15.屋根裏部屋
屋根裏部屋へ続く階段の入り口で、ジリアンは耳を澄ませていた。
領民たちを招くガーデンパーティーでは、とあるレクリエーションを考えている。そのためにちょっとした裁縫や工作が必要なのだが、マーカスの話によれば屋根裏部屋には昔の生地や衣装がしまいこまれているらしい。そこに利用できるものがあるかもしれないので、物色してみようと思ったのだ。
屋根裏部屋に向かうには、屋敷の封鎖されている一角を通らねばならず、ジリアンはランプを持って薄暗く埃っぽい廊下を歩き、蜘蛛の巣のはった扉を開けた。
目の前の狭い階段を上れば目的の部屋だ。
一歩踏み出すと、階段の板が軋んだ。それと重なるように、女性のくすくすという笑い声が聞こえた様な気がした。
ジリアンは踏み出した足を戻し、上方を見上げ、耳を澄ませる。
階段を上った先には、屋根裏部屋の扉がある。暗くて細部までは分からないが、扉はしっかりと閉まっているように見えたし、実際、ジリアンのドレスのポケットにはマーカスから預かった屋根裏部屋の鍵が入っている。中に誰かがいるはずは、ない。
ジリアンはもう一度階段を上ろうとした。一段目を踏んだ時、やはりくすくす笑いが聞こえた気がした。ごくりと唾を飲みこみ、二段目を踏む。二段目は軋まなかった。
もう一段、そしてまた一段、と上っていくと、八段目が軋んだ。それに被せる形で、ひそひそ話をする声が聞こえる。それにまた、小さなくすくす笑いが続いた。女性の声……というよりも、それは少女のものだ。しかも、二人いる。
「……誰か。誰かいるの?」
あと数段で階段を上りきる。ジリアンはランプを掲げて扉をよく照らした。やはり扉は閉まっている。今、中からは何も聞こえない。ジリアンは息を吸い込み、もう一度扉に向かって訊ねた。
「中に誰かいるの?」
「ジリアン様?」
突如背後から声をかけられ、ジリアンはランプを取り落しそうになった。だが、落ち着いてみれば声はエリンのものだ。
「エ、エリン?」
「ジリアン様? マーカス様から聞いたんですけど、屋根裏はかなり埃っぽいみたいですよ。あたし、水拭きできるようにバケツと雑巾持ってきたんです」
「あ、ありがとう」
エリンは水の入ったバケツを手にぶら下げて、ジリアンの後を追ってくる。やはり一段目は軋んだが、扉の向こうからは何も聞こえなかった。ジリアンが八段目で立ち止まったままなので、エリンはすぐに近くまでやって来た。
「ジリアン様? 中に入らないんですか?」
「中から、女の子の声がしたの」
「えっ」
ジリアンは初代侯爵の肖像画の事を思い出した。
あれ以来、一人の時はじっと見る事を避けていた。また髪が伸びていたり、元通りになっていたりしたら、気味が悪いからだ。
髪の長さが違って見えた初代侯爵の肖像画。風景画が首なし騎士に変わったこともあった。一人分多く注いでしまったお茶のこともある。それに……。
林の中で何かに追いかけられたように思えるのは、気のせいだったのだろうか。否、これまでの怪奇現象とは明らかに違う、命の危険を感じた。だが、それすらも思い込みなのかもしれない。
この屋敷に来て以来、心休まる時があったとは言えない。ナタリーは敵意をむき出しにして厭味ばかり言ってくるし、キャロルはあの通りだ。そして夫とも心が通じ合っている訳ではない。
本当に、疲れているのかもしれない。……でも、精神的疲弊が見せた幻を恐れてディーンとあんな行為に及んでしまったのかと考えると、それも、素直に認めたくはなかった。
「やっぱりナタリー様が言うように、祖先たちが私を追い出そうとしているのかしらね」
「そんな……あたし、ナタリー様はそうやってジリアン様を脅かして喜んでるだけだと思います、ほんと趣味悪い!」
自分が怯えれば怯えるほどナタリーが図に乗るのだと思うと癪だ。だが、本当に肖像画の髪は伸びたし、首なし騎士もいたし、もう一人分のお茶が必要だと思ったのだ。それらに、ナタリーが意図的にからくりを仕込むのは無理なように思える。だが、林での出来事は、人を雇えば不可能ではない気もする。では、今のこの現象は……?
