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火と薬品に焼けて、かぶと虫の殻のように黒光りする硝子容器を頭に、室内にはたくさんの器具がありました。
素人目には使い方の見当すらつかない物が大半でしたが、分かる範囲では薬品を扱う道具が多いみたいです。たとえば東洋の物らしい上質な陶磁の坩堝に雨珊瑚石の薬研、様々な材質の大小の乳鉢と乳棒。記憶にある物よりもずっと高度で材質も高価なものでしたが、この辺りは見慣れた道具です。
わたしの信仰する水の精霊の女王は、医薬の神としても知られた御方です。
その司祭であった父の薫陶をまがりなりにも受けた身ですので、多少の心得はあるつもりです。
他に目につく物では、色々な形状のフラスコや漏斗、縦に細長い硝子瓶、シャーレというらしい蓋つきの小さな硝子製の平皿、あとは御伽噺の魔女が使うような大きな鍋が際立ちます。
これらの実験器具だけでも一財産という感じです。
特に今わたしが磨いている連結管という器具のように、曲がりくねった線を持つ硝子はとても高価ですから、落としはしないかと緊張します。
わたし、シャーリー・シュラインの『薔薇の乙女』での初仕事は、煤で汚れた硝子や陶製の実験器具を、磨き上げることでした。
「悪いわね。沢山あるでしょう」
ネリアさんの口にする通り、汚れ物は山のようでした。
程度の差はありますが、どれもよく使い込まれているらしく、黒かったりこげ茶色であったりする、こびりついた汚れが目立ちます。
これだけ多いと磨き甲斐があります。
「面倒がって洗浄よりも新しい器具を使うことを選んでしまうのが駄目なのは分かってはいるのだけれど。実験や調合に掛かりっきりになると、ついつい洗浄の手間が惜しまれて溜め込んでしまうのよね」
それが良いことだとは思っていないらしく、気恥ずかしげな様子で、浮かべた微笑もかなり苦笑に近いものでした。
「それなら、わたしはその物臭に感謝しないといけませんね。だからこそ、こうしてお仕事にありつけているわけですから」
つい軽口がこぼれます。
もちろん仕事はこれだけではありませんが、切っ掛けは間違いなく、溜め込まれた数々の汚れ物です。そう思えばこの山も愛おしく感じられます。
「そうね。これまでも学生連中に駄賃を渡して洗わせることはあったんだけど、望んだ時に浄水術の使い手がつかまるとも限らず、かといって物が物だけに、心得のない人間に扱わせるのもまずいから、常雇いで任せられる日が来るなんて思いもよらなかったわ」
わたしもです。
ちょっとした特技が思わぬところで役に立ちました。
つまり浄水をはじめとする水の術。
ごしごしごしごし。
きゅっきゅっきゅっきゅ。
じゃばじゃばじゃばじゃば。
ネリアさん調合の洗浄液に浸した器具を、海綿で丁寧に洗います。
そして、汲み置きの井戸水ですすぐこと十数回。
日用の範囲ならこの時点で汚れはほぼ完全にとれきっているのですが、錬金術的には井戸水に含まれる小さな汚れがまだとれていないのだそうです。
「そして、ここからがわたしのすごいところです」
なんて自分で言ってみましたが、これが思った以上に恥ずかしかったです。
さっきとは別の桶の中に、洗った器具を入れていきます。ぶつかりあって傷がつかないように慎重に積み重ねます。それから、頃合を見計らって新しい井戸水を溢れるようにしてそそぎます。
右手の薬指をそっと水面に降ろします。
左手は胸の小瓶に添えられています。
指先に意識を。
第一関節よりも先のわずかな部分とその他の残り全ての部分が等価であるような感覚。触れているところから、冷たい水の奥にひそむ、温かな〈水の理〉を感じます。
きっとこの瞬間、わたしの魂は二つに分かれているのです。
物質的なわたしと精神的なわたし。
意識は波打って広がります。
つながりを保ちながら、指先で水面に描くのは、水の精霊の女王を表す象徴的な図形。
