14.その後の懸念
鏡台に座り自分の顔を見る。
髪はきつく結ったままではあるが、一連の出来事ですっかり乱れ、ところどころ解れて飛び出してしまっている。髪を直そうとして、まずは濡れたドレスを着替えるべきだ……いや、湯を使うべきかと考えていると、部屋にエリンがやって来る。
「ジリアン様!」
そしてジリアンの姿を視界にとらえると、彼女は飛び上がった。
「マーカス様から、ジリアン様がずぶ濡れで戻って来たって……ああ! いったい、どうしたんです? まさか、井戸に落ちたんじゃないでしょうね?」
そう言って近づいてきて、ドレスの裾がボロボロになっている事を知ると「ひああ」と叫んで真っ青になった。
「ほ、ほんとに! 何があったんです? 怪我してるんですか!?」
「お、落ち着いて、エリン。怪我をしている訳ではないわ」
「だっ、誰かに襲われたんですか? ひょっとして、強盗でもいたんですか!」
「い、いえ」
否定はしたものの、自分を追いかけてきたように思えた『あれ』は、猟師ではなく強盗の類だったのだろうか。
「でも、あの人……ディーンがいたから……」
「侯爵が? 侯爵と一緒だったんですか?」
何から話すべきであろう。図書室でパトリックと話した後、林に入って、その後は……ジリアンの想像を超える出来事の連続であった。正直、どうやって屋敷に戻って来たのかもよく覚えていない。自分でも纏めきれないのに、エリンに分かってもらえるように話せるだろうか。そう思っていると、
「ジリアン様! 血が!」
エリンはジリアンの足元に座り込み、ドレスの裾を手に取った。
自分が出血しているとは思ってもみなかったジリアンであったが、確かめようとして自らもドレスを捲り上げた時、絹の靴下の内側の部分に、点々と血の染みが散っている事に気が付いた。
それはまだ乾いてはおらず、明らかに、血液とは別の類の体液が混ざっているのが見てとれた。これが何なのかに思い当たった瞬間、エリンが声を絞り出した。
「あ、あンの男……!」
エリンは、ディーン・ラクリフ・ハーヴェイの仕業だと決めつけたようで、腕まくりをして、いざ彼を殺しにいこうと立ち上がる。
「ま、待って、エリン。違うのよ」
「何が違うって言うんです!」
確かにディーンが絡んではいるが、一方的に襲われた訳ではない。襲われたどころか、まるで、自ら誘うように……ああ! ジリアンは頭を抱えたくなったが、まずはエリンを止めなくてはいけない。
「これは、貴女が思っているような事ではなくて……」
「ジリアン様! 何であいつを庇うんですか! あいつに、絆されちゃったんですか? あたしたち、そういう女の人を、たくさん見てきた筈じゃあないですか!」
暴力を振るう夫から逃げるために修道院に逃げ込む女性はたくさんいた。
だが、それ以上に多かったのは絆されてしまっている女性である。彼女らは夫に虐げられ、だが彼は自分がいないと駄目な人だからと、或いは暴力を受けるのは自分に原因があるのだと、シスターたちに吐き出しては満足して自分の家に帰っていく。
ジリアンとエリンは、そんな女性たちを目にするたびに話し合ったものだ。
あれはお酒や麻薬と一緒で、周囲がどれほどやめろと言っても、本人が心の底から「このままではいけない」と決意しなければ現状から抜け出すことはできない。だが抜け出す事の出来なくなっている女性の、なんと多い事かと。
「ジリアン様~」
「エリン、これは、そう言う訳ではなくて……ちょっと、自分でも整理がつかないんだけど、でも、彼が悪いわけではなくて……」
もはや自分でも何を言っているのか分からない。
林で罠を見つけ、矢を放たれた時は、本当に殺されるかと思った。はじめは猟師かもしれないと思っていたが、藪の中を逃げ回っているうちに、ナタリーの言う祖先の亡霊か、若しくは巷で囁かれている呪いが姿を現したのかとも思った。
そんな時に目の前にディーンが現れて、心底ホッとした。
彼の存在は力強くて、訳のわからぬ黒い霧を晴らしてしまうようなオーラがある。
ジリアンは思わずディーンにしがみ付き……そこで頬を押さえる。
とにかく、自分が生きているのだと、ディーンの手で思い知らせてほしかった。あの時は夢中で、身体を繋げた時の痛みすらも生を実感できるもののような気がした。
それは嵐のように過ぎ去って、冷静になってみれば、自分はディーンに弱みを曝け出したのだと、そして彼を利用して恐ろしい出来事を忘れようとしたのだと、思い当たった。
あれほど『ジリアンを抱く気はない』と豪語していたディーンである。そんな彼を誘惑するように肌を露わにし、愛撫に応えて彼を乗せ、利用してしまった──……。『悪かった』の一言では、彼の罪悪感を取り払うには足りないかもしれない。
