11.余ったティーカップ
「フローラ、何をやっているんだい」
「雑草を抜いているのよ、キャロル様」
子供に言い聞かせるようにゆっくりと、大きな声でジリアンが喋っている。
「この花壇には、キャロル様のお好きなバラが咲くのでしょう? 綺麗な花を咲かせられるように、こうして手入れをしているの」
二人の姿は生垣の陰になっているというのに、その様子はディーンにも容易に伝わってきた。
ディーンが生垣をまわりこむと、想像した通りジリアンは花壇に屈みこんでいる。傍に置かれたベンチにはキャロルが座り、ぼんやりと花壇を眺めていた。
キャロルが本来の彼女ではなくなってしまった事を除けば、非常に微笑ましい光景でもある。
世間一般の侯爵夫人が花壇の雑草を処理するのかどうかは分からないが、かつてはキャロルも庭仕事を好んでいた。キャロルのお気に入りの花壇をジリアンが世話してくれることを申し訳ないとも有難いとも思った。
ディーンの乗った馬の蹄の音が響いたのか、ジリアンが顔を上げてこちらをみる。
「……出かけるの?」
「ああ」
それで会話は終わった。ジリアンはどこへ行くのかと問う事もしなかったし、ディーンはディーンで、行き先を告げなかった。
「どうも、こんにちは」
「キャッ」
ディーンがとある農家の柵の外側から顔を覗かせると、牛の乳を搾っていた若い娘が叫んで尻もちをついた。
「大丈夫かい」
驚かせてすまなかったと続けようとしたが、娘は「あわわわ」と尻をついたまま手を使って後ずさり、その後で立ち上がろうとしたがスカートの裾を踏んで、今度は前のめりに派手に転んだ。周囲にいた鶏たちが大騒ぎして羽ばたきだし、辺りには埃と羽根が舞う。
「リタ、何の騒ぎだい」
「おとっ、おとうさあん……!」
娘は家の中から顔を出した父親らしき男に、泣きそうな顔で縋る。男は怪訝そうに娘を抱きとめたが、ディーンの姿に気づくと顔をこわばらせた。
「ひっ、こ、侯爵様……?」
「ああ、あの。まず、今期の地代は……」
「も、申し訳ありません! ちょ、徴収は本日でしたか? ま、ままままだ、チーズを作ってる途中でして、これを売りに出さない事には、地代の方はなんとも……」
「いや、あの、」
「ま、まことに申し訳ありません! ど、どうか、お待ちいただけないでしょうか……!」
まいったな。ディーンは頭を掻いた。
領民とまともに話も出来ないとは。顔の傷がまずいのか? それとも、残虐だという噂か? 或いは俺と話すと呪いが伝染するとでも思っているのか? ……おそらくは、全部なのだろう。
ディーンは十二までこの地で育ったが、それからは王都の学校と戦場に身を置いていた。かつては「ディーン坊ちゃん」と話しかけてくれていた領民も多かったが、十年の間に、領民のディーンに対する印象はがらりと変わってしまっていたのだ。
ディーンが爵位を継いだばかりの頃、この辺を春の嵐が襲った。
家畜や土壌、農作物に影響が出なかったかどうか、ディーンは領民の家を回って自ら確かめようと思った。そして領主が変わったからといって、地代を上げる事はしないと、安心してもらうために一番先に伝えようとしたのだが。彼らにはディーンが不当に金を巻き上げにきたとでも映っているのだろうか。
こうして一人一人と丁寧に接することで、領民たちに安心して貰おうと思っていたのだが、逆効果だったようだ。
「地代の徴収は今日ではないわ」
後ろから凛とした声が響いた。
振り返れば、ジリアンが立っている。彼女は乗馬服に着替えており、乗って来た馬の手綱を支柱に引っ掛け、こちら側へ歩いてきた。
「夫は、地代は据え置きだと伝えに来たの。でも、春の嵐の時の被害があるようだったら、地代はそれを考慮して差し引くわ」
ジリアンは農夫ににっこりとほほ笑んでみせた。
「ここは、エンツォさんのお宅ね。私はジリアン・ハーヴェイよ」
「は、はあ。奥様、でいらっしゃいますか」
「ええ。よろしくね」
