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16.十年前



 白い寝間着を手渡されたディーンは、呆然とジリアンを見下ろしていた。

「どうして……どうして君はそんな事を思ったんだ?」

 ディーンの口元がひくひくとしている。

 何がおかしいのかジリアンには分からなかった。


「だ、だって……貴方は自分に関するたくさんの悪意ある噂を、無理に訂正することは無かったわ」

「訂正したら、君は信じてくれたのか?」

 結婚式を挙げたばかりの頃、「噂はでたらめだと言っても君は信じないだろう」と言われた事があった。確かにその時ディーンに「誤解だ」と熱弁をふるわれたとしても、ジリアンはたぶん、彼を信じていなかっただろう。

 だが彼は、自分の悪い噂が広がっていくのを、食い止めようともしていない。諦めているようにも受け入れているようにも、面白がっているようにすら見える事もあった。

 だからジリアンは考えたのだ。

「貴方には本当に隠したい事があるから、今広まっている噂を隠れ蓑にしているんじゃないかって」

「それが……これ?」


 この寝間着を手に立っていたディーンは殆ど後姿だったから、表情は確認できなかった。だが、彼の背中から憧憬のような羨望のような、そんな雰囲気が発せられていたように思える。びっくりしてつい、何をしているのかと怒鳴ってしまったが、今思えば悪い事をした。

「サイズが合うとは思えないけど、あげるわ。だからいいのよ、ダメにしてしまっても」

 ジリアンが頷くと、ディーンはぷっと噴き出し、身体を二つに折って大笑いを始めた。

「な、なにがおかしいのよ。私は、真面目に……」

 ディーンは呼吸を求めて喘ぎ、声を枯らして笑っている。

「周りで奇妙な事ばかり起こるから、私は自分の頭がおかしくなってきているのかと……でも、貴方は信じてくれたわ」

 要領が良いとは言えないが、目の前の事案に誠実に対応しようとするディーンを見て、ジリアンなりに感謝の気持ちを表そうと思ったのだが。つまり、彼の性癖を認め、受け入れようと。

 修道院にこもって暮らしてはいたが、その手の人間がいる事はジリアンも知っていた。だがディーンの反応からして、ジリアンの予測は間違いであったのだろうか。


「ジリアン、俺は……」

 ディーンはぜえぜえと苦しそうに喘ぎながらなんとか声を絞り出した。

「俺は、君との契約を反故にしたい」

「反故?」

「ああ。俺たちはもっと……歩み寄るわけにはいかないのか?」

 ディーンが言っているのは、三年経っても離縁しないという事だろうか。

「なんで、急にそんなこと」

 それはやはり狩猟小屋でのことが原因だろう。まだ分からないと言っているのに。ジリアンはなんとなくお腹を押さえる。

「狩猟小屋での結果が、その……どうであれ、俺たちは本当の夫婦としてやっていく訳にはいかないのか?」

「それは、また私と寝たいから言っているの?」

「そうじゃない」

 非常に可愛げのない物言いをしている自覚はあった。だがディーンは腹を立てる様子もなく、ごまかす様な事も言わなかった。そしてジリアンが予想もしなかった事を言った。

「いや、また君に触れたいという気持ちは少なからずある。あるが、その前に……俺は、たぶん、君が好きなんだ」

「……たぶん?」

 ディーンに好意を持たれているとは思っていなかったジリアンは、ひどく驚いた。しかも愛の告白にしては歯切れが悪い。スマートでないところがディーンらしくもあるが。


「君の、パトリックや俺の祖母に対する接し方が好きだよ。君は俺が侯爵の仕事に真摯に向き合っていると言うが、俺は君にも同じ事が言えると思っている。君は、天に背く事は絶対にしない真っ直ぐな気質だ。そういう所が、俺は好きだよ」