だがこれ以上謝罪や言い訳を重ねても、何かが変わるとは思えなかった。
*
「ジリアン様からの提案なのですが……」
「えっ?」
ディーンの書斎へマーカスがやって来てそう口に出した時、思わず背筋を正していた。
狩猟小屋でジリアンを見送った後、彼女は屋敷まで一人で帰れるのだろうかと思い当たってディーンはすぐに彼女を追った。そして小屋の手前に繋いでいた筈のディーンの馬は消えていた。ジリアンはディーンの馬に乗って屋敷へ戻ったのである。
みっともなく置き去りにされ、再び「なんて女だ」と呟いていると、荷車を引く農夫が通りかかった。途中まで荷車に乗せてもらえたのは、ジリアンの功績によるものだろう。領民の家を訪ねる時に彼女が一緒でなければ、領民たちはハーヴェイ家の新しい当主に心を開く事も無かったのだから。
腑に落ちぬものを抱えながら屋敷へ戻り、着替えを終えると、紙の束を抱えたマーカスがディーンの元へ来たのだった。
ジリアンは、領民たちを招いてガーデンパーティーをやりたいと言っているらしい。
「酒や料理をふるまって、ここで一気に領民たちとの距離を詰めようと、ジリアン様はお考えらしいです」
「なるほど」
王都も近いし、隣にそれなりの規模の街はあるものの、ラガリエ自体はこれといった娯楽もない農村である。そういった催し物も必要かもしれない。だが、懸念すべきことがある。
「……となると、屋敷をあげて準備に取り掛かることになるが、人手がないぞ」
「ええ。うちの使用人を街で募集した際は、まるで集まりませんでしたが」
マーカスは抱えていた書類を机の上に広げていった。
「少し条件を良くして、臨時での募集に変えたところ、反応がありました。食材の運搬と、調理、それから庭へテーブルや椅子を運び出す作業……」
パーティーを開催するにあたって必要な準備が箇条書きにされている。つまり、ディーンのところに話が来る前に、ジリアンとマーカスである程度は相談済みなのだろう。侯爵の手を必要以上に煩わせないため、と言われればそれまでだが、なぜジリアンは、直接自分に持ちかけてくれないのかとディーンは少し苦々しく思った。
「こちらが見積書です。ディーン坊ちゃん……失礼。旦那様に目を通して頂ければと」
マーカスはディーンの父アーサーに仕えていた。二人の年齢はそれほど変わらなかったから、マーカスはアーサーのみに仕えるつもりだったのではないだろうか。
父に何もなければ、二人は同じように年を取って、ハーヴェイ侯爵が代替わりする頃にマーカスも引退する……それが自然な事だったはずだ。それが、アーサーは思っていたよりもずっと早くこの世を去り、マーカスの主はクライヴに変わった。ここまではマーカスの想定内であったとしても、まさかクライヴまで早世してしまうとは思ってもみなかっただろう。ディーンとて自分が家督を継ぐことになるとはそれまで考えた事も無かったのだから。
ディーンが幼いころからマーカスはこの家にいたのだから、もちろん面識はある。だが彼はディーンを旦那様と呼ぶことに未だ慣れぬらしい。そして自分自身、旦那様と呼ばれるのは妙な違和感がある。
いや、だからと言って侯爵を辞めるなんて出来るわけもないし、今の自分の言動はラガリエ全体に影響を及ぼすことになる。ディーンは次男という事もあって兄に比べて幾分奔放に育ったが、父がどんな風に領地を守っていたのか、使用人たちにはどのように接していたのか、もっと意識しておけばよかったと今更ながら思った。
「失礼します!」
そこに、ワゴンを押したエリンがやって来る。物言いは乱暴で、ワゴンの押し方もかなり勢いが良い。彼女の機嫌が悪いのは一目瞭然である。エリンはディーンの座っている椅子にぶつける形でワゴンを止めた。
「お茶を、お持ちしましたので!」
「あ、ああ」
エリンはティーポットを手に取ると、ディーンのすぐそばで、あり得ないくらい高い位置からカップにお茶を注ぎだす。もちろん、熱いお茶が飛び散った。
「あ、あちっ、」
「失礼!」
そしておざなりにディーンの前にカップを置いた。ソーサーにはかなりの紅茶が零れている。マーカスの方を見やれば、彼にはきちんとした形でカップが置かれているので、エリンの怒りはディーンにだけ向けられているのだろう。
ジリアンは、あの出来事をエリンに話したのだろうか。いや、着替えや湯あみを手伝う際にエリンの方から気づいてしまった可能性もある。
「何か……彼女を怒らせたんですかな?」
エリンが去った後、マーカスが怪訝そうな眼差しをこちらに向けた。
「そうらしい」
