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磯蟹を食べそこねた夜から、太陽が三度昇った日のことです。
「ネリア君のお嬢さんですか?」
その日は朝から来客がありました。
その人はどこか見覚えのある片眼鏡をかけたエルフの女性で、彼女はネリアさんとわたしの顔を見比べながら、そう尋ねました。
「そんなわけないでしょう」
いきなり何を言うのかと呆れた表情でネリアさん。
「そうですか。僕はまたてっきり、しばらく見ないうちに子供を作られたのかと。僕らに比べて人間の生き方は速いですからね」
樹木の精霊と人間の男性とが交わって生まれた彼女たちは、一方の祖先である人間とは比べ物にならない時間を生きる種族です。
ところで、わたしの幼馴染みには人魚も多いのですが、エルフほどではありませんが、彼らも寿命が長い種族です。
だからでしょうか、心の成長する速度や生活のリズムは万事にゆっくりしていたように思えます。
「しばらくもなにも、あなた、この前会って厄介事を押し付けてくれたばっかりでしょうが。二ヶ月も経ってないわよ、鼠か何かじゃないんだから、そんなに速く産まれますかっての」
「もちろん、冗談です」
「まったく。あたしはまだ二十八歳よ、こんな大きな子が……」
苦笑いを浮かべて、煙か何か払うように左手を振ったネリアさんは、そこまで言って妙な顔をしました。
「姐さん。世間じゃそいつを親子ほどもなんとやらってんだ」
ぼそっと冷やかすように、それまで黙りこくっていたもう一人のお客さんが言いました。
筋骨逞しい獣人の青年です。
かなりの長身で、精悍な顔立ちとあいまって、迫力があります。ただ年齢自体はわたしとそう変わらないように見えました。
上半身は腹掛だけという(もちろん下は穿いていますが)、半裸に近い格好なので、腕や背中の隆々とした筋肉がよく分かります。
夏とはいえちょっと目のやり場に困ります。
「あれ、変ね、あたしってば、いつのまにこんな年齢に……」
話すほどにネリアさんの言葉から力強さが失われていきます。
そういえば、ちょうどわたしの倍の年齢なのですね。
ネリアさんは若々しい人なので、そんな感じはあんまりしませんが。
ちなみに、早くに亡くなった母ですが、もしも生きていれば今年で三十一歳になっています。
「厳しくも哀しい真実に直面したネリア君はさておき」
彼女はひとしきり笑うと、わたしの方を向きました。
「また会いましたね、手の綺麗なお嬢さん。覚えておられますか?
その節は力になれず申し訳ないことをしました。
そうですか、ネリア君の工房に新しく人が入ったと聞いていましたが、君でしたか、人の縁と言う織り糸は思いがけないところで繋がるものですね」
ああ、やっぱり、そうでしたか。
覚えています。
写本を作るために写字生を募集していたエルフの学者さん。
「とんでもない。フィリエラさんでしたよね。お世話になりました」
あの日、生まれてはじめて自分の力でお金を稼ぎました。
嬉しくって、あの麦藁帽子もそのお金で買った物です。
「覚えていてくれましたか。
ですがフィリエラは家名ですから、改めて自己紹介を。僕の名はフィニア・フィリエラ。妖魔を中心に怪物学を研究する者です。
あの文献もそれ絡みでしたが、助かりましたよ、シャーリー、君のおかげで、数日早く仕上がったのです。手が綺麗な人は何人いても良い。またお手伝いをお願いしたいものです」
社交辞令もあるとは思いますが、こう真正面からほめられると気恥ずかしく感じます。
それが精霊に由来する神秘的な美貌の持ち主の口から出たものならなおさら。
「手がキレーなことと写本をするのにどういう関係があるんだ?」
「手とは筆法。つまり、文字を書くのが美しいということですよ、ルーグン君。それより、君も自己紹介をしてみては?」
「ん。あーそうだな。お前、シャーリーってんだったか?」
初対面の相手に向かって「お前」呼ばわりというのはちょっとぶしつけにも思えましたが、不思議と不快感は覚えませんでした。
「あ、はい。シャーリー・シュラインです」
「ルーグンだ」
その人はそれだけ言うと、それでもう充分とばかりに口を閉ざしてしまいました。
「おや、それだけですか、君?」
「あん、他に何があるってんだ」
心から不思議そうな顔には、人の善い単純さが滲んでいます。
「言葉を惜しんでは無手勝流は大成できませんよ。まあ、構いませんが。それよりも、ネリア君、お願いしておいた物ですが……」
「用意できてるわよ。ちょっと待っていなさい、今、取ってくるから。
シャーリー、手伝ってちょうだい。ルーグン、あなたも」
「あいよ」
それから、手分けして機材を作業場に運び入れました。
その際、ルーグンさんの働きには目をみはるものがありました。
「ま、そのために呼ばれたようなもんだしな」
