立ちの美人だ。黒髪をきつく結い上げているのが少々惜しかったが、ジリアンが自分の花嫁となれば、髪を下ろした姿も見る事ができるだろう。

 特定の恋人もおらず、己の結婚について義務と捉えた事もなかったディーンであったが、爵位を継いだ以上は身を固めなくてはならない。

 それにディーンの結婚は、国王の勧めで成されるのだ。ジリアン・ヴィヴィエの件を見送ったところで、別の女性をあてがわれるだけであろう。そう思ったディーンは、肖像画から本物のジリアンの姿を思い起こし、そして首を縦に振ったのだった。




 ジリアンを描いた画家は、彼女の特徴をよく捉えていたが、彼女の放つ雰囲気は表せなかったようだ。それとも、敢えてぼかして描いたのだろうか。

 花嫁を前にして、ディーンはそう思った。

 ジリアン・ヴィヴィエははっきりとした顔立ちの美人……というよりは、どぎつい感じの鮮烈な美女であった。眉の形は良く、目が大きくて睫毛が濃い。遠くから見ても彼女が美人だという事が分かるくらいだ。

 それに、これでもかというほど髪をきつく結っているから、そのせいで目がつり上がって見えて、ますますきつい印象を与える。長らく修道院で暮らしていたというが、僧服を身に着けていたとしても彼女は目立った事だろう。


 緊張しているのか、ジリアンの表情はまるでない。祭壇へ向かう際もぎくしゃくとした動きで、口にした誓いの言葉も棒読みであった。それはディーンとて同じ事だったが。

 誓いの口づけは、最前線で敵と剣を交えるよりも緊張した。

 ジリアンのヴェールを捲ると、彼女の顔がますます強張ったのが見てとれた。ディーンの顔を傷を間近で見て怯えているのだろうか、いや、肉親以外の男の存在に慣れていないのかもしれない。そう思ったから、キスは短く、唇を一瞬だけくっつける形で終えた。続きはゆっくり初夜の床で行えばよいとも思った。




 だが、彼女はディーンの噂を知っているのではないかと気づいたのは、教会を出て二人で馬車に乗り込んだ後の事だ。この馬車はハーヴェイ侯爵家の領地ラガリエへ向かうが、途中の宿で一泊する。ジリアンの荷物や侍女は一日遅れでやって来ることになっていて、ラガリエへ到着するまでは、二人きりである。

 宿に着くまでの道中、なんとか彼女を打ち解けようと試みるも、ごく短い返答が返ってくるだけであった。

「疲れただろ」

「少しだけ」

「外套を脱いで楽にすればいい」

「いえ、結構よ」

 ジリアンは旅行用の外套をがっちりと着込んだままである。ディーンの言葉から、彼女は身を守る様に外套の留め具をぎゅっと握ってみせた。


 疲労を覚えているにしても、ジリアンの態度は些か感じが悪すぎる。顔の傷のせいだろうか。怪我した当初は、自分が爵位を継ぐことになるとは思わなかったし、当分の間戦場で過ごすつもりであったから、顔の傷など気にもならなかった。

 だがこれから戦場ではなく社交界に身を置く事になる。この傷は自分に纏わりついている悪い噂を、説得力あるものにしてしまっていた。なぜ怪我を負った自分の方が残虐だとか死神だとか言われなくてはならないのか、理解に苦しむが。


「俺の顔の傷が、気になるかい」

 そう訊ねると、ジリアンはちらりとディーンの顔を見て、すぐに目を逸らした。

「いえ。大切なのは、器ではなく……魂の方でしょう」

 長いこと修道院で暮らしていた人間らしい答えである。不器量な人間が口にすると憐れまれそうだが、ジリアンのような鮮やかな美人が口にしても、妙なやっかみを買いそうだとディーンは思った。

 しかし今のジリアンの口調は、ディーンへの慰めと取るにはやたらと棘があった。そこでディーンは気づいたのだ。彼女はディーンの噂を知っていて、しかも、それを信じているのだと。

 修道院で暮らしていたとはいえ、誓願を立てて修道女となった訳ではない。生家へ顔を出しに帰ることだってあるだろう。その折、どこかの夜会へ参加して噂を聞いたのかもしれない。いや、彼女の両親から聞かされた可能性だってある。

 自分を貶める噂は、いったい誰が、何のために、どこまで広めているんだ。ディーンは頭を抱えたくなった。

 だがジリアンに「俺の噂を知っているのかい」と訊ね、仮に「噂とはなんの事かしら」と訊ね返されたら説明する準備が出来ていない。それに、「知っているわよ。貴方は残虐な色情狂なのですってね」などと言われた時の、心の準備も出来てはいなかった。




 彼女は、肖像画のイメージと少し違うようだ……と、ディーンは馬車の中で思い始めていたが、美しい花嫁としての幻想を見事に打ち砕かれたのは、初夜の床においてである。

 女性にはいろいろと準備があるだろう。ディーンは気を利かせたつもりで食事の後、しばらく時間を置いてから部屋へと向かった。


 ジリアンが噂を知っていようが知っていまいが、結婚したのだからディーンには彼女に触れる権利がある。彼女とて、これを花嫁の義務だと母親から聞かされているだろう。

 ディーンは童貞という訳ではないが、経験豊富な訳でもない。泣き叫ばれたりしたら厄介だなと考えた。女性を慰める術など持ち合わせていない。

 数年間とはいえ軍隊生活を送っていたディーンにとっては、まだ物を投げられたり噛みつかれたりした方が気が楽だ。……いや、暴れる花嫁を取り押さえて大人しくさせたとして、そこから閨事に持ち込む術も持ってはいないのだが。


