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12.追われる獲物



 今夜はエルノー公爵夫妻の食事会である。

 十一歳のジリアンは真新しいドレスに身を包み、使用人に髪を整えてもらっていた。


「私もお母様みたいにしたいわ」

 母のソフィは既に自身の支度を終え、ドミニクのタイを、ああでもないこうでもないと何度も結び直してやっている。もっとも五歳のドミニクにとってそんな事はどうでもいいようで、早く解放されないかと若干退屈そうな表情を見せ始めていた。

 艶のある黒髪を優雅にまとめていたソフィは娘の言葉に首を振り、こちらへやって来る。

「こういうのは、あなたの髪質では無理ねえ」

 そう言ってジリアンのちりちりの黒髪の弾力を確かめるように触る。

 ひと房だけ手に取って真っ直ぐに伸ばしてみても、指を離すとそれはばねの様に勢いよく、再び螺旋を描く。

「このオイルで艶を出して、下ろしておくのが一番いいんじゃないかしら」

 ソフィは鏡台に置いてあったオイル壜を指さし、使用人にそう伝える。希望が通らなかった事にジリアンはがっかりしたが、

「ジリアンお嬢様の髪は、下ろしておくのが一番だとあたしも思いますよ。とくにこの細かいカール! あたしの髪じゃ、こてで何時間粘ろうとこんなボリュームは出せませんもの。羨ましいわあ」

 ジリアンの髪を整えていた使用人はうっとりとしながら、その髪を指に巻きつけたりしている。

「それから、ドレスに合わせた色の小さいリボンをいくつか結んであげるといいかもしれないわね」

 ソフィはそう言って、再びドミニクのタイを結ぶ作業に戻る。使用人はソフィの言ったように、まずは自分の手のひらにオイルを垂らして両手を揉んでから、それをジリアンの髪の毛に広げていく。オイルの良い香りがジリアンの鼻先にも広がった。

 細かなカールに濡れたような艶が現れ、使用人は自分の指先と目の粗い櫛を使って、さらにジリアンの髪を整えていく。

「本当に、素敵な髪」

 そんな風に呟きながら。


 ジリアンとしては自分の多すぎるしカールし過ぎている髪が好きではなかった。しかし、大人の女性たちはいつもジリアンの髪を見て羨ましいという。

 身に纏ったよそ行きのドレスのせいか、オイルの甘い香りのせいか、使用人の褒め言葉のせいか、これから祖父母の屋敷を訪ねるという非日常感のせいかは分からない。何となく、自分の髪が好きになれそうな気がしてきた。

 そして祖父母の屋敷では、ジリアンの髪型は集まっていた女性客たちに大評判であった。今思えば、あれは心からの言葉だったのかもしれないし、社交辞令だったのかもしれない。だが当時のジリアンにはそんな判断はつかず、気分は浮上を続けていた。


 そんな時に、招待客の男の子たちが目に入る。ディーン・ラクリフ・ハーヴェイ。

 彼は少年の頃から身体が大きかったので、一つ年上なだけには見えなかったが、行動は悪がきそのものであった。同じ年頃の男の子たちとつるみ、料理の乗ったテーブルの周りを走り回っていた。彼はふとジリアンに目を留め──。




 そこでジリアンはがばりと起き上がった。

 勢いよく起き上がったので、ディーンを起こしてしまったかもしれない。しかし隣を見やれば、彼はピクリとも動かず熟睡を続けていた。

 戦場に過ごしていたのならば、こういった事には敏感になりそうなものだが。彼に呆れてやろうとしたが、思い直す。ディーンも疲れているのだ。

 ジリアンはベッドから出るとそれを回り込み、ディーンの寝顔を見下ろした。


 もはや彼が戦場で残額な行為に及び、肉親を手にかけたのだとは思えなかった。

 ハーヴェイ家に嫁いでひと月が経とうとしている。

 その間に、彼がなんとかして自分の立場に馴染もうとしているのはよく分かった。やり方はだいぶ不器用で要領悪くはあるものの、真摯に目の前の問題に対処しようとしている。領民を一人一人、自ら訪ねようとしていたのが良い例だ。ジリアンが同行したことでディーンやハーヴェイ家に纏わる悪評が少しは払拭されていればよいのだが。

