01.ジリアン・ヴィヴィエ
ジリアン・ヴィヴィエ──今日、彼女はジリアン・ハーヴェイとなった──は、寝台の縁に腰掛け、処女を思わせる純白の寝衣に身を包み、豊富であろう黒髪をきつく三つ編みに結って顔の脇に垂らしている。
彼女は緊張した面持ちで両の拳を握り、それを膝の上に置いていた。初夜の床を前に、不安や緊張を覚えている花嫁そのものである。だが。
「私は、貴方と寝床をともにするつもりはありませんから」
妻となったばかりの女は、ディーンに向かってそう言い放った。
結婚するまでの間、女子修道院にこもって月日を過ごしていた彼女である。男女の閨事に及ぶ際には戸惑いや狼狽、若しくは嫌悪の眼差しを向けられる事は予想していた。しかしこのセリフは想定外であった。
彼女の態度に驚いて何も言えなくなっていたディーンに、ジリアンは顔を強張らせながら言い添えた。
「どうしてもと言うのなら、力尽くでやればいいのだわ。そうなったら、私は一生貴方を蔑んで生きることにしますから」
己の意思を余所に、王の命令で娶った妻である。両者の間に燃えるような情熱はなくとも、ゆっくりと信頼関係を築きあげていけば、そのうちに静かな愛情が生まれるかもしれない、先ほどまではそんな風に考えていた。
しかし、初夜の床でこんなセリフを吐かれた男はどうすればよいのだろう。怒りを覚えるべきなのだろうか、それとも宥めすかして花嫁の機嫌を取ればいいのだろうか。
ディーンは、可愛げなどどこかに置き忘れてきたかのような妻、ジリアンを呆然と見つめながら、ただどんよりとした後悔に包まれていた。
*
──時は少し遡る──
ジリアン・ヴィヴィエとその侍女エリンを乗せた馬車は、フォートナー女子修道院から王都にあるヴィヴィエ家への道を急いでいた。
「きっと、お父様かお母様に何かあったのだわ。どうしよう……」
「ジリアン様、落ち着いて」
忙しなく手を揉み絞るジリアンをエリンは励まし続ける。
ジリアンはプロヴリー王国の貴族、エルノー公爵の孫娘であった。
母のソフィがエルノー公爵の末娘であり、父親のマルセルはアカデミーで歴史学の教鞭をとっている。そしてジリアンは十二の歳からおよそ九年間も女子修道院に身を置いていた。
資金難に陥って閉鎖に追い込まれた事が遠い昔にあったようだが、フォートナー女子修道院には古い歴史がある。行儀見習いのために入った場所であるが、居心地は良かった。朝夕の祈りと決められた勉強以外の時間を、ジリアンは修道女と一緒に働いて過ごしていた。自給自足のための畑の世話をしたり、ハーブ園で薬草や香草を育てたり、厨房での調理に加わったり。
行儀見習いで修道院へやってきた貴族の娘たちは、たいていは数年で実家へ呼び戻され、社交界へデビューしたり親の決めた相手に嫁いだりするが、ジリアンにはこれといった話は皆無で、自身も社交界や結婚への憧れは薄い方であった。このまま、正式に誓願を立てて修道女として暮らすのもよい、そう思い始めた矢先。
ジリアンは書簡を握りしめた。
「それとも、ドミニクが病気や怪我をしたのかしら」
女子修道院へ届いた書簡には、至急実家へ戻る様にと記されていたのだ。
九年も修道院へこもっていたとはいえ、ジリアンはまだ俗世の人間である。夏と冬には実家へ帰省していたし、祖父母の誕生会へ出席するために着飾ってエルノー公爵邸へ出かける事もあった。家族とはその度に顔を合わせていたが、彼らに何かあったなんて信じたくない。ジリアンは両親と、弟のドミニクの顔を思い浮かべ、胸の前で祈るように手を組んだ。
「大丈夫ですよ。先々月に帰省した時は、みんな元気だったじゃないですか」
「そうよね、そうよね……」
呪文のように繰り返すジリアンの背をエリンが撫でる。
