兄が
迷惑かもしれない。
でも父の葬儀やらなんやらのお礼という名目があるではないか。
一度お礼に伺うだけなら非常識じゃないだろう。
前もって電話したらいいかも。
僅かにでも迷惑そうなら、お礼の上品な和菓子でも送ればいいことだ。
迷った末に、管理会社に電話をかけた。
要件を伝えると、1時間ほどで厚志君の母から電話があった。
「来週の月曜日なら何時でも家におります、お待ちしています、」
ときっぱり、それだけを言われた。
私が美容師で、多分月曜日が休みと知っていると直感した
堀川家を尋ねたのは二月の、雪がちらつく日だった。
二十年ぶりに物心ついてから中学一年の終わりまで過ごした、村を訪れた。
私は三十三歳。母が死んだ年と変わらない。
小太りの、地味なオバサンと記憶に残る母は享年三十六歳、
まだ若かったのだと初めて気がついた。
堀川屋敷は
外観が記憶とは変わっていた。
黒い板塀だったのが、高いコンクリートの塀になって居た。
ベージュの木に金色の飾りのある観音開きの、大きな扉に気後れする。
塀に沿って歩き、勝手口を捜してインターホンを押した。
「少々お持ちください」
と若い女の人の声。少々ではなく随分待たされて、
「入ってもいいですよ」
と、許可された。
昔、堀川家には外女中と内女中が居る、そう誰かが行っていたのを思い出す。
表の門をくぐると、玄関に待機している外女中が走ってくると……。
勝手口を入ってすぐのところに、ガラスの格子戸の入り口があって、開いていた。
「どうぞ、上がってください」
奥様の声が呼んだ。
狭い玄関の先に、六畳間がある。
座卓のむこう、正面に奥様が座っている。
薄紫のニットのアンサンブルに、ベージュのスカートが、
白い肌に映えて、細身の身体は老いを感じさせない。
母と変わらぬ年で、五十代後半の筈だが、美しかった。
私は緊張して、携えた菓子折を紙袋から出すのと、靴を脱ぐのがスムーズに出来なくて脂汗をかいた。
やっと座って頭を下げると、奥の襖が開いた。
お手伝いさんがお茶を持ってきてくれたのだ。
奥様は、自分で手も触れなかった畳の上の、私が持ってきた菓子折を見やって、「それ」とだけ、お手伝いさんに言う。
「ありがとうございます」
お手伝いさんは事務的に言うと、さっと、菓子折を持って行ってしまった。
この六畳の和室は、黒い座卓以外何もないない。
両側はベージュの壁、奥様の後ろは無地の障子。
突然思い立った訪問に、過度の期待はしていなかった。
厚志君の仏壇のある部屋か、応接間に上がらせてはくれないかも知れないと。
玄関での立ち話で終わるのだろうと想定もしていた。
……しかし、玄関ではあっても広い、額に納まった絵だとか置物のある玄関をイメージしていた。
この部屋は、私には想像出来なかった。
勝手口からすぐの、簡素な狭い玄関と六畳間。
客ではない、多分、通いの銀行員とか保険屋とか、経営する会社の従業員と応対する為の部屋なのだ。
金持ちの暮らしを、知らなかったと今更ながらに思った。
それで、父の葬式代を出して貰った礼をのべ、「お忙しいところ失礼しました」と腰を上げた。
来るのが間違いだった。早々に退散しようと。
奥様は、私が深く下げた頭を上げると、座卓の家にパン、と音を立てて、何かを置かれた。
それは古いハガキの束だった。
「これを、お兄さんにお返ししますわ」
何を唐突に言われたか分からない。
戸惑ってる私に、いらついたようにパンとハガキの束を叩く。
はじかれたように、私はソレを手に取った。
ハガキはどれも厚志君宛てだった。
裏を見れば……不幸の手紙のようだった。
(このハガキが届いて三日以内に二十人に同じハガキを出さないと、お前と母親は三ヶ月以内に死ぬ)
ぱらぱら捲ると、同じ文章が、書かれていた。
「これは、兄が書いたのですか」
喉に何かつっかえたように、それだけ聞くのがやっとだった。
ハガキに差出人の名前は無い。
筆跡も、一見したところバラバラに見える。
「厚志が逝ってしまう前の夏休みに、お兄さん、うちに、よお、来てたんです」
奥様は、私が知らなかった兄と厚志君との諍いを語り始めた。
「あの頃、厚志はプラモデルに夢中でした。けど手先が不器用で上手に仕上がりません。仲の良い友達から、そのコトが、あんたのお兄さんに伝わって、手伝ってやると、家に来るようになったんです」
からだが急に熱くなって理性が働かない。
このハガキがあることの理由も意味も、まだ分からない。
が、ショックで叫びそうになるのを堪えて、奥様の言葉に耳を傾けた。
「毎日、なんや知らん子が遊びに来てる、位に思ってたんですけどね」
或日、厚志君が母親に愚痴を言いに来た。
「文化住宅の子が、僕のプラモデルを勝手に作るンやと、言いますねん」
厚志君は沢山のプラモデルを買って貰っていた。
部屋は戦闘機や軍艦のプラモデルの箱で一杯だったという。
「それをな、お兄さんは勝手に箱開けて、作ってたらしいんです」
……さもしい事を、と奥様は呟く。
兄は、誕生日とクリスマスに買って貰った、2つ3つの小さなプラモデルを、宝物のように大切にしていた。