 三年後、自分は離縁という形でラガリエを離れるだろう。その時に事態が今よりも好転していればと思う。


 ジリアンはディーンの頬に手を伸ばし、顔の傷を覆うようにして眺めた。傷が無ければ、ただのガキ大将がそのまま成長した様な風貌に思える。そのガキ大将は、思いもよらぬ家督の相続に足掻いている門外漢だ。

 ふいに彼に憐憫の情が湧きそうになり、いいえ、と首を振った。

 私だって疲れている。ナタリーの心無い言葉を裏付けるような数々の現象。自分は、本当に祖先の霊によってこの屋敷を追い立てられようとしているのだろうか? それとも、この屋敷に馴染めず心が弱くなっている所を、ナタリーにいいように言われているだけ? 肖像画の髪が伸びた事や、額縁の中の首なし騎士は、疲れが見せた幻だったのだろうか。だが、ディーン相手に弱音は吐きたくない。

 そしてジリアンは、ディーンが目を覚まさぬうちに着替え、三つ編みを解いて髪を結い直した。




 朝食後、ジリアンは屋敷の中の図書室にいた。

 今日は天気も良く気持ちの良い風が吹いている。カーテンを留め紐で縛って窓を開け放ち、空気がこもらないようにした。それからランプの一つ一つに油を差していく。

 すると、パトリックがやってきた。彼は抱えていた本や筆記用具を図書室の机の上に広げる。

「お勉強?」

「うん」

 パトリックはこの春から王都の寄宿学校へ入っていた筈である。だが冬に父親が亡くなり、その話は流れてしまった。ナタリーが反対したのである。夫を失ったばかりで、息子と離れて過ごすのが不安になったのでは、とも考えられるが、本当のことはジリアンにも分からない。ジリアンやディーンが訊ねたところで、ナタリーが本心を明かしてくれるとも思えない。

「ナタリー様は、街の学校へも通わせてくれないの?」

 ラガリエは牧歌的な村であるが、領地を出たところにグラウツという比較的大きな街が存在している。ラガリエからグラウツの学校へ通っている子も多いのではないだろうか。

 もちろん馬車での送り迎えが必要になるから、今の使用人の数ではそれも無理だ。ハーヴェイ家専属の厩番や御者を雇うには、どういう条件を提示すれば人が集まってくれるだろう。マーカスと相談してみようかと考えていると、パトリックが俯き、本のページの隅をちりちりと弄る。

「街の学校へは、行ったよ。ディーン兄さんが侯爵になって……家庭教師の人が辞めちゃった後すぐ、母さんに掛け合ってくれたんだ」

「まあ、そうなの?」

 ナタリーがディーンの言う事を素直に聞くとも思えないのだが。

「うん。母さんは渋ってたけど、このままじゃ僕の勉強がどんどん遅れていくって兄さんに言われて、考えを変えたみたいなんだ。学校へは、兄さんが送り迎えしてくれた」

 ジリアンは目を丸くした。当時の屋敷の様子を察するに、ディーンは異母弟の送り迎えなど悠長にしている場合では無い筈である。何やってるの……とも思えたが、彼らしいとも思えた。

「けど、学校のやつらに、家のこと色々言われて……僕、二日目で辞めちゃったんだ」

「まあ……」

 残虐で好色だというディーンの噂のことだろうか。それとも、ハーヴェイ家が呪われているという話だろうか。どちらにしても、顔に傷のある男がパトリックの送り迎えをしていたとなると、街でもかなり目立つだろう。しかも相手は十二、十三歳の少年たちである。面白がって騒ぎ立てられたのではないだろうか。


