13.本能か否か
ディーンはハーヴェイ家の狩猟小屋の見回りに来ていた。
この辺の林の猟が解禁となるのは秋の終わりからにしてあるし、今がその時期だとしても猟を楽しんでいる暇などないのだが、あまり放置しておくと、小屋の鍵を壊してならず者が住みついたり、少年どもが悪戯をしていったりするのだ。
鍵や窓ガラスが壊されていないかを確認し、帰ろうとしたところで目の前の茂みからジリアンが飛び出してきた。彼女はずぶ濡れで、尋常ではない様子だった。
ディーンは狩猟小屋の中にジリアンを招き入れ、暖炉に火を入れた。
もう夏といってもよい時期だが、ジリアンは全身ずぶ濡れで、顔は真っ白で、ガタガタと震えている。よく見てみれば、彼女のドレスの裾にはいくつものかぎ裂きが出来ていた。暴漢にでも襲われたのだろうか。信じたくはないが、確かめなくてはいけない。
「ジリアン……いったい、何があったんだ? 怪我をしているのか?」
「わ、罠が……追いかけられたの」
「うん? なんだって?」
「だ、だからっ……」
ジリアンの髪はいつものようにきつく結ってあるが、ところどころが解れている。そこから滴が垂れて、絨毯に染みを作っていく。
「林の中に、罠があったの。矢が飛んできて……私は獲物じゃないって叫んだのに、追いかけてきたのよ」
「猟師がいたのか?」
この辺は今、禁猟期間だと周知してある筈だ。では、密猟者だろうか。だがジリアンは首を振った。
「あれは……猟師ではないわ。もっと、別の何か……私、殺されるかと思った……!」
再びジリアンの瞳から涙が流れ出す。ディーンはどうしてよいか分からずに、ただジリアンの肩を抱いた。
「君に、怪我はないんだな?」
「ディーン……」
彼女の口から紡がれる自分の名は、なんと甘やかな響きだろう。
思えば今日、初めてジリアンに名を呼ばれた気がする。もっと呼んでくれ、俺の名を。心の中で思っていると、
「ディーン」
ジリアンはそう言って、ディーンの胸に頬を寄せた。
あの気の強い女が、まだ震えている。よほど恐ろしい目に遭ったのだろう。
「ジリアン」
「ディーン、私……」
励ますようにジリアンの背中に手を当てると、彼女が縋るように身体を寄せてくる。
ディーンは思わずジリアンに口づけていた。
結婚式の教会でかわした様な淡白なものでなく、相手の唇を食む様なものだ。彼女は抵抗するどころか、ディーンの身体に腕を回してきたので、次第に口づけも深いものになってくる。
ジリアンの首筋に手を添えて、自分の舌で彼女の唇をこじ開けた時、ディーンははたと我に返った。
ジリアンにこんな事をするなんて……俺は、殺されるんじゃないか? と。ハーヴェイ家の呪いとかいう、得体の知れないものに命を奪われる前に、ジリアンの逆鱗に触れたというはっきりとした理由で。
だがジリアンはディーンに導かれるまま、唇を開いた。そのまま彼女の舌を自分の舌で掬い取っても、首筋に添えた手を下方へ滑らせて乳房を包み込んでも、ジリアンは抵抗しない。ただ涙に濡れた瞳を瞬かせて彼の腕に触れ、胸を、背中を撫でまわす。
ジリアンの触れ方はちっとも官能的なものではなく、純粋にディーンの存在を確かめるような、ぎこちなくも力強いものだった。
かつてディーンは、ジリアンの鼻っ柱をへし折ってやったら、どんなに気分がいいだろうと考えた事がある。
だがそれはこんな形でではない。ディーンは、こんな風に萎れたジリアンを見たいわけではないのだ。なんとかしてやらないと。できれば自分が彼女を元通りにしてやりたい。
まずは……そう。ジリアンのドレスを乾かしてやるべきだ。濡れた服を脱がせ、暖炉の前でそれを乾かしている間、ディーンの上着を貸してやる。ジリアンの震えが収まったところで、ゆっくりと詳しい話を聞くべきなのではないか?