厚志君の、広い子供部屋に山積みにされたプラモデルの箱。
当時の兄なら、目が眩んでしまったかも。
厚志君は、兄を自分では止められなかった。
だから、この人が兄に注意した。
「お兄さんは、ぷっつり遊びに来なくなりました。そんな揉め事があったから、このハガキ、誰が書いたか、私は、すぐわかりました。逆恨みやから、取り合わんと無視したらいいと、言いました。……そやのに、何の悪い偶然か、厚志が肺炎になってしまったんです」
ハガキが届いたのは、厚志君が発熱で学校を休んで二日目だった。
まだ、軽い風邪だと思っていた。
「ハガキが届いた日から体調が悪くなった、それが厚志を怯えさせたのです。ただの偶然や、あほらし、気にするから囚われると叱りました。それでも症状は悪化していきました」
奥様の目から涙が溢れた。
一番辛い思い出を呼び覚ましてしまったのだろう。
「厚志は諦めてしまった。死を受け入れてしまった」
死の床で、万が一でも、自分の病気が不幸のハガキの呪いなら、母親までも死んでしまう。それが怖いと泣いたという。
「それで、私だけでも助かる手段はないかと考えたんです。」
奥様は、途切れ途切れに言葉を選んで、私の顔を見ずに語った。
「まだ十五でした。衰弱して半ば意識も朦朧とした頭で、思いついたんでしょうか、誰かを私の身代わりしたらいい……アンタらの母親を選んだのは復讐もあったと思います」
……前世の母。
あれは、厚志君が、この人を救うために拵えた嘘。母の手を握ったのは芝居だった。
私は食い入るようにハガキの束を見つめ、
奥様の一言一句を針で刺されたような痛みで聞いていた。
母のことを思い出したくなくて、歯を食いしばった。
でも、厚志君に前世の母と呼ばれ、舞い上がって、幸福そうだった顔が、ありありと浮かんできた。
母は真実を知らずに、死んでしまった。
私は哀れな母に泣きそうになったが、堪えた。
この人の前で泣きたくない。
わき上がる感情を誤魔化そうと、無意味にハガキの束を捲った。
200枚以上はある。
一番上のハガキも、その次も消印が無い。
つまり、兄は……厚志君が学校を休んだ日に、自分で郵便受けに入れたのか?
筆跡もばらばら。こんな小細工までしたのか。
「ばーあ、ば」
バタンと襖が開く音と、可愛らしい声に驚いて、ハガキから視線を上げた。
三歳くらいの女の子が襖の向こうに立っている。
「……あれ、ミキちゃん、きたんか」
奥様の顔つきと声が、がらりと変わった。
早世した息子から、孫へ、
遠い過去から現実に戻ったように。
ミキちゃんは、奥様に抱きついた。
「ママが赤ちゃんばかり可愛がるの」
という意味の言葉を、たどたどしく訴えだした。
死んだ厚志君には二人の妹が居た。
どちらかがミキちゃんの母なのだろう。
重い空気が、飛んでいく。
私はハガキの束をバッグに入れ、腰を上げかけた。
「お孫さんですか、かわいらしいですね」
と月並みな、お世辞を最後の言葉にえらんだが、
「残念ながら、誰に似たのか不細工ですわ」
さらりと酷い言葉が返ってきた。
「けどな、下に綺麗な男の子が出来ましてん。厚志にそっくりです。生まれ変わりやないかと思ってます」
と、私が居ないかのように孫としゃべり出したので、小声で別れの挨拶をした。
最後にミキちゃんと目が合った。
丸顔で色黒、小さな目、奥様に全然似ていない。
誰かに似ている。
「なあ、お父ちゃんは、知ってたんか?」
父の写真に、聞かないではいられなかった。
「不幸のハガキ、知ってたんか」
死人に口なし。今更分かりようがないのに。
本当は兄に聞きたかった。
ハガキの文言のせいで、自分の母親が前世の母にされ、あげく死んでしまって、
一体、どんな気持ちでいたのか?
でも実際には聞けやしないのだ。
一流の大学を出て、好きな分野の仕事に就き、温かい家庭を持って……幸せな今を生きている兄に、聞けない。
忘れてしまいたい、忌まわしい過去に違いない。
兄を不快にさせるのも、兄に嫌われるのも耐えられない。
ハガキは234枚だった。
筆跡を変えて、同じ呪いの言葉を書き続けた、どす黒い憎悪が、痛々しい。
思い起こせば、あの頃、兄は家で一人の時間は殆ど無かった。
いつ、このハガキをかいたのか?
狭い文化住宅の二段ベットの中か?
皆が寝静まるのを待って書いたのだろうか。
想像つかない。だから余計におぞましい行為に思えて辛い。
辛すぎて、忘れてしまおうと決めた。
ハガキを捨てて、それで終わりにしよう。
ゴミ箱に捨てようとしたのだが、捨てられない。
理性が異を唱えた。
それは物的証拠なんだと。
兄がしでかした罪の証拠、なおさら処分すべきなのに。
調べれば誰が書いたか分かる(誰も調べないだろうが)
「ちょっと、待って、兄貴が書いた証拠、あるの?」
思わず、声に出た。
こんなモノを兄が書いたと想像もつかない。
その感覚は無視して良いのか?
やっと、奥様が犯人を兄だと特定しているのは、ただ1つのエピソードしかないと、気がついた。
次の休みに、東京の兄を訪ねた。