 そこでディーンは自分が女物の寝間着を握りしめていたことに気づいたようで、それをジリアンに返してよこした。

「まあ、屋敷の状況がこんなだから、進んで住みたいと思えるような場所ではないだろうけど……けど、俺は君にもっと頼って欲しいし、パトリックや祖母に接するように優しくしてほしい。三年後に君がここを離れると思うと、どうにかして引き止めたいと思ってしまう。これは、好きって事なんじゃないのか?」

 そう。彼は無骨でちっとも洗練されていない。だが飾り立てた言葉を並べられるよりも、ディーンの気持ちがストレートに伝わってくるような気がした。

 こんな展開は予想もしていなかったが……自分は彼の告白をどう思っているのだろう。今、私は嬉しいのだろうか。ジリアンは考えた。

 考えたが、厭な気持ちにはならなかった。しかし、


「それから、君の髪を解いたところがみたい」

 ふいに付け足された言葉に、ジリアンはカッと頬が熱くなった。

 甘い恥じらいからではない。かつての恥辱を思い出したのだ。


 ジリアンの纏う空気が変化した事にも気づかず、呑気にディーンはのたまい続ける。

「実は結婚前に君の肖像画を見た時から思っていた。きっと、素晴らしい髪なんだろうな」

「と、とっくに見てるじゃない……」

「いや。君は寝る時も三つ編みを垂らしている」

「あ、貴方は覚えていないのでしょうけれど……」

「ジリアン?」

 ディーンが噂通りの悪人でない事は認めてもいい。不器用だが誠実な所は好ましくすら思っている。だがそれは飽く迄も侯爵としてだ。ジリアンは、ディーンについてどうしても許せない事があった。

「十年前、エルノー公爵邸で、貴方は私の髪を見て『陰毛のお化け』だって言ったのよ!」

 ジリアンはずっと溜め込んでいた怒りをとうとう吐き出した。

「……え?」




「私たちは十年前に会っているの。祖父母が開いた食事会だったわ。貴方は同じ年頃の男の子たちと騒いでいて、私を目に留めると……」

「君を、陰毛のお化けだって言ったのか? 俺が?」

「もっと、直接的で品性に欠ける表現だったわ」

「直接的、って……ああ、チン毛──」

「言わないでよっ。本当に野暮な人ね! それだけではないわ……!」


 ボリュームたっぷりの、ジリアンの細かくカールした髪を指さして周囲の男の子たちでひとしきり笑った後、彼は「物を投げつけても髪に埋まって落ちてこないんじゃないか」というような事を喋り、近くのテーブルに置いてあった飴玉をジリアンに投げてよこしたのだ。そしてディーンの言ったように、飴玉はジリアンの髪の毛に入り込み、落ちてくることは無かった。

 ジリアンは背後から飴玉を投げつけられながらも走って逃げ、カーテンの陰で泣いた。彼女の様子に気づいた大人がどうしたのと声をかけてくれても、恥ずかしくて悔しくて、本当のことは言えなかった。

 さらに家に帰った後で使用人に着替えさせてもらっている時、足元に飴玉が二つ、ぼとぼとと落ちた。祖父母の家から馬車に乗って家に帰って来るまでの間、二つの飴玉はジリアンの髪の毛にずっと埋まっていたのである。


 それから家族や使用人以外の前で髪を下ろした事は一度もない。広がって跳ねまわる厄介な髪の毛を短くしてしまおうかと考えた事もある。だが、ある程度の長さを保つことによって、ジリアンの髪の毛は何とか下に向かって伸びているのだ。きっちりとまとめて結い上げてしまった方がよいと思えた。

 翌年からジリアンはフォートナー女子修道院へ入ったが、そこは聖域であった。意地悪で下品な男の子たちはいないし、何より髪を結って頭巾を被ることになっていたから、ジリアンの髪の毛については誰も何も言わない。


 数年経って、ディーンの噂が流れ出した。彼が非道で残酷だと言う話にも、あの悪ガキならそんな風に成長していてもおかしくはないと、そう思ったものだ。そして自分の結婚相手がディーンだと知った時は、いったい何の冗談なのかと目と耳を疑った。