重い壷を、それがまるで綿毛であるかのように軽々と持ち運ぶ、獣人の力は大変なものです。
わたしたちが二人がかりで運ぶ金属の輪よりも、ずっと重い硝子の壷を抱えながら、まるで重量を感じさせない軽快な足取り。
先を行く彼の背中を見ながら、わたしたちは作業場に入りました。
作業場に多くの空間を占める魔術の炉の上に、金属製の大きな五徳が設置されます。
三本の猫足が、大小の魔具と呪物を組み立てて作った金輪を支えます。
さらにその上に、ルーグンさんによって運ばれた、把手のついた壷のような形の重い硝子の容器が据えられました。
それは一つの大きな装置でした。
手で触れてみると、全体を構成する部品の一つ一つが強い魔法の力を帯びていることが分かります。
「助かりましたよ。古代の遺物の復元が可能な規模のレトルトともなると、流石にパルマでも入手は容易ではない。その扱い方を心得た蒸留術に熟達した職人も一揃いとなれば尚更です」
レトルトと言うと蒸留に使う器具のことです。
生前の父も、祭礼で用いる精油を作るのに使っていましたが、言われると確かに形が似ています。
ただし、その把手のように見える部分は、ねじれて伸びた一方の端が、もう一方にくっついているという奇妙な物で、印象としては古典的な魔術文様である、図案化された〈尾を飲み込む蛇〉と近いものを感じます。
「蒸留器ねえ……間違ってはいないけれど、ホムンクルスの揺籃よ、そこはもうちょっと格調高く〈哲学の卵〉と言って欲しいわね」
硝子容器の中に、薬液を注入していたネリアさんが不服を唱えました。
緑色の半透明な液体で、三日前、採取してきた浜辺の植物を材料にして作った薬品です。
作成にはわたしもお手伝いしました。
「生命創造の象徴としての盲目の蛇に宇宙卵ですか。無闇と大仰で衒学的な、寓意的名称を付けたがるのは錬金術師の悪い癖ですね」
「よく言う。衒学趣味はそちらの十八番でしょうが」
「おや」
心外と反論するネリアさんに、さも意外なことを聞いたと言わんばかりのフィニアさん。そこへネリアさんが畳みかけます。
「〈象徴〉にこそ意味がある。それはあなたも知ってるでしょうに。
生命を、誕生を模倣するには卵と結び付け、意味づけてやるのが一番の近道。そうでしょう、フィニア」
「それは理解しています。
しかし、僕は別に生命への錬金術的なアプローチを期待しているわけではなく、古代帝国時代の高々度魔術によって生み出されたある種のゴーレムを復元するのに協力して欲しいと頼んでいるだけですよ」
「俺に言わせると、あんたらどっちも何言ってんのか分かんねえよ」
呆れ声での呟きは、しかし黙殺されました。
「第一、ホムンクルスではありませんし」
「そうだけどさあ。擬似的な生命体って意味では似たようなもんでしょうが」
「まったく違います」
断固たる否定の構えです。
「そもそも扱う魔術分野が異なりますし、怪物学上でも両者は別の区分を与えられているのですよ? 厳密性を軽視するのは、仮にも研究者の態度としてはいかがなものかと」
「はいはい。スライムもどきの廃物処理用フレッシュ・ゴーレム」
「ええ」
「ったく、この怪物オタクが」
「薬物マニアが何を仰るやら」
なにやら考え方が食い違うのか、二人はお互いに罵りあいました。
といっても悪意を感じるものではなく、仲の良い女友達が掛け合いを楽しんでいるといった様子です。
「退屈か? そうか、俺も退屈だ」
気を使ってくれたのでしょうか、わたしと同じく蚊帳の外に置かれた形のルーグンさんが、ふいに聞いてきました。
あまりにも自然に尋ねられたので、考える前に肯き返してしまいましたが、わたしったら、そんなに退屈そうにしていたのでしょうか。
「なに、簡単だ。ガキの時分に何が一番キツイって、置いてけぼりにされて、構ってもらえないこったろうが。
ま、じきに終わるんで、もうちょっと我慢してな。グダグダ言い合うのを楽しんでやがるだけだから」
なるほど。
そして少し感心しました。
見た目は怖そうで、口調も雑なところがあるようですが、中身は意外と気が回る親切な人みたいです。
ただ、女心は分かってないみたいです。子供心も。
親切な人なんだとは思うんですけどね。
そういう理由は面と向かわずそっと胸に仕舞っておいて欲しいです。
実際、その通りだったから戸惑いはなおさらですが、喜ぶべきか傷つくべきか困ります。
「つまり、このワンちゃんも構ってもらえなくて拗ねてたわけだ」
「こいつは薮蛇だったかって……そんなに笑うなよ」
思わぬ方向からの一撃に苦笑いしたルーグンさんの、その弱りきった情けない顔に、わたしは思わず吹き出してしまいました。ひとしきりお腹を抱えたあとには穏やかなおかしみが残りました。
それで気が抜けたので思い切って尋ねてみました。
「ゴーレムって……たしか古代帝国の魔法使いたちが作った魔法仕掛けの土人形ですよね、お伽噺なんかに出てくる」