ジリアンはもう一度扉を見やった。
「ジリアン様、あたしが開けましょうか。それとも……箒でも持ってきますか?」
エリンは意気込むように言った。箒は、扉の奥に何かがいた場合に、殴りつけるための武器なのだろう。そんなエリンに、ジリアンは思わず微笑む。
「いえ、大丈夫よ。私が開けるわ」
ジリアンは弟のドミニクがいるから、ヴィヴィエ家の家督を相続する訳ではない。また、どこかの王侯貴族に嫁ぐよう教育を受けた訳でもない。今までに、人の上に立つ資質を求められたことは無かった。だがハーヴェイ侯爵夫人となった今は、修道院時代のようにただ淡々と日常を過ごす訳にもいかない。
三年という期限付きではあるが、今の立場にある以上は領地のラガリエと、このハーヴェイの屋敷のために全力で尽くすべきだ。訳の分からぬものに怯えて背中を向けている場合ではない。ジリアンは思う。懸命に仕えてくれるエリンを守るのは私の役目でもあるのだ、と。
鍵を開け、扉の取っ手に手をかける。それから勢いよくひと息に扉を全開にした。
屋根裏部屋にも風を入れるための窓はある。陽射しに照らされて、埃がちらちらと舞っている様子がよく分かった。だが、それだけだった。中には誰もいなかった。
しかしいたる所に古い家具や衣装箱が置かれ、丸められた絨毯や本の束、それに何なのかよく分からないものが乱雑に積んである。子供が隠れる場所はいくらでもあるような気がした。
ジリアンが一歩進むと、床に溜まっていた埃が舞い上がる。
「へくしょい」
エリンがくしゃみをする。
「まずは窓を開けた方がよさそうね」
ジリアンも鼻と口元を押さえながら窓に向かおうとしたが、エリンに袖を引っ張られる。
「ジリアン様、あれ……」
エリンの示した方向を見ると、大きな衣装箱が置いてある。床一面に埃が積もっていたが、その箱の周りには、比較的新しいと思われる足跡がいくつかついていた。それはジリアンやエリンのものよりも幾分小さく、子供のものだと思われた。
二人は顔を見合わせ、もう一度衣装箱に目をやったが、足跡はそこにしかない。だがその中にはかなり古い生地や衣装が入っていただけであった。
誰かがいそうな気配はあったのに、屋根裏には誰もいなかった。
*
最近のジリアンは、領民たちのために開くガーデンパーティーのために忙しくしている。
レクリエーションでも予定しているらしく、物置となっている屋根裏部屋へエリンと一緒にこもっていたかと思えば、カラフルな布を縫い合わせている。
その際マーカスやパトリックを呼んで彼らの寸法を測ったりもしていた。ディーンはそんな風景を横目で見つつ、何故俺は採寸してもらえないのだろうと考えてもいた。
「ジリアン。ちょっといいか?」
夕食の後に、暖炉の間で縫物をしているジリアンに声をかけると、彼女は手にしていた裁縫道具を脇に置いて、揺り椅子で居眠りするキャロルの方を見た。
「ここで話してはいけない事なの?」
「ああ。ちょっと、俺の部屋まで来てくれないか」
ジリアンはキャロルのひざ掛けを直し、それから彼女が目を覚まして針や鋏に触れては危ないと思ったのだろう。裁縫道具を箱の中にきちんとしまうと、それを棚の上に置き、ディーンの方までやってきた。
「あのことなら、まだ分からないわよ」
「いや、その話じゃない」
「……そう」
要するに、ジリアンの月の障りはまだ訪れていないのだろう。あとどれくらいで判明するのだろうか……そんな事を思いながら階段を上り、自室の扉を開ける。それからジリアンを座らせた。
「林の中で君が歩いただろうルートを辿ってみた」
いきなり本題に入ると、ジリアンは弾かれたように顔を上げた。
「林に屋敷の裏から入って、川を経由して狩猟小屋に出たとなると、君が通った場所はだいたい限られてくる」
「貴方、林に入ったの?」
「うちの領地のことだからな。密猟者や頭のおかしい殺人鬼がうろついてるとなると、放っておくわけにもいかないだろ」
「で、でも。あ、危ないじゃない! 何かあったらどうするのよ」
ジリアンは怒ったような顔で訴えてくるが、これは、心配してくれていると考えて良いのだろうか。俺に何かあったら君は未亡人となって自由の身だな、おめでとう。狩猟小屋での事が起きる前であったら、憎まれ口をきいていたかもしれない。
だが、あんな風に弱ったジリアンを見てしまったからか、それとも勢いとはいえ肌を重ねてしまったせいなのか──おそらくは両方なのだろう──どうにかしてもっと歩み寄れないのだろうかと思ってしまう。
こんな風に感じているのは俺一人だけなのか……? とディーンは首筋を掻いた。
「周囲をざっと見て回っただけだから、見落としもあるかもしれないが……罠が仕掛けられていたような形跡はなかったし、弓矢が刺さっている木も見つけられなかった」
そう伝えると、ジリアンはさっと顔色を変え、俯いた。
「では、私は幻に怯えていたのね……」
「いや、犯人は、君が去った後で矢と罠を回収したのかもしれないだろ」
「貴方は……貴方は、私の頭がおかしくなったと思わないの」
ジリアンは、困ったような、戸惑うような表情をしている。彼女は、自分がありもしない何かに怯えて、精神を病み始めているのではないかと不安だったのだろう。