イメージとしては握手したり抱き合ったりして挨拶をする感じ。
それから、わたしは親しくなった水にエールをおくります。
あなたはもっと綺麗になれる、がんばって。
これが、わたしなりの浄水の魔術のやり方でした。
「なるほど。不純物の外的な除去ではなく、内側から〈水〉に働きかけて、水中に溶け込んでいる水以外の要素を極限まで小さく、実質的に無いも同然な水準まで減らしているわけね」
と、これはネリアさんの弁。
錬金術の観点から原理を見れば、そうなるのでしょう。
そんなことは考えたこともなかったので新鮮です。
そもそもわたしは、錬金術師の工房に雇われた身にも関わらず、錬金術というものがどういったものであるのかを知りません。
故郷にはいませんでしたから。
それを言えば、魔術師と呼ばれるような存在は一人もいませんでした。
「錬金術とは何か、ひいては錬金術師とは何者か、ええ、それはとても難しい質問ね」
錬金術工房『薔薇の乙女』の主であり、わたしの雇用者となったネリアさん――ネリア・リンベルク錬金術師が言いました。
「錬金術は錬金術、錬金術師は錬金術師。両者ともにそれ以外の何者でもないって言わざるをえないから」
魔術自体は身近なものです。
漁師が使う風と潮目を読む術、鳥獣を避ける農夫の呪い、薬師は生薬が馴染みやすくなる方術を心得ていましたし、厨房ではおかみさんたちが見事に竈を支配してみせます。
そして、父やわたしは水の魔術と親しみました。
けれども、父は司祭でしたし、薬師は薬師です。
農夫と漁師は言わずもがな。
考えてみれば、魔術を――錬金術を研究し、錬金術に専従する錬金術師というものは、はじめて出会う人種です。
「そうね。生き方としての魔術師はともかく、職業としての魔術師は都市でしか成立しえない存在かもしれないわね」
「そうなんですか?」
「ええ、分業化の程度と機会の大きい小さいね」
「ようするに、仕事があるかどうか?」
「そう。魔術と言うのは実学として実践されるべき哲学であり、それを実践する者が魔術師なわけだけど、環境がそれを許さないこともままあるわけね。
実践する機会を与えられなければ、どれだけ深い学識の持ち主であっても、それは賢者であって魔術師とは言えないの。
つまり、職業としての実践の有無が、術者と賢者を区別させるわけだけど、農村だと職業的魔術師の出る幕、魔術を実践する機会ってあんまりないから、自然と数が少なくなるのよ。逆に……」
そこで一度、ネリアさんは言葉を探すように話を区切りました。
しばらく考えていたようですが、ふと思いついたことがあるらしく、洗浄作業を一旦中断するように指示すると、ついて来るように言って、わたしを伴って歩き出しました。
◇ ◇ ◇
辿りついたのは工房の内庭でした。
作り自体は長方形の空間を石造りの回廊が取り囲む典型的な物でしたが、そこは魔術師の庭らしく、珍しい植物がたくさんありました。
たとえば、すぐ目の前にある小さな鉢の中に、ごく小さな三つ子の笹竹が植わっています。
水生の植物なのか、鉢の中には七分目くらいまで水が注がれています。
奥にそびえる天を衝く巨人のようなメタセコイアの霊木の傍らには、極寒の土地に生える銀霜杉と南洋の驟雨の樹が結ばれて一体になった木。
連理木と呼ぶそうです。
隅に建つ透明な硝子板を組み合わせた小屋は、もしかして温室というものではないでしょうか。
一方では常に冬の気候が保たれた室もありました。
庭を利用して造られた花壇兼任の薬草園と言ったところです。
「ここは元々、さる高名なプラントハンターの住居でね、遺族と交渉して譲ってもらったの。植物の管理をしっかりとするっていう条件でね。
そうそう、あたしが留守をするときには、ここの世話をすることもあなたの仕事に含まれるから、そのときはお願いね」
開花時期も様々な、手に入る限りの植物を集められるだけ集めたといった風情です。
花を咲かせているものもあれば、土の中で眠っているものもありました。