エリンは本来ならば、貴族の血を引くジリアンの侍女になれるような身分ではない。エルノー公爵の領地で農業をしている家の末娘である。ジリアンがその領地を訪れるたびに同い年の二人は仲良くなり、一緒にいたいと願うようになった。祖父母の計らいでエリンは読み書きや行儀作法を習い、今はジリアンの侍女として一緒に修道院で生活をしている。侍女というよりも、ジリアンにとっては親友のような存在であった。
「街に入りましたよ」
馬車の揺れが小さくなったので、エリンは窓の外を覗いた。馬車は噴水広場を通り過ぎ、綺麗に敷き詰められた石畳の道を行く。この大通りを進めば、ジリアンの家である。
屋敷へ入ると使用人がいつもの通りに出迎えてくれ、緊急の用があったとはとても思えない様子であった。外套を脱がせてもらっていると母親のソフィがやって来て、ジリアンは訳も分からぬうちに応接室へと連れて行かれることとなる。
そこにはすでに父のマルセルが座っていて、ゆったりとお茶を飲んでいた。ドミニクの姿は屋敷に見えなかったが、彼は学校へ行っていると言う。
「では、誰が倒れたの? おじい様? それともおばあ様?」
「おいおいジリアン。私は誰かが倒れたなんて、手紙にはしたためなかったよ」
「だって……何か緊急の用事があったんでしょう?」
「うむ。緊急だねえ。何せ、国王様の命令だから」
マルセルは立派な筒から書簡を取り出し、ジリアンへ渡す。それに目を通したジリアンは、その場で暫く固まった。ジリアンはもちろん読み書きが出来る。この国で普段使われている文字が、綺麗に整って並んでいる。だが、ちっとも内容が理解できない。ある筈もないようなことが記されていたからだ。
「驚いただろう」
書簡を手にして動かないジリアンに父が言った。しかしまだジリアンは驚ける段階まで頭と心が到達していない。
「こ、これ、は」
「そう。お前の結婚が決まったんだよ」
「え……ええぇえええっ?」
改めて口にされた父の言葉は、鋭い衝撃となってジリアンの身体を貫いて行った。まさしく、青天の霹靂であった。
「これ、ジリアン。なんて声を出すの」
修道院でお行儀よく暮らしていたのではなかったの、とソフィが諭す。
「だって、だって、お母様、これ……」
確かに書簡にはそう書いてある。ジリアンに、嫁ぐようにと。だが、その相手が……
「ええ。ハーヴェイ侯爵様よ。まだまだ若いし、おじいさんに嫁がされるよりはいいんじゃなくて?」
ディーン・ラクリフ・ハーヴェイ。ジリアンより一つ上の二十二歳だ。
彼が若くして侯爵となったのには理由がある。まず、彼の父アーサーは半年ほど前に病で亡くなった。次に爵位を継いだ兄のクライヴが、二か月前に落馬して命を落とした。次男であるディーンは軍隊に所属して戦地へ赴いていたが、数か月の間に父と兄を立て続けに亡くし、新たな侯爵となった。
「だって、ハーヴェイ侯爵家って……」
ジリアンは泣きそうになりながら首を振る。
修道院では旅人を宿泊させることもあるため、世間と同じような噂話を耳にする事がある。異国を旅してきた人間からは、社交界の人間も知らぬような話を聞くことだってあった。
ディーン・ラクリフ・ハーヴェイにはある噂が流れていた。爵位欲しさに親兄弟を葬ったのではないかと。なんでも、ディーンは戦場では悪鬼のように残虐だという。命乞いする敵を容赦なく斬りつけたとか、すでに死んでいる敵兵を何度も何度も突き刺したとか、残酷な男だと言われている。彼ならば、家族を手にかける事もなんとも思わないのだろうと、ある旅人は言った。
そして噂はもう一つ。戦場では死神と呼ばれていても、休暇の折に社交界へ出入りする彼は、とんでもない放蕩者らしい。人妻に手を出して相手の夫と決闘騒ぎになったとか、屋敷のメイドを妊娠させた挙句追い出したとか、さる貴族の令嬢の花を散らして逃げたとかで、妻や年頃の娘がいるものは、彼を警戒しているという。
そこで、また新しい噂が流れ出した。ハーヴェイ侯爵家は呪われているのだと。