そういう時はもっと頼ってくれればいいのにと言おうとしたが、ジリアンがやって来てから自分は頼もしい振る舞いをしていた訳ではない。それどころか慣れぬ侯爵という地位にいつもあたふたとしていて、ジリアンに助けられた事すらある。これでは頼ろうなどと思えないのも自然な話だ。
ディーンは机の抽斗を開けると、中に入っていた布の塊を取り出してジリアンに見せた。布を解けば、中からは細長い棒状のものが現れる。
「これ、は……矢?」
「クロスボウ用のな」
通常の弓に使用されるものよりも短く、丈夫に作られている。目の前のテーブルに置かれたそれを、ジリアンはじっと見下ろしていた。
「俺の兄は落馬で死んだが、それは事故現場に落ちていたものだ」
ディーンはその場にいた訳ではないが、クライヴが亡くなったのはこの領地内での出来事だ。彼は領地の見回りのために馬を走らせており……領民に発見された時にはすでに事切れていたようだった。
矢は、クライヴが倒れていた場所の近くの地面に突き刺さっていたものを、マーカスが見つけたのだ。クライヴの乗っていた馬はその時は姿が見えなかったが、二日ほどして屋敷へ戻って来た。
「状況からの推測でしかないが、何者かに矢を撃ち込まれ、馬はそれで驚いたんだろう。兄を振り落として興奮したままどこかへ駆けて行った……と」
「それ……お兄様の死は、事故ではなかったという事?」
「わからない。本当に、状況から推測したにすぎないんだ。矢は故意に撃ち込まれた訳ではないかもしれない。ただの流れ矢だという可能性もある。狩猟期間が終わる直前のことだったしな」
現場は視界の開けた場所であったが、それほど遠くない場所に猟が盛んにおこなわれている林もあった。
「君を狙ったという矢が、これと似たような……クロスボウ用ものであれば、兄は単なる事故死ではなかったという方向に近づくと思ったんだが」
とはいえ、話はますますややこしくなる。兄のこととジリアンのことは、狩猟者の流れ矢と密猟者の流れ矢で片づけてしまった方が話はずっと簡単だ。
ジリアンとクライヴの二人を狙った者が同一人物であったとして、それが何を意味するというのだろう。ハーヴェイ侯爵を狙った犯行であれば、ジリアンではなくディーンを襲うはずだ。ディーンとジリアンの背格好は大きく異なっているし、林の中、遠くからだったとしても間違えるとは思えない。
「あの時は慌てていたから……」
矢を見つめていたジリアンが口を開いた。
「私を狙ったものがどんな矢だったかは、覚えていないわ……ごめんなさい」
「謝る必要はないさ。俺の方こそ、悪かったな。不用意に君を危険な目に遭わせた」
「別に、貴方のせいではないわ」
「いや、俺が林の中で虫が見つかるなんて言ったから……林は、パトリックのために入ったんだろう?」
もっともあの時は、こんな事になるなんて予想も出来なかったのだが。そう言えばこの話をしたのは暖炉の間で、ウォルターとルイーズもいた。彼らが虫捕りのために林の中へ入るとはとても思えないが、念のため、彼らにも林の中は危険だと伝えておくべきだろう。
「私……」
ジリアンは膝の上でぎゅっと拳を握っている。そして何かを決意したように顔を上げた。
「私、貴方が残虐だとか好色だとかいう話は、今はもう信じてはいないわ。それに、お父様とお兄様を殺めたという噂も。貴方は、自分の立場に真摯に対応している。それは分かるもの」
「……うん?」
急に何を言い出すのかと思った。これはジリアンの自分に対する印象が好転しているという話なのだろうか。
「貴方は、思うように物事が進まなくても、声を荒げたり暴力で解決しようとしたりすることは無かった。貴方は残酷な悪人ではないわ。女性のことは……そうね。い、一度だけお酒のにおいをさせて帰ってきたことがあったけれど、男の人だし、仕方ないと思ってる」
それはひょっとして、結婚して数日目の夜の事を言われているのだろうか。あれはウォルターに呼び出されて酒場へ出かけたのだ。飲んではいたが、女性と一緒だった訳ではない。というか、ジリアンは起きていたのか? しかも気にしてくれているようだ。
「いや、あれは……」
「いえ。いいのよ。あれほど悪し様に言われているのに、貴方はよくやっている。そう思うわ」
ジリアンは立ち上がり、「ちょっと待ってて」と言うと、自室となる続き部屋へと入っていった。
彼女はすぐに戻って来た。腕には白くてふわふわとしたものを抱えている。それには見覚えがある。ディーンがジリアンの寝台で手に取った、彼女の寝間着だ。ついこの前、あれを手にしてぼんやりと夢想していたら、背後にジリアンがいて何をしているのかと責め立てられた。
ジリアンはそれをディーンに差し出した。
「はい」
「……はい、って……?」
それを着て現れて「脱がせて」と言ってくるのならばまだわかる。しかしこうして寝間着だけ渡されても。ジリアンは何がしたいのだろう。着替えさせてくれという事だろうか。まさかな。そんな事になったら、彼女にこれを着せる前に押し倒してしまうだろう。
「あの時、貴方はこれを手に持って、何か考え込んでいたわ」
「う。まあ、うん……」
改めて指摘されるとかなり恥ずかしいが、確かにその通りだ。これを見ながらジリアンと肌を重ねた事を思い出していたのだから。
「だから、あげるわ」
ジリアンはディーンの手を取って寝間着を持たせようとした。彼女は真顔である。
「これを、着てみたいのでしょう?」