ここはディーンの祖父が侯爵だった時代に、異国から移り住んできた一家である。すでにジリアンはそれも把握しているようだった。
ディーンと対峙した時とはうって変わり、農夫は眩しいものでも見るような視線をジリアンに向けていた。
「マーカスが貴方の向かった先を教えてくれたの」
思いもよらなかったジリアンの登場に驚いていたディーンであったが、何故かを訊ねる前に彼女が口を開いた。
「貴方を心配していたわ。それで、私が一緒にいる事で領民たちの態度が和らぐのではないかって」
「……その通りだったな。助かったよ」
「どうして声をかけてくれなかったの。これは、領主の妻も参加すべき仕事ではないのかしら」
「しかし君は……」
本当の妻じゃないだろう、と言いそうになる。いや、本当の妻なのだが、離縁することが分かっているのだ。本来妻として行うべきことを、どこまで振って良いのか判断がつかない。
「三年間」
ジリアンはそう言って、馬をディーンに並べた。
「私は妻としての責務を果たすわ。もちろん、貴方とベッドに入ることは除くけれど。精一杯やらないと、ここを去る時、きっと心苦しいもの」
彼女の態度にディーンはまたも舌を巻く。本当に気の強い女だ。
やがて、一面に広がる小麦畑の奥に、数件の家が立ち並んでいるのが見えてくる。
「次は、あそこを訪ねるのね。私が貴方の噂や呪いを気にしていないと、そういう印象を抱いてもらった方がいいわよね。さっきの調子でやりましょう」
彼女はディーンとは違い、この結婚の終わりをすでに見据えている。
終わりが見えていた方が気が楽だろうと、三年後の離縁を提案したのは自分であるというのに、ディーンはなんだか置いて行かれた気分になった。
「めちゃくちゃ感じのいい美女じゃないか!」
ハーヴェイの屋敷を訪ねてきたウォルターが興奮気味にまくし立てている。どうやら彼は庭先でジリアンと遭遇したらしい。
ジリアンが感じよく振舞うのは老人や子供や領民たちに対してだけであって、ディーンはそうして貰った事など一度もない。
「そりゃあ、君が歩み寄ろうとしないからだろう」
「向こうだって俺に歩み寄ってはこないぞ」
「相手に優しくしてほしかったら、まずはこっちが優しくしないとね」
ウォルターは分かった風な口をきくが、本当にそうなのだろうか。こちらが多少譲歩する姿勢をみせても、ジリアンの態度は頑ななままであるような気がする。いや、そもそも俺は彼女に優しくしてほしい訳ではない、はずだ。
「しかし、あんな女性が傍にいたら、家の中が華やぐよね。そうだ、君と奥さんが離縁したら、次は僕が交際を申し込もうかな」
その言葉に、ディーンは何故だか無性に腹が立った。
「ジリアンは再婚になるんだぞ」
俺のお古なんだぞ、という意味を込めていた。自分が初婚になる男は、大抵はそういう女性を避ける傾向にある。まして知人の妻だった女性である。
「再婚とは言っても、君たち夫婦は清い関係のままなんだろ」
「け、けど、」
事情を知らない他人から見たらそうではない、と言おうとして、何故自分はムキになって、ジリアンの価値を貶めるような事を言っているのだろうと不思議に思った。
「とにかく、離縁するのは三年も先なんだ。今、どうこう言っても仕方ない」
「あれ。今からどうこう言えるように先の計画を立ててるんだと思ったけど、僕の思い違いかな?」
ウォルターを見ると、彼はにやにやとしてディーンの表情を窺っている。
「もしかして、彼女のこと惜しくなっちゃったんじゃない?」
「まさか」
それにジリアンの方はとっくに離縁前提で動き出している。
領民たちの家を回る時、ジリアンがついてきてくれて本当に助かった。顔を見ただけで怯えられ、途方に暮れているとジリアンが現れ……彼女が守護天使に見えた。いや、ジリアンに『天使』という形容は柔らかすぎる。彼女はもっと鮮烈で激しいものが似合う。
その鮮烈で激しい何かにジリアンを当てはめようとしたものの、ディーンにそういった詩的な思考が出来るはずもなく、首を捻るだけに終わった。