 だが、パトリックは首を振り、声のトーンを落とした。

「僕の母さんが……人殺しだって」

 そっちか。と、ジリアンはぎくりとした。

「母さんが、僕を侯爵にするために父さんとクライヴ兄さんを殺したんだって、みんな言うんだ。次は、ディーン兄さんがやられるぞって。ねえ、ジリアンは僕の母さんがやったって、そう思う?」

 夫のアーサーには毒を盛って病死に見せかけ、クライヴの事は事故死に見せかけたのだと、街の学校で言われたらしい。

 ジリアンは言葉に詰まってしまった。これは少年たちの両親が囁いている事なのだろうか。いや、十二、十三歳ともなれば、それくらいの推理や想像は働くかもしれない。

 ではパトリックはどうだろう。父と兄が立て続けに亡くなったことを、彼も不自然だと捉えて葛藤していたのだろうか。それを、同じ年頃の男の子たちから、からかうように指摘されてしまった……。

 ジリアンとて、ナタリーが全く怪しくないとは思えない。それに、どうしても彼女には良い感情が抱けない。だがパトリックの前でそんな事は口に出せるわけもなく。

「ま、まさか。ナタリー様が、そんな事する訳ないじゃない」

「うん……」

 ナタリーが善人だとは思えないが、夫と義理の息子を次々と手にかけて平気な顔をしていられるものだろうか。

 パトリックはしょんぼりとした様子で本を捲っている。やがて栞を挟んであるページで手を止めてペンを取ると、勉強を始めた。そこには難しい数式や図形が並んでいたのでジリアンはびっくりした。

 彼の勉強は遅れているどころか、かなり進んでいるのでは? 分からないところを聞かれてもジリアンには正解を導き出す自信が無かったので、仕事があると誤魔化し、図書室を後にした。




 そしてジリアンは屋敷の裏にある林へと向かった。ディーンが、クワガタがいると言っていた場所だ。パトリックを誘えば喜ぶかもしれない。その前に一度、下見がてら歩いてみようかと思ったのだ。

 入ってすぐの辺りはそれほど樹木が密集しておらず、日差しも良く入ってくる。地面も殆ど乾いており、普段使いのドレスのままでも踏み込むことが出来た。


 途中、ジリアンは長い木の枝を拾った。

 丈夫なものであったから、それを杖代わりにして、所々にある茂みや長い草をかき分けて奥へと進む。クワガタは、林の浅い場所よりも、もっと樹木が鬱蒼と茂ったところの方を好むのだろうか。今日の装いではあまり奥までは入れないが、変わった形の木や大きな石でもあれば、パトリックと来た時の目印になるだろう。


「あっ」

 木の根に足を引っ掛けてしまい、ジリアンは前につんのめった。なんとか転ぶまいと、持っていた杖代わりの枝を地面に突き立てる。

 すると、バキン、というものすごい音がして、杖を持っていた腕に衝撃が響いた。思わず手を離してしまったが、杖は地面に突き立ったままである。その根元をよく見てみれば、杖は罠に挟まっていた。

 罠の中央部を踏むと、ばねの仕掛けが作動するようになっているものだ。こうして足を挟まれたシカやキツネは動けなくなり、罠の成果を確かめにやって来た猟師に捕まってしまう。

 だがジリアンの杖を挟んでいる罠は、かなり大型のものだった。この辺には猛獣でも生息しているのだろうか。そんな話は聞いていない。ジリアンは屈みこんで、罠の詳細をよく見てみようとした。

 金属製だが腐食は見られずそこそこ新しいもののようだ。だが動物の足を捉えるための部分はギザギザとした歯が付けられている。

 こんなものに足を挟まれていたら、大怪我をしていただろう。自力で外せたかどうかも分からない。ぞっとして、もう帰ろう、そしてディーンに報告しよう。そう決めた時、頭上でパスッと音が鳴って、樹皮の欠片がパラパラと落ちてきた。