「ジリアン、服を……」
「え、ええ」
ジリアンはドレスの前紐を解こうとしたが、指が強張っているようで上手くいかない。ディーンが手を貸してやる。濡れた紐は解けにくかった。何とか解いてドレスの胸元を緩めていく。濡れたシュミーズがジリアンの肌に貼りついているのが分かった。
「ジリアン。これ以上は、」
これ以上はまずいことになる。自分でどうにかしてくれないかと、そう言いたいのに、濡れた下着越しに上下するジリアンの胸元から視線を外せない。
ジリアンがもう一度「ええ」と呟き、ディーンが目の前にいるというのに、ドレスの身頃を身体から剥いだ。ディーンのなけなしの理性はそこで霧散した。
自分の服まで濡れてしまうのも構わずに、ジリアンをきつく抱きしめながら絨毯の上に押し倒す。キスを続けながら彼女の身体を撫でまわしていると、その唇からはため息のような声が漏れた。
やがてジリアンは手を伸ばし、ディーンの頭を抱くようにその髪に指を差し込んだ。見つめ合い、もう一度口づけると、あとはもうなし崩しであった。
ディーンは呼吸を整えながらジリアンの上から退いた。
彼女もまた、激しく胸を上下させている。
今、二人の間に何が起こったのかは分かる。自分がジリアンに何をしてしまったのかも、もちろん分かる。だが、どうしてこんな事になったのかは、どれだけ考えても分からなかった。
ジリアンは濡れたドレスを身体に纏わりつかせたまま絨毯に身体を投げ出していたが、やがて身を起こしドレスに袖を通した。そこでディーンも、自分が使ったものを出しっぱなしで放心していたことに気づき、服を直す。
まずは、ジリアンを労わるべきであろう。怪我、と分類してよいものかどうかは分からないが、ディーンのせいで出血したのは確かだ。それに、まだ痛いのかもしれない。それから……
「本で、読んだことがあるの」
「うん? 本……?」
先にジリアンが口を開いた。何の脈絡もないセリフに思えたので、思わず訊ね返す。
ジリアンは足に絡まったドレスをもそもそと直し、それから胸元の紐を縛りなおすためか、ディーンに背を向けた。
「人の死を目の当たりにしたり、今日の私のように……死ぬかもしれないと思うような体験をした後って、本能的に、男女の交わりを求めるんですって」
「……は?」
「生きている事を手っ取り早く実感できるからでしょう。死とは、対極に位置するような行為だもの」
「ジリアン、君は、何を言って……」
この出来事によって、二人の間に変化が起こるだろう。形だけの婚姻が反故になった今、ディーンはこれからの予定を組み立て直すことが必要だと思っていた。そして彼女も同じ考えだろうと。
だが彼女が口にしたのはある意味現実的ではあるが、ディーンの期待や未来を木端微塵に吹き飛ばす様な勢いがあった。
「私がした事は、人間の本能に則った行動だと思うのよ。でも、貴方の意思を余所にしてしまったわ……だから、」
「……だから?」
ドレスを直し終わったらしいジリアンは立ち上がり、こちらを向いた。
「わ、悪かったわね」
ジリアンはくるりと踵を返し、狩猟小屋の扉を開けると、そのまま出て行ってしまった。
小さく軋んで揺れた扉を、ディーンは呆然と見つめていた。
自分はそれほど女性経験が多い方ではない。
男同士でつるんでいるのが楽しくて、女性に興味を持つのは遅い方であった。だがある時どこかの邸宅のパーティーに出席すると、背中の大きく開いたドレスの女性に声をかけられた。「私、危険な男って大好きよ」と。
当時のディーンは戦場で傷を負ったばかりで、それはまだ生々しい形で存在していた。てっきり顔の傷のことを言われているのだと判断したが、思えばあれはディーンのよからぬ噂が出回り始めた頃だった。
彼女は年上の未亡人で、男女のあれこれをディーンに教えてくれた人でもあったが、次第にディーンが噂とは違う人物だと気づき始めたようだ。次の休暇で戦場から戻ってくると、彼女はディーンへの興味をすっかり失っていた。
あとは……どうにも我慢が出来なくなった時、戦場近くの街の、その手の店へ行った事が何度かあった。その程度ではあるが、全く女性に触れた事がないわけではない。
しかし、行為の後に女性から謝罪を受けたのは初めてである。おまけに相手は──色々と事情があるとはいえ──己の妻だ。
「な、なんて……なんて女だ……」
可愛げはないし、その辺の男よりも気は強い。
狩猟小屋の前で鉢合わせたジリアンは、今までとは全く違い、何とかしてあげなければ儚く消えてしまいそうな程に怯えていた。その『何とか』があの行為だったのは正しい事なのかどうか、今のディーンには判断もつかないが。
だがジリアンは行為を終えた途端、精を抜いてすっきりした後の男以上に冷めた分析を始めた。
「なんて女だ……まったく……」
呟きながら思う。
ディーンは、あれを単なる『人間の本能』で片付けられたくはなかった。
それにディーンは、ジリアンにもっと自分を頼ってほしかった。