17.深まる謎
『ここから でていけ さもなくば……』
「これは……私の事を言っているのかしら」
ジリアンは感情のこもらない口調でそう言った。怯えている様子は窺えないが、面白がっている筈もない。
趣味の悪すぎる悪戯に思えるが、ここ数か月の間にハーヴェイ家に次々と降りかかっている不幸な出来事。そして、
──また、誰か死ぬよ
祖母の口にした言葉を考えると、単なる偶然や悪戯で片づけて忘れ去ってしまうのも危険な気がした。しかし、だからと言って、何に対して用心すればよいのだろう。
「俺のことかもしれないぞ」
侯爵としてのディーンに屋敷を出て行って欲しいと願う人物に、心当たりがないわけでもない。だが、ナタリーが夜の庭に潜んで、手紙を窓ガラス目がけて投げつける……彼女がそんな泥臭い行動をとるとは考えにくかった。そしてもっと考えられない事がある。
「でも、これは私の部屋へ投げ込まれたわ。ハーヴェイ家に相応しくない人間を……」
「ジリアン。君は、亡霊がこんな真似をすると、本気で思っているのか」
「……いえ」
今までに、人間の仕業とは思えないような不可解な現象は何度もあった。直面していたのは大体においてジリアンだったが、額縁の中の絵が首なし騎士に変化したとか、一人分多く用意してしまったお茶だとかは、裏に、生身の人間が意図したからくりがあるようには思えなかった。
だが、林の中に仕掛けられた罠や、ジリアンを追いかけてきたという「何か」はどうだろう。亡霊の仕業としか思えないような不可解な現象ではないが、これに関しては全くの別件かもしれない。
密猟者が仕掛けた罠にジリアンが気づいてしまったせいで、口封じのためにジリアンを追いかけた、という線が濃厚だろう。罠や矢が回収されていた事も、密猟の証拠隠滅のためだとすれば説明がつく。
追いついた後で彼女をどうするつもりだったのか想像すると恐ろしいが、ジリアンが逃げ切ってくれて、そして自分の前に現れてくれて本当に良かった。
とはいえ、この件と兄の死は繋がっているのかもしれないから、調査は続けるべきだろう。ディーンは頭の中で一つ一つ考えをめぐらせていく。
「しかし、今夜のこれは……」
ディーンは手元の紙をもう一度見つめた。筆跡には見覚えが無かった。太い筆のようなもので乱暴に書かれているから、文字の癖も判りにくい。紙もどこにでもあるような便箋だが、亡霊や、説明の出来ない存在がこれを書いて、ご丁寧に石を包み、窓ガラスに投げつけたりするだろうか。
「すべすべの、綺麗な石ね」
ジリアンは包まれていた石を手に取ると、それをしげしげと眺めまわす。黒くて平べったいが、全体的に丸みを帯びている。今は石が綺麗だとかそういう話をしている場合ではないのだが。とディーンが思った時、ジリアンが付け加えた。
「こういう石って、川の下流の方で多く見つかるのよ」
「川……」
この近くの川と言えば、裏の林を抜けて狩猟小屋に出る途中の……あの時、ジリアンがずぶ濡れになったと思われる川がある。しかし海へ繋がるまでの距離を思うと、ラガリエ領内を流れている部分は下流とは呼べない。
「上流から下流に流される過程で、ごつごつした石の角が取れて丸みを帯びてくるってことか」
「もともと丸みを帯びていたからこそ、水の流れに逆らわずに長い旅をすることが出来る、という説もあるわよ」
「なるほど。それも、本で読んだのか」
「……ええ」
ジリアンが答えるまでに妙な間があった。
ディーンはうっかり、過去の出来事を思わせる口ぶりで喋ってしまったのだ。「それも」「本で読んだのか」と。他に何があるのかと言えば、もちろん、狩猟小屋で二人の間に起こったことだ。ジリアンは「ヒトは死に直面すると本能的に性交したくなる」と書物から得た知識を披露してくれたのだ。
ジリアンはそうなのかもしれない。だがディーンは恐ろしい目に遭った訳ではなかった。どうにかして彼女を落ち着かせなくてはと思いながらも、行為に及んでしまったのである。
挙句、女であるジリアンの方から謝罪までされ、ディーンの頭は混乱を極めた。たしかに、ディーンにとっても嵐のように過ぎ去った出来事ではある。
ただ時間が経つにつれて「もうちょっとやりようがあったのではないか」と思ってしまう。ジリアンは処女であった。彼女が冷静でなかった分、自分が理性的になるべきであったし、抱くにしても……もっと優しく丁寧に抱くべきだったのではないかと。