「ちょっと待ってくれよ。じゃあ、俺たちは昔会ったことがあるのか」

「そうだって、言ってるでしょ」

 ディーンはかつてジリアンに狼藉を働いたことよりも、そちらの方に驚いているようだった。この十年、髪を解いて鏡を見るたびにジリアンの心は暗く燻っていたというのに、彼は覚えてもいない。

 ディーンにとっては取るに足らない出来事を、悶々と思い悩んでいた自分の湿っぽさにも、逆に、幼い乙女心を容赦なく傷つけておきながら、しゃあしゃあとジリアンが好きだとのたまうディーンにも腹が立ってきた。

 ジリアンは自室への扉に手をかけた。

「もう、いいわ」

「待ってくれって……十年前の、エルノー公爵邸だって?」

 扉を閉める前にディーンが身体をねじ込んでくる。

 ジリアンの寝室には小さくランプが灯っていた。先程寝衣を取りに来た時につけたままだったのだ。カーテンが閉まっていない事に気づき、ジリアンは窓辺に向かって歩いた。

「俺は、誰と参加していたんだ?」

 ディーンはそう訊ねながらジリアンの後について来る。

 正直、彼に思い出して欲しいのかどうか、ジリアンは分からなくなっていた。ディーンが思い出したところで「そんな些細な事を根に持っていたのか」とでも言われたら、彼を絞め殺してしまうに違いない。

「もう、いいって言ってるでしょ」

 カーテンの留め紐を解こうと手を伸ばした時、ジリアンのすぐ近くでガシャンと大きな音がして、窓ガラスが砕け散った。同時にディーンが「ジリアン!」と叫ぶ声がして、ジリアンの視界は反転した。


「大丈夫か?」

 その声にふと我に返ると、ジリアンは絨毯の上に腹ばいになっており、その上にディーンが覆いかぶさっていた。

「な、なにが起きたの……」

「ガラスが割れた」

 そう。ガラスが割れた。それはジリアンにも分かっている。でも、なぜ割れたのだろう。嵐の日に、風で飛ばされてきた砕けた木片が窓ガラスを突き破ることはあるが、今夜は嵐ではない。

 腹ばいになったままの視線で絨毯の上を見れば、細かなガラスの破片がきらきらと光っている。

「あ……悪い!」

 ディーンは急に叫んで、ジリアンからぱっと離れた。

「君を潰してしまった……平気か? その、腹とか……」

「なんともないわ」

 ディーンが離れてみれば、確かにジリアンは潰れたカエルのような姿勢を取らされていたが、彼が気にしているのはジリアンの格好のことではないようだ。だが、今朝起きた時から乳房が張って、足が浮腫んで身体が怠い。それは月の障りの前のジリアンに、いつも訪れる症状であった。数日後には、もっとはっきりするだろう。


「どうしてガラスが割れたの?」

 ジリアンは起き上がり、辺りを見回した。絨毯の上には、紙をくしゃくしゃに丸めたようなものが落ちていた。あれが投げ込まれたのだろうか。

「ジリアン様? 何の音ですか? 大丈夫ですか?」

 音を聞きつけたらしいエリンがやってきて、扉をノックしている。

「ガラスが割れたの。私は大丈夫よ」

 扉を開けたエリンは、ジリアンがディーンと一緒にいる所と、散らばったガラス片を見て、一瞬怪訝そうな顔をしたが、箒とちりとりを持ってきてとお願いすると、急いで取りに向かってくれた。

 ディーンはガラスを踏まないように用心深く歩を進め、丸めた紙を手に取った。そしてランプの近くで紙を広げた。中には黒っぽい石が包まれている。これを重石代わりにしていたのだろう。

 そしてその紙には殴り書きしたような文字で、『ここから でていけ さもなくば……』と書かれていたのだった。




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