 まあ、なるようにしかならないさ。ディーンは深呼吸してから部屋の扉をノックした。返事はなかったが「俺だ、入るよ」と声をかけてから扉を開ける。

 ジリアンは奥の寝台に腰掛けていた。俯き加減で、顔色が悪い。彼女は純白の寝衣を身に着けていたが、その上に分厚いガウンを着込んで、しっかりと腰の紐を結んでいる。

 ディーンはジリアンの髪を下ろした姿を見たいと思っていたが、彼女は長い黒髪をきつく三つ編みにして、首の脇に垂らしていた。編んだ髪の太さからして、相当な量がありそうだ。ランプの灯りに照らされて、彼女の髪は細かくカールしているであろうことが分かる。早く彼女の髪を解いて、自分の手でぱさりと広げてみたい。ディーンは思わず唾を飲みこんだ。


 だが自分は、碌に会話もせずにいきなり女性に飛び掛かるような男ではない、はずだ。ジリアンの緊張はこちらにも伝わってくる。彼女はディーンの噂を信じてしまっているようだし、まずは自分は噂通りの酷い男ではないと分かってもらえるように話し合いの時を設けるべきだろう。

「ええと、」

 ディーンが何から話そうかと考えながら寝台の方へ足を踏み出すと、ジリアンがびくっと顔を上げた。膝の上で握っていた両拳を、ますますぎゅっと結ぶ。そして彼女は大きく息を吸い込み、言った。

「私は、貴方と寝床をともにするつもりはありませんから」


 一瞬、何を言われているのか分からなかった。頭の中で彼女の言葉を反芻する。別々の寝台で眠るという事だろうか……いや、初夜の床を前にしてのこのセリフは、ディーンに抱かれるつもりはないという意味にとれる。

 今夜は間が悪いという事か? 女性にはできない期間というものがある、ディーンもそれくらいは知っている。お預けは残念だが、ただお互いの事を話しながら、眠りにつくのもいいだろう。と、前向きに考えたディーンであったが。


「ああ、それなら……」

「どうしてもと言うのなら、力尽くでやればいいのだわ。そうなったら、私は一生貴方を蔑んで生きることにしますから」

 こちらの考えを伝える前に、ジリアンがひと息に吐き出した。

 彼女は彫像のように固まって動かず、敵意のような視線をディーンに向けている。

 ディーンも、動けなくなった。


 これは、この先もずっと、彼女はディーンと寝るつもりはないという意味だ。二人の結婚は、いわゆる政略結婚だ。愛情が下地にある訳ではない。好きでもない男に純潔を散らされるというのは、たぶん女性にとっては、恐ろしいものでしかないのだろう。

 しかしそこまで言うか? 教会で顔を合わせた時から、ディーンはジリアンを出来るだけ怖がらせないように、優しく接してきたつもりだし、寝台でもそうするつもりであった。

「君の態度は……俺の噂が関係しているのかな」

「どうかしら」

 含みのある言い方だったが、きっとそうなのだろう。

「俺の噂は全くのでたらめだと言っても、信じては貰えないんだろうな。だったらなぜ、君はこの結婚を承諾したんだ?」

「国王陛下の斡旋ですもの。断ったら……家族の立場に影響が出るわ」

「結婚を自分の義務と受け入れたのは俺だってそうだ。俺は、後継ぎをもうける所までを義務と受け止めているが」

 すると、ジリアンの片眉がぴくっと上がった。そして軽蔑するような視線をこちらに寄越す。ディーンの科白を「君と寝たい」という風に受け止めたのだろう。言い方を変えれば確かにそうなる。ディーンも肖像画のジリアンを目にした瞬間は、この女性とであれば、それは楽しい義務となるかもしれないと、色々と想像をめぐらせたものだ。

 しかしジリアンの態度に、そこまでしてやらなくちゃいけないのか? という疑問が次第に湧き出してくる。

「ですから、力尽くでおやりなさいと、私は言っているの」

 再度そう言われ、さすがにディーンの中でも何かがぷつりと切れた。


 ディーンは、気性の激しい男ではない。学生時代に誰かと敵対したことも無く、戦場以外で暴力的な行為に及んだこと──子供の頃にした取っ組み合いのけんかを除けば、だが──も無い。だから、心当たりのない中傷が広まっても、ウォルターのようにディーンから離れなかった友人は何人かいた。

 しかし、ディーンをよく知らない人間は酷い噂話を信じてしまう者が多かった。

 恵まれた体躯が意図せず他人を威嚇し、左頬の傷が噂に拍車をかけてしまうのだ。ハーヴェイ侯爵家の人間だという事で、断交されるまでに至ったことはあまりないが、夜会などでは白々しい挨拶の後は、遠巻きに何かを囁かれるのが常だ。

 自分が爵位を継いだからには、そういった環境の中でも上手くやっていかなくてはならない。だから、妻となる女性が美しく、人当たりの良い人間であれば、自分を取り巻く世界も変わってくるのではないだろうかと期待していた。


 だが、なんだ。なんなんだ。

 この頑なで、取り付く島も可愛げもない女は。

「わかった。わかったよ」

 ディーンの言葉を肯定と受け止めたのだろうか、力尽くで襲う事にしたのだと。ジリアンの身体がぴくりと小さく揺れる。

 虚勢を張ったはいいものの怖がっているのか? いい気味だ。と、普段のディーンでは思いもしないような意地悪い感情がふつふつと湧きだしたが、無理やりにでも奪いたいとは思わないし、なんとか宥めて寝台に引き摺り込みたいとも思えない。


 ディーンは戦場を去って以来、久方ぶりに声を荒げていた。

「俺だって、君みたいな女と寝たいとは思わないよ!」




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