もう一度ジリアンと向き合う機会が欲しかった。
身体のことだけではない。自分がジリアンという人間を知りたいと思っているように、彼女にも自分に興味を持ってほしかった。
疎い人間なりに気持ちを伝えたはずなのだが、ジリアンにはどうしてもディーンを許せないことがあるらしい。
二人は十年前に顔を合わせた事があって、自分は十一歳のジリアンにとんでもない狼藉を働いたようなのだ。彼女の髪の毛を陰毛に例えて馬鹿にし、飴玉を投げつけて騒いだのだと──。覚えてはいないが、当時の自分ならばやりかねない。
ディーンが十二の頃といったら、ちょうど王都の寄宿学校に通いだした年齢だ。
男子校であるが、同じクラスにやたらと髪の毛の多い子がいた。彼の髪はくるくるとカールした赤毛で、いつも燃え盛る炎のように逆立っており、彼の後ろの席になってしまうと前の黒板が全く見えないのだ。ノートを千切って丸め、彼の頭に投げつけるとボリュームのあるカールが紙くずを飲みこんでしまう。ディーンはそれを、周囲の席の子供たちと一緒になって大笑いしていた。
そして父か祖父に連れられて参加した食事会で似たような髪質のジリアンを見かけ、同じことをした……充分に考えられる。ジリアンはいつも髪の毛をきつく結っているが、ディーンのやったことが原因だとしたら、謝っても許しては貰えないだろう。それに。
「ジリアン」
彼女は石を手に持ち、その感触を確かめるようにしていた。
黒くて平べったくてすべすべとしていて、握り拳ほどの大きさがある。紙に包まれていたとはいえ、当たったら危なかった。石がぶつからなくても、割れたガラスで怪我をしていたかもしれないのだ。
「危ない目に遭わせてすまなかった」
「貴方のせいではないでしょう」
「いや」
ジリアンを林に向かわせたのは自分の言葉が原因でもあるし、ハーヴェイ家に嫁いだことによって危険な目に遭ったり厭な思いをしたりしているのは間違いないだろう。
「俺は君に留まって欲しいと願ってはいるが、君の身の安全や心の安寧を犠牲にしようと考えてる訳じゃない」
「私は……」
ジリアンは何かを言いかけたが、一度息を吸い込み、割れた窓ガラスと黒くて平べったい石、そして「でていけ」と書かれた手紙を順番に見やり、首を振った。
「明日から、ガーデンパーティーを手伝うための人たちが来ることになっているの。調理係や掃除、荷物の運搬と、それから庭木の手入れをする人たち」
ジリアンはグラウツの街で手伝いの募集をかけていた。
これまでもハーヴェイの屋敷の使用人を募集したことはあったが、いつも敬遠されている。今回は臨時で数日間──しかも給金ははずんだ──だから、ある程度人が集まったらしい。ハーヴェイの屋敷も新しい侯爵も、噂とは違って恐ろしいことなど何もない、そう知らせる事が目的でもある。上手くいけば正式な使用人となってもよいと考える人が出てくるかもしれない。
「屋敷の中や領民たちが活気づけば領地も栄えるわ。妙な噂はなりを潜めていくかもしれないでしょう。私はそう考えているの。今度のパーティーは、ラガリエの転機になり得るのよ。だから、」
ジリアンは手に持っていた平たい石をディーンに押し付けた。
「このような悪戯に動揺している場合ではないわ」
「まいったな……俺は、君が侯爵になった方がいいと思う」
思わずそう呟いていた。ジリアンがラガリエについてそこまで考えてくれているとは思わなかった。ディーンは、ジリアンが得体の知れぬものに危害を加えられるかもしれないと、しばらくは屋敷の中で大人しく過ごすようにと、或いは何か理由を作って実家へ帰るのもいいかもしれないと言おうと思っていたのだ。
同時に己の視野の狭さに辟易しそうになったが、ジリアンの方がしっかりしていて侯爵に向いているからと言って、全てを彼女に任せる訳にもいかない。
「何か……俺に手伝えることは」
「貴方はどっしり構えていればいいのよ」
その時、エリンが扉をノックした。
「ジリアン様。向こうのお部屋の支度が出来ました」
割れたガラスは寝台周辺にも飛散っていたから、今夜は別の部屋を使うとエリンに言ってあったのだ。ジリアンは「ありがとう、今行くわ」と扉に向かって返事をする。
「私はここにいる間、ハーヴェイ侯爵夫人としての務めはしっかりと果たすつもりよ。貴方がどれだけ野暮な男だといっても、私情は挟まないから安心して」