種族としてのゴーレムさんもいますが、この場合はきっと違うでしょう。
「いかにも。妖精皇帝の御代、造化之神の工廠よりドワーフを介して人の世に持ち出された生命創出の秘法。曰く創造神の権能の影。曰く土塊の人形に血肉を与え、数理をもって霊魂を仮構し、精気を吹き込む創命の大法。
現代では失われた秘術によって、人の手で造られた人ならぬ人、生命を有する人形、それがゴーレムです。
時計仕掛けの自動人形や錬金術師の小人も大したものですが、僕としては、やはり真の意味で人間を再現した――あるいはその極限まで迫り得たゴーレムにこそ魅力を感じます。
まあ、その大業も、征服事業が完了し、供給の減った奴隷に替わる労働力以上には扱われなかったというのですから、人というのは度し難いものです。
実際、当時の記録を読む限り、家内労働に従事していた者が大半であったようですし、人間の仕事を肩代わりする目的で作られた人形という理解で構わないでしょう」
「つまり、お掃除を手伝ってくれるんですか?」
思いきり単純化した質問だとは思います。
思わず、洗い場に立ってお皿を洗ったり、一生懸命、廊下で雑巾掛けをしている陶製のお人形を想像してしまいました。
意外とかわいらしいかもしれません。
「はは。それは素敵ですね」
エルフさんは一瞬目を丸くして、それからぷっと吹きだしました。
「しかし、残念なことに――ええ、本当に残念なのですが、これに関しては、そこまで高度に自律的な代物ではありません。なので、掃除を手伝ってくれるかという質問だと答えは否です。ただ、使いようによっては楽になるかもしれません」
「そうですか」
ちょっと残念です。お掃除が楽になることも大きいですが、それよりもやっぱり動くお人形が見てみたかったです。
「土や鉄を素材として多目的に組み立てられた高位のゴーレムではなくて、廃物処理という単一の機能を目的として、ごく単純なある種の海洋生物を模して作られた――ネリア君が先程、これを指してフレッシュ・ゴーレムと呼びましたが、まさしく肉の塊です」
差しだされました。けれど、肉の塊と言うよりは、クルミか、さもなければ何か大きな植物の種に見えました。
「そうです、種、ここから芽吹き、嵩を増していく。元々――」
「こら、さっさと持ってきなさい。こっちの準備はとっくに終わってるのよ、長ったらしい講義は復元中にしたら良いでしょう」
「やあ、叱られてしまいましたね」
フィニアさんからネリアさんに手渡された〈種〉が、錬金術の装置に投入されました。有色不透明の薬液の中、見えづらいですが、少しずつ大きくなっていくのが分かりました。
ネリアさんはエヘンっと胸を張って言いました。
「この薬液に満ちているのは生命そのものの力。浜辺に育つ特殊な植物から抽出した生命力が溶け出しているのよ」
フィニアさんも後を引き継ぎます。
「その緑なす芽吹きの力が、この命無き肉の塊をして、あたかも生命あるもののように活動させるのです」
肉の塊とのことでしたが、パン生地のようにも見えます。
「緑色の水が減ってるな。食ってるってーか飲んでやがるのか?」
「そそ。よく熟した林檎くらいの大きさまで成長するわよ」
「吸収については問題ないようですね。あとは地水火風の理力、すなわち四種の大元素への分解機能が上手く働いてくれるか」
「食べた物を、腐葉土、真水、熱、空気に分解するんだっけ?」
「そうです。同時に出土した文献に拠れば、汚れという概念――古代帝国時代の通念としての汚れの埒内に含まれる微細な物質や廃物を取り込んで、四大元素へと分解して放出する」
二人が言葉を交わしている横で、容器の中をじっと見つめていたからでしょうか。ふと、異常に気づきました。
「あの、林檎どころか西瓜くらいまで膨らんでいませんか」
「なんですって」
途端に二人は真剣な顔になって話し合いをはじめました。
「もしかして、吸収だけで分解が上手く行ってない?」
「いえ、水が綺麗になっていますし、触れるとガラスが温かい。ちゃんと機能してはいるのでしょう。むしろ、吸収が過剰に働いていると考えるべきかもしれません」
「そうね、薬液が濃すぎたかしら」
「あるいは……」
「それより、さっさと一度切った方が良いんじゃねえか?」
「おや、いけない。それもそうでした。ネリア君、お願いします」
「りょーかい」
装置に手をかけて、はっとネリアさんが顔色を変えました。
「って、あれ、まずっ! コマンドを受け付けない。
……ええい、もう! ルーグン、この装置ごと叩き割っちゃって!」
「そいつは思い切ったな。けど、良いのか?」
「非常事態よ。どっちにしろ、このままだと内側から壊されるし」
「あいよ!」
人狼の武芸者は威勢良く応じると、手近の金属ロッドを取り上げて、薪割りのように構えました。
「ちょっと下がってろ、破片で怪我する」
そう指示すると、勢い良く振り下ろしました。