エリンの現在の雇い主はディーンになるが、本来はジリアン付きの侍女である彼女を、ハーヴェイ家の都合で一使用人としてしまっている。辞められては困るのであまり強くは出られない。
それにエリンのジリアンに対する忠誠心──または友情──は有難いとすらディーンは思っている。今の状況では、ジリアンの味方は多い方が良いだろう。
その日の夕食の後、ディーンはジリアンと話す機会を設けたいと思い、自室の方からジリアンの部屋へ繋がる扉をノックした。
「ジリアン? 俺だ」
声をかけて再びノックするも、返事はない。「入るぞ」と言って扉を開けたが、彼女の姿はなかった。時間を置けば置くほど声をかけ難くなるような気がしたので中でジリアンを待つことにした。
いつもは暗闇の中、手元の小さなランプを頼りに注意深く進んで、ジリアンを起こさぬようにそっと毛布を捲るだけであったし、起床後は自室で身支度をする。ジリアンがやって来てから、この部屋をじっくりと眺めた事はあまりなかった。
鏡台には、ディーンには何に使うかよく分からない小瓶が並べてあり、どこからかほんのり良い香りがする。椅子の背もたれには、白くてふわふわとした生地が掛けられていた。やはりディーンにはこれが何なのかわからない。……ひょっとして下着? いや、まさかな。ショールか何かだろうか。
ふと視線を移すと、寝台にも白くてふわふわとしたものが置いてある。なんとなく手に取ってみると、それはジリアンの寝衣であった。今夜身に着けるものなのだろうかと思った瞬間、昼間の行為が鮮明にディーンの脳裏によみがえった。
本当に、どうしてあんなことになったのか分からない。だが自分はあの瞬間を待ち望んでいたようにも思える。嵐のような出来事だった。出来ればあんななし崩しの形でではなく、もう一度きちんとした形でジリアンの肌に触れてみたい……。
「わ、私の寝間着でなにしてるのよ!」
振り返るとジリアンが後ろに立っていた。彼女は肩をいからせながらこちらへ歩いてくると、ディーンの手からそれを奪い取り、キッと睨み上げる。まるで視線で「変態」とでも訴えているようだ。
「ち、違う。床に、落ちていたんだ」
「……ほんとかしら」
「俺は拾い上げただけだ」
それは嘘であったが、「これを見て昼間の事を思い出していたんだ」などと正直に答えては、それこそ殺されてしまいそうだ。
ジリアンは警戒した様な視線をディーンに向ける。彼女と狩猟小屋での出来事を話しあいに来たのは確かであるが、甘やかな話ではない。
「今日のことなんだが」
咳払いした後でそう言うと、ジリアンの頬がかすかに赤くなった。
「あ、あれは……謝ったじゃない」
「俺は、君に謝ってほしい訳じゃない。ただ、ああいう事になった以上……離縁するという契約は反故にしなくては」
「私は貴方に責任を取って欲しいなんて、思っていないわよ」
「そういう訳にはいかないだろう。子供が出来てたらどうするんだ」
少しムッとしかけていたジリアンであったが、その言葉に目を見開いて、お腹を押さえた。
「ま、まだ、分からないでしょう。出来てないかもしれないし」
「出来ていたら、離縁する訳にはいかない」
「でも、出来てなかったら、当初の約束通りでいくわ」
ジリアンはどうあってもここを出て行くつもりなのだろうか。確かにここは進んで滞在したいと思えるような場所ではない。根底に愛情があったとしても難しいだろう。
「けど、君は処女じゃなくなった。他の男に抱かれた女を欲しがる男はいないぞ」
本当に。なぜ、自分はジリアンの価値を貶めるような事を言ってしまうのだろう。まるで、自分以外は君を欲しがらないぞと彼女に言い聞かせるように。
だがジリアンの返答は淡々としたもので。
「貴方と結婚した時点で、私を処女だと思っている人はいないでしょう」
「う。た、たしかに……そう言えば、そうだった……」
「それに、私は修道院へ戻るもの。再婚したりするつもりはないわ。離縁した後の引取り手の心配までしてもらわなくて結構よ」
この部屋の中には女性らしい小物や優しい香りが溢れているのに、ジリアンの態度だけは固く、刺々しい。
心底可愛くない女だ。だが、その彼女に頼って欲しくて仕方がない自分がいる。
それともあれか? 俺は、女性を保護下に置く事で自分は強い男なのだと自尊心を満足させるタイプだったのか?
ジリアンは鏡台の前に並べられた小瓶の一つを手に取り、そこから手のひらに液体を垂らして、顔や首筋に塗っていく。彼女の中では、もうこの話は終わりらしい。
「とにかく……結果が分かったら、教えてくれ。それまで俺は、別の部屋で休むことにする」
一度彼女の肌を知ってしまった事で、隣で寝ているジリアンに我慢できる自信がなくなった。嫌がるジリアンを組敷いて思いを遂げてしまうかもしれない。