そしてジリアンの姿は消えた。
ジリアンときたら気は強いし、口は悪いし、その辺の男よりも──そしてディーンよりも──ずっとしっかりしている。ただ一度、林の中で『何か』に追いかけられた時こそ、彼女は危なっかしく揺らいでいたが、その後泣き言をいうことは無かった。
今だって充分危ない目に遭った筈だが、ジリアンは落ち着き払っていた。
ディーンはこういう時に、きんきん声で泣き叫ぶような女は好きではないが、ジリアンに限ってはもうちょっと隙を見せてくれてもいいのに、と思ってしまう。
*
「いったい、何があったんです? まさか、侯爵が窓ガラスを──」
暫定的に今夜の寝室とした部屋で二人きりになると、エリンはジリアンに顔を寄せた。
窓ガラスが割れた音を聞きつけてエリンがやって来た時、ディーンはジリアンの傍にいたのだ。エリンはガラスが割れたのはディーンの仕業だと思ったのだろうか。彼が、何か暴力を振るったのだと。
「エリン。あなたは、まだ、ディーンの……侯爵の噂は本当のことだと思う? 残虐で、女誑しだって」
「え。あたしは……」
エリンは唇を噛んで一瞬俯いたが、すぐに顔を上げた。
「けど、あいつはジリアン様に乱暴を働いたじゃないですか!」
「あ、あれは」
あの時ジリアンはずぶ濡れのぼろぼろで、白い靴下の内側に血の染みがついている状態であった。ジリアンがディーンに何かされたのだと、エリンが誤解するのも無理はないが、決して一方的な暴力ではない。むしろ自分から誘いをかけた様なものだ。
それに応えるディーンもディーンではあるのだが……だが、あの時ディーンに拒まれていたら、ジリアンは林の中での恐ろしい出来事から立ち直ることはできなかっただろう。
立て続けに奇妙な事が起こって精神的に慌ただしく、きちんとエリンに説明する機会もなかったのだが、今はディーンの名誉のためにも弁明しておきたかった。
「私がここに来てから、変な事ばかり起こったでしょう」
初代侯爵の肖像画が違って見えたり、暖炉の上にあった風景画が首なし騎士の絵に変わったり。屋根裏に誰かがいた様な気配もあった。
「じゃあ、窓ガラスも、勝手に割れたって事ですか?」
「いいえ。手紙が投げ込まれたのよ」
ジリアンは紙には石が包んであったこと、そして書かれていた内容をエリンに伝えた。
「あの時……私がずぶ濡れになっていた時よ。あの時も、おかしな事が起こったの」
禁猟期間だというのに、林の中には罠が仕掛けてあった。おまけに弓矢までジリアンを狙ったかのように飛んできた。自分は動物ではなく人間だとジリアンは主張したが、相手は姿を現さなかった。それなのに、茂みをかき分ける音だけがガサガサと聞こえ、それがだんだんと近づいてくる。
普段は気丈なジリアンでもさすがに恐ろしくなった。まるで追い立てられるように逃げ回り、なんとか林の中から這い出ると、そこはハーヴェイ家の狩猟小屋のすぐ近くであった。
「ちょうど、見回りに来ていたディーンがいて……私、物凄くホッとして……でも、それ以上に混乱していたの」
「それって、混乱してるジリアン様につけこんだってことですかっ」
「いえ、そうではないのよ」
自分の行動を振り返り、改めて説明するのは恥ずかしい。それに、どんなことがあってもジリアンの味方でいてくれるエリンの存在は有難いが、彼女にいつまでも穿った目でディーンを見て欲しくないと、切に思った。
「私は、自分が落ち着くために彼を利用してしまったんだと思うの。ディーンは言わば、被害者よ」
「……侯爵が被害者?」
エリンが繰り返す。確かにディーンには「被害者」という単語が似合わない気がして、ジリアンは笑いそうになったがすぐに気を取り直す。
「彼は私を落ち着かせようとしていたけれど……私は、自分でも訳が分からなくなるくらい、取乱していたのよ。それで、あの……修道院にいた時、あなたも読んだ本があるでしょう? 死に直面した人間が、本能的に……」
「ああ。人類学か何かの本でしたよね」
「そう。わ、私の取った行動は、まさしくそれだったと思うの」
「はあ」
エリンは合点がいかないといったように首を傾げた。死ぬほど恐ろしい目に遭った事がなければ、分からないのかもしれない。実際、ジリアンも本で読んだ当初から理解していた訳ではない。単に知識として頭の中に収めただけだった。
「けど、ジリアン様が力尽くで侯爵を襲ったのではないんでしょう?」