ディーンの放蕩ぶりを嘆いたハーヴェイ家の祖先が、自らの家系を断絶させようとして霊界から呪っているのだという者もいれば、ディーンに捨てられて失意のまま命を絶った娘の怨念だという者もいた。
「だって、ディーン・ラクリフ・ハーヴェイって……」
「そうね。あまり良い噂はない人だけれど」
唇をわななかせるジリアンに、ソフィは困ったように首を傾げたが、反対するそぶりはない。両親は、娘がそんな人間の元へ嫁ぐことを何とも思わないのだろうか。
「イヤよ! 絶対にイヤ! お願い、断って!」
「これこれ、ジリアン。国王様の命令を断るわけにはいかないだろう」
「じゃあ、私は病気になったって言って!」
「ジリアン、聞きなさい」
子供のように縋る娘を、マルセルは何とも言えぬ表情で見つめていたが、やがて首を振った。
「国王様の斡旋する婚姻だ。お前の健康状態など、とっくに調べられているんだよ」
ジリアンは健康そのものだ。九年間の修道院生活で、一度か二度風邪をひいたくらいだろうか。
「加えてお前の生活態度。お前は規則正しく寝起きをし、自分の事は掃除も洗濯もきちんとやっていたそうだね。修道院長様がたいそう褒めていたよ」
「そ、そんな」
自分に白羽の矢が立った理由がそれだとすれば、もっと無為に過ごせばよかった。他の令嬢たちの中には、かなり好き勝手に過ごす者もいたのだ。昼過ぎに起きてきては時間外の食事をねだり、皆が本を読む時間に仲の良い娘を誘って自室でお茶会を開いたり。褒められた事ではないが、彼女の家は寄付金を弾んだらしく、修道女たちはそれを咎めることが出来なかった。
その彼女ほどではないにしても、せめて掃除洗濯をエリンに任せるとか、たまには寝坊するとかしておけばよかった。
「とにかく、病気になったって事にして! 首が取れたとか、鼻の穴が塞がったとか、それから……」
「これこれ、ジリアン。そんな病気になったと発表してしまったら、結婚を逃れる代わりに人前にも出られなくなるよ」
これまたとんでもない事を言い出したねえ、と父は笑っていたが、ふと真顔になる。
「それに国王様の不興を買うようなことになったら、ドミニクの将来にも関わるんだよ」
「ドミニク……」
一六歳の弟は、現在は学校に通っている。将来は祖父の領地の一部の管理を任される事になっているので、学校を出た後はアカデミーに入って領地経営の勉強をしたいと言っている。ジリアンの返答次第では、弟どころか父の仕事や祖父母の立場まで影響が出るだろう。
「わかったね、ジリアン?」
弟を引き合いに出されるとジリアンも何も言えなくなってしまう。
両親──とくに母親のソフィ──はドミニクをとても大切にしている。一方でジリアンはそこそこ自由にさせてもらった。幼い頃は弟ばかりを優先する両親に不満が無かった訳ではないが、修道院に入って生家から離れて生活するようになると、両親との距離の取り方が分かってきて、良い関係が築けるようになったと思っていた。これまでは。
しかし、病気以外で結婚を断る理由は何があるだろうか。
父親には言いくるめられてしまったが、このまま黙ってディーン・ハーヴェイ侯爵に嫁ぎたくはない。
両親は忘れているようだが、ジリアンがまだ子供の頃、実は彼に会った事がある。
ジリアンもディーンも社交界デビューするような年齢ではなかったが、それは、ジリアンの祖父母が開いたアットホームな食事会であった。
ジリアンが十一で、ディーンが十二。もっと年下の子供たちもたくさん参加していた。ジリアンは母親の選んだぶりぶりのドレスに身を包み、誰が自分をダンスに誘ってくれるのだろうと心躍らせながら公爵邸を訪れた。そこへ現れたのが、ディーン・ハーヴェイである。彼は数人の友達とつるんで行動し、色気より食い気といった感じで料理のテーブルを物色していたが、ふとジリアンに目を留め……
そこでジリアンはぶるぶると首を振った。思い出したくもない!