 しゃがんだまま、上方を見てみる。するとそこには、矢が刺さっていた。矢羽の部分がまだ小さく震えている。

 しゃがんで罠を見ようとしなければ、あの矢はジリアンの胸を貫いていたのではないだろうか。


 きっと、近くに猟師がいるのだ。そしてジリアンが草木をかき分ける音を、獲物が立てる音だと思ったのではないだろうか。ジリアンはそう解釈した。

「私、人間よ!」

 矢が放たれたであろう方角に向かって叫ぶ。

「動物ではないわ」

 身体を縮めたまま耳を済ませ、目を凝らしても、返事や猟師の姿はない。ただ、ガサガサという草木が揺れる音だけが響いていた。だが風は吹いていない。そして、ガサガサという音は近づいてくる。

「わ、私は! 獲物ではないのよ!」

 ジリアンはそう叫んで、ぱっと身を翻した。


 猟師ではない。何か、得体の知れないものが近づいてくる。そんな気がしたのだ。

 闇雲に走っては、別の罠を踏んでしまうかもしれない。だがもたもたしていては『何か』に捕まってしまう。無情にも、音は屋敷へ通じる方角から聞こえてきたので、ジリアンは奥に追い込まれる形となっている。

 ジリアンはドレスをたくし上げ、時折裾が小枝に引っかかって、生地が裂けていくのも構わずに林の中を走った。


 ──相応しくない人間がこの屋敷に入ると、祖先の亡霊が怒って……

 ──また、誰か死ぬよ


 がむしゃらに走っているジリアンの頭の中に、キャロルとナタリーの言葉が繰り返し響いていた。首なし騎士が、死を宣告しにやって来たのだろうか、とも。


 視界がひらけたと思ったら、そこは河原であった。

 雨の後は流量も増すのだろうが、今は水底の小石を舐めるように水が流れている。

 ジリアンはドレスのスカート部分をたくし上げたまま、流れを渡ろうとした。途中、苔生してぬるぬるとした岩を踏んでしまい、水飛沫を上げながらジリアンは転んだ。岩にお尻を打ちつけ、ドレスはずぶ濡れであったが舌打ちする暇も今は惜しい。無言で立ち上がり、急いで渡り切った。

 重ね穿きしているペチコートが濡れて、足に絡まってくる。

 茂みの中でジリアンは足をもつれさせ、再び転んだ。そしてまた起き上がる。すると、下半身は未だ茂みの中ではあるが、ジリアンの上半身は林を抜けていた。目の前の道路には馬車の轍がついている。人通りのある場所なのだ。

 ようやく、恐ろしい林を抜けることが出来た。

「……ジリアン?」

 名を呼ばれ、顔を上げると、そこには馬に乗ったディーンがいた。

「いったい、君はどこから……ずぶ濡れじゃないか!」

 彼は急いで馬を降り、こちらへとやって来る。


 ディーンの姿を目に入れた時、ジリアンはおそらく、今まで生きてきた中で一番ほっとした。

 彼は、散々悪評を立てられ、自分の家が呪われていると囁かれて、厭にならなかっただろうか。しかも次はディーンが殺される番だと言う人もいる。怖くはないのだろうか? でもディーンは声を荒げたり悪態をついた事もない。心無い噂も、めちゃくちゃな家のことも、彼には問題が山積みであるのに、ディーンは自分の役割を投げ出すことなく、受け入れ、向き合おうとしている。彼は、強い人なのだ。


「ディーン……」

 頽れたまま夫の名を呟くと、彼はぴくりと眉を上げた。

「ジリアン? 大丈夫か? 何があったんだ?」

「ディーン」

 もう一度彼の名を口にすると、ジリアンの瞳からは自然と涙が溢れ出していた。




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