「あ、当たり前じゃない。ディーンに、私が力で勝てる訳ないもの。きっと……私が、ゆ、誘惑したことになるのよ」
純粋な力という意味では女は男に敵わないが、逆に男が抗えない力を女は持っているはずだ。自分にそれ程の絶対的な色香があるとも思えなかったが。
それに、自分とディーンの立場が反対であったなら、どうだっただろう。例えば戦場で血を浴びてきたディーンが、本能的に性交がしたくなって、自分を力尽くで組敷いたとしたら。……そうしたら、ジリアンの尊厳はずたずたになっていたはずだ。彼を赦せないと思うだろう。
いや、もしかしたら戦場帰りのディーンの雰囲気に圧倒されて、彼を哀れに思って身を任せてしまうかもしれない。どちらにしろ自身の本意とは別の行動になってしまう。
「私は、平静を取り戻すためにディーンを巻きこんでしまったのよ」
「ジリアン様がそう仰るなら、あたしはもう何も言いません。あたしはその事が引っかかってただけで、侯爵は……まあ、噂通りの悪い人間って訳じゃないと思います。大きくて傷があって見た目は怖いけど、態度は威圧的でもないし、女狂いとも思えないし。どっちかっていうと、ちょっとボンクラっぽいっていうか」
エリンの表現にジリアンは今度こそ笑ってしまった。ディーンは少し野暮で垢抜けないところがあるが、善良な人間だとジリアンは思う。
彼の外見ならば、ちょっと威圧的に振舞えば、縮み上がって言いなりになる人間も多いのではないのだろうか。だがディーンはそうしない。たぶん、そんな方法を思いつきもしないのだろう。
不器用なりに侯爵という地位と向き合おうと努力しているように見える。
「けど、侯爵が良い人間だっていうなら、彼はジリアン様を全力で守るべきですよ。ナタリー様をなんとかしないと、嫌がらせは酷くなる一方でしょ? パトリック坊ちゃんがいらっしゃるから、追い出すって訳にはいかないんでしょうけど、ビシッと叱りつけるくらい、してくれてもいいんじゃないですかね!」
エリンは今夜の出来事を、今度はナタリーの仕業と決めつけたようだ。
「だって、そうでしょう? 相応しくない人間を先祖の霊が追い出そうとするって、あの人が言ったんですよ。亡霊のせいにしてジリアン様を脅かしてるんですよ、絶対!」
「……けれど、生身の人間が仕組むには、不可能な事もあったわ」
「はん! どうにかして細工したんでしょう。根性の悪い人間のやる事は、あたしたちには解るわけもないでしょうけど! だいたい、相応しくない人間が追い出されるっていうんなら、真っ先にナタリー様が追い出されるべきでしょっ」
「まあ、まあ。エリン、落ち着いて」
エリンの言い様にやっぱり笑いそうになりながら、ジリアンは考えた。ナタリーが自分を良く思っていない事は明白だし、ジリアンもナタリーを好きになれそうにない。
しかしジリアンへ嫌がらせをするために、ナタリーがこそこそと仕掛けをしたり、窓に手紙を投げ込む為に夜の庭に潜んだりするのはどうもおかしい気がする。
ジリアンに祖先の呪いをにおわせる様な発言をし、実際に妙な事や危険な事が起こったら、エリンのように、全てナタリーの仕業だと判断する人間は少なくないだろう。当たり前すぎてかえって不自然なのだ。
では、誰がやったというのか。
ジリアンは手紙の文面と、すべすべした平べったい石を思い起こした。
絵画が変化したり屋根裏部屋に何者かの気配があったことは、裏にどんなからくりがあったのか全く想像がつかない。林の中で何かに追いかけられたのは、ひょっとしたら、精神的疲弊が生んだジリアンの妄想なのかもしれないし、これに関してはディーンの言っていた、密猟者……前侯爵の死因と関係しているのかもしれない。
しかし手紙が投げ込まれたことによって、今まで得体が知れないと思っていた現象が、急に物理的な存在になったような気がする。そう、呪いや亡霊の仕業な訳がない。だがナタリーがやったともジリアンには思えない。
屋敷にいる人間を一人一人思い浮かべたが、すぐにジリアンは首を振った。他に感じの悪い人間はいないし、彼らに裏があるのではと穿った目で観察するのも気が引ける。
それに、今は大切なパーティーを控えている。
ハーヴェイ家と領民たちの溝を埋めるための大きなチャンスである。自分の周囲の人間を疑った状態で良いもてなしが出来るとは思えない。
今は目前に迫ったガーデンパーティーに集中するべきだろう。