「旦那様、ダントン夫人がお見えです」
ディーンの私室にマーカスがやって来てそう告げた。今は暖炉の間でジリアンが相手をしているという。
「ダントン夫人って、あの美人の幼馴染だろ? やった。行こうぜ、ほら、早く」
「……彼女も人妻だぞ」
面識がある訳でもないのにルイーズの容姿に関してはチェック済みらしい。美人とお近づきになれると気を逸らせるウォルターに、ディーンは釘をさす。
「そうなんだよなあ。しかし、君の周りには美人ばかりいるよな。羨ましいよ。いや、けど『美人』の基準が上がっちゃいそうだよなあ」
まいっちゃうよね、と自分のことでもないのに浮かれながら喋るウォルターに半ば呆れつつも、二人は暖炉の間に向かった。
客人は応接間に通すのが常ではあるが、恥ずかしながらハーヴェイ家では屋敷の一部を封鎖しており、応接間はその区画に含まれている。使用人が少なすぎて掃除の手が回らないからだ。
だが、ウォルターもルイーズも親しい友人なので案内するのは暖炉の間でも構わないだろう。
「まあ。お友達がいらしていたのね」
「どうも! ウォルター・ブリングスです」
「ルイーズ・ダントンよ。あの、突然お邪魔しちゃって申し訳なかったわ」
「とんでもない。貴女のような方のお邪魔なら大歓迎ですとも」
と、ディーンが答えるべき問いにも浮かれまくったウォルターが返事をする。ルイーズは彼の様子にくすくすと笑った。
「私たちは今、クワガタ虫の話をしていたのよ。ねえ、ジリアン」
「ええ。一昨日、パトリックと一緒に木立の中に探しに行ったの。……屋敷に持ち帰るとナタリー様が良い顔をしないから、すぐに放してあげたけどね」
「それなら、屋敷の裏手の方がたくさん捕まえられそうだな」
ハーヴェイ家の屋敷の裏には林が広がっていて、虫の集まりそうな樹木がたくさん生えている。子供の頃は自分も林へ入ったものだ。大きなものを捕まえて、勲章のようにシャツの胸にくっつけて屋敷を闊歩していたら、ナタリーに悲鳴を上げられた事をよく覚えている。
しばらくクワガタ虫の話で盛り上がっていたが、使用人の気配が無いのでジリアンが立ち上がった。
「私、お茶を淹れてくるわね。ごめんなさい、気づかなくて」
「いやあ、侯爵夫人手ずから淹れてくれるお茶なら、何時間でも待ちますよ」
ウォルターもルイーズもハーヴェイ家の事情を知っているので厭な顔はしない。しかしディーンとしては、ジリアンに使用人の作業をさせる事にどうも抵抗がある。彼女は、修道院では全部自分でやっていたからと言って、キッチンに立つことも構わないようだが。
ではこういう時、夫としてのディーンはどうしたらよいのだろう。キッチンへ向かって手伝う事はないかと訊ねるべきか。いや、客人を放置する訳にはいかない。だが、彼らは客人というより友人だしな。などと考えているうちに、ジリアンはワゴンを押しながら戻って来た。そしてティーポットからカップに紅茶を注ぎ、テーブルの上に並べていく。
ウォルターとルイーズに、ディーンに、そして最後に自分の席へカップを置いたが、彼女はもう一杯注いでいる。それをテーブルに置こうとして、ジリアンは「あら?」と首を傾げた。
「もう一人は?」
「もう一人?」
「だって、全部で五人よね?」
「いや、俺とウォルターとルイーズ、そして君の四人だよ」
「そんな、私……私、五人だと思い込んで……」
そこでジリアンは唇を噛んだ。ショックを押し隠すように一度唾を飲み込む。
「か、勘違いしていたみたいね」
平静を装ってはいたが、声は若干うわずっていた。そしてディーンは、祖先の亡霊の話を思い出してしまった。
──相応しくない人間がこの屋敷に入ると、祖先の亡霊が怒って追い出そうとするのですって
ジリアンの様子からして、彼女の脳裏にもこの言葉が過ぎったのではないだろうか。
この場にナタリーはいなかったが、彼女が「ほうらね」と言ってククッと喉を鳴らす様が容易に想像できた。