思い出したくもなかったが、ジリアンが十七か十八になった頃から、修道院で彼の噂話を耳にするようになった。社交界に出たディーンは女の尻を追いかけ回してトラブルを起こしているとか、戦場では死神と呼ばれているとか、そんな碌でもない事ばかりだ。
国王の決めたジリアンの結婚相手がディーンだと知った時は、いったい何の冗談かと思った。
苛々と爪を噛みながらヴィヴィエ家の自室へ向かおうとすると、階段のところで呼び止められる。
「姉さん」
「まあ、ドミニク。学校は終わったの」
弟のドミニクである。制服を着て、ブックバンドでまとめた教本の類を抱えている所からして、今帰ったばかりなのだろう。
「うん、さっき玄関で、姉さんが戻って来てるって聞いて」
ドミニクはジリアンの服の袖を引っ張り、人の気配のない廊下の隅へと誘う。
「姉さん。父さんから話は聞いた?」
「え、ええ……」
「それで、姉さんはその話を受けたの?」
「ええ、まあ……」
ドミニクはジリアンの結婚の話を知っていたらしい。濁すように肯定すると、彼は壁をドンと拳で叩いた。
「クソッ」
「まあ。ドミニク。お行儀が悪いわよ」
「僕だってハーヴェイ侯爵の噂くらい知ってるよ。姉さんは、悪魔みたいな男に売られていくんだ……!」
ドミニクはぎりぎりと歯噛みする。
「僕がもっと大人だったら、姉さんを逃がして、どこかに匿ってやれるのに」
「まあ、ドミニク……」
弟がもっと厭なやつだったら、ジリアンは今頃、この屋敷から金目のものをくすねて、エリンと一緒に逃げ出していたかもしれない。だがドミニクは、家族思いで、とても立派な男に成長しつつある。彼の将来が関わっていると聞かされれば、身勝手な行動はとても取れない。
それに、大抵の娘は家のために嫁ぐのだ。富豪の娘は、没落した貴族に嫁いでいった。またある貴族の娘は、恋仲となった青年と結ばれることは無く、親の決めた異国の相手に泣く泣く嫁いでいった。ジリアンは修道院でそんな娘たちをたくさん見てきた。彼女らに、可哀想に、大変ね、と声をかけ、一緒に涙したこともある。
今回、自分の番が回ってきただけ。ただそれだけの事なのだ。
自室へ入ったジリアンは、サイドボードの上に置かれた一輪挿しを手に取ってみた。細長くて、ずっしり重い。表面に刻まれた細かな模様を指で辿りながら、暫し考える。それから息を吸い込み、自分の頭めがけてそれを振り上げた。
「ジリアン様! お待ちください」
ちょうど部屋に入ってきたエリンが、慌ててジリアンに掴みかかり、一輪挿しを奪い取ろうとする。
「ジリアン様! なんて事を!」
「ちょ、ちょっと待って、エリン。私、死のうとしていた訳ではないのよ」
「他に何があるっていうんです、ジリアン様。いくらろくでなしのハーヴェイ侯爵に嫁がされるからといって、なにも死ぬ事はないでしょう」
「……知っていたの、私の結婚のこと」
「ええ、使用人の間で噂になってましたから」
エリンは気の毒なものを見る様な目つきでジリアンを見ている。やはり自分は惨めな結婚をする事になるのだ。その視線に胸が詰まりそうになった。
「よく、頭を打って記憶を失ったり、別人のようになってしまったりする人がいるでしょう? 私がそうなったら……結婚は無しになるのではないかと思って」
仮病は使えない。怪我も……酸で顔を焼いたり、手足を失ったりしたらさすがに結婚の話は流れるだろうが、そこまでする勇気はない。そんな時ふと一輪挿しが目に入ったのだ。重さもちょうど良く、良い考えだと思ったのだが。
「加減を間違って、死んでしまったらどうするんですか」
「そ、そうよね」
言われてみれば、そのとおりだ。焦っていて視野が狭くなっているのだろうか。
エリンはジリアンの両手をぎゅっと包み込んだ。
「あたしは、どこまでもジリアン様におともしますからね」
「エリン、ありがとう……」
「それに、ちょっとの間の我慢です」
「ちょっとの間?」
ジリアンの部屋にはエリンの他誰もいなかったが、彼女は小声になって、顔を寄せてきた。
「だって、ハーヴェイ侯爵家は呪われているんでしょう? そのうち、ディーン・ハーヴェイも死ぬんじゃないですかね」
「ま、まあ。エリン。あなた、本当に呪いで人が死ぬと思っているの」
それは、噂に過ぎないのだ。それに、ディーン・ハーヴェイにはもっと忌々しい噂があるではないか。ジリアンも、声を潜める。
「ディーン・ハーヴェイが、爵位欲しさに父親と兄を殺めたという話もあるじゃない……」
「ああ。でも、あたしが思うに」
エリンはふんと鼻を鳴らした。
「呪いで死ぬより先に、女に刺されて死にそうじゃないですか?」
そしたらジリアン様は自由の身です。エリンはそう言った。
ジリアンはごくりと唾を飲みこむ。背中を冷たい汗が伝っていった。
ディーン・ラクリフ・ハーヴェイは肉親殺しかもしれない男であり、呪いにより命を落とすかもしれず、かつて自分がごみのように捨てた女に刺されるかもしれない男なのだ。
自分はなんという男に嫁がされようとしているのだろう、と。