良く言えば百花繚乱、簡単に言えば混沌の極み。
それらをざっと説明してくれます。
アイリス、アルテミシア、弟切草に僧帽草。
生姜、ターメリック、茶樹、椿、人参、バジル、フェンネル、ベラドンナ、マンドレイク、ミルラ、リコリス……。
紅薔薇に雪白。各種の薔薇は今が盛りと咲き誇り、優曇華や醒酔草、離魂草のように半ば伝承の世界に属する草々さえありました。
「あ、これは分かります。レモン!」
「――の仲間の枸櫞と言う果樹よ。こっちの言葉だとシトロンかしら」
クエン……むう、別の植物なのですか。
レモンは故郷にも植えられていたから、これは正解したと思ったのに。
「あっはっは。厳密に言えばって話で、ほとんど同じものだしね。そう、厳密に言えばね。んーもうちょっと若いか」
奇妙に『厳密』という単語を強調しながら、もいだクエン――シトロンの若い果実を手に、ネリアさんは話しはじめました。
「例えば集合住宅の片隅で家庭菜園を運営している人がいたとして、それは園芸であり、農業技術の一つではあるけれど、普通、その人は農夫や庭師とは呼ばれないわね。
でも、環境が許さなかっただけで、その心は誰よりも園芸家であるのかもしれない。それと同じで、人生の中心に魔術がある者は、精神的な魔術師であると言っても良いわね。
その上で、生活の中心に魔術がある者が、職業的に魔術師であると言えるんじゃないかしら」
なるほど……なのでしょうか。
「難しく言ってますけど、それって、つまり、魔術で生計を立てている人が魔術師だっていう当たり前の話なのでは」
「あははっ。そういうこと。
生きていく上で必要とされる収入の過半を魔術の実践あるいは魔術と関係する仕事を通じて獲得できている人物と言い換えても良いわね。
たとえ、その人がどれだけ意欲に満ち溢れ、才能と実力を兼ね備えていたとしても、それができなければ、社会的には認められないってことね。
だから、錬金術師はこぞって工房を構えたがるのよ。自分がちゃんとした錬金術師であるっていうことを自他に知らせるためにね」
なかなか魔術の世界も厳しいみたいです。
「まあね。特に今は錬金術の学校なんて物も存在するし……ていうか、あたし自身がそこで錬金術を学んだんだけどさ」
ヘルメスの学院ですね。聞いたことがあります。ヘルメス島に存在する教育研究機関。
ヘルメス島は、パルマの東沖合に浮かぶ学者さんたちの街です。
それにしても、少し、イメージが変わりました。
魔術師も数ある職業の内の一つにしかすぎないというのは……錬金術師つまり魔術師である本人が言っているわけですから、これ以上確かなこともないのでしょうが、夢が壊れたような気分です。
なんとなく釈然としない気持ちで主張します。
「お話なんかだと、村はずれに偏屈な老魔術師がっていうのが典型だと思ってましたけど」
それか、あまりにも夢見がちにすぎるので口には出しませんでしたが、精霊に選ばれた勇者の旅に同行する賢者とか。
「それも間違いではないわよ。ただ、それは、充分に実践を積んで、富と名声を獲得しきった碩学が、更なる研鑽の為に隠遁するっていうのが物語として様式化されたものね」
碩学、大学者です。でも、話の流れのせいで、働かなくても問題ないご隠居さんが、道楽に耽っているとしか考えられないです。
「でもね」とネリアさんが笑いました。
今にも、にやりという音が聞こえて来そうな笑顔です。
「さっき、錬金術師が何者であるかというのは難しい問いかけだと言ったわ。それはね、あたしも含めた錬金術師自身が、錬金術とは何か、自分たちが何者なのかを未だに把握できていないからよ」
「え? でも、さっきはあんなに自信満々に……」
錬金術は錬金術、錬金術師は錬金術師だって言ってたのに。
「一言で説明できないからこそ、漠然としたものにこだわらざるをえないの。表面的なことを言うのは簡単。
錬金術とは付与魔術と言う古典的な魔術を母体に、ヘルメス号の来航者たちが齎した異邦の知識が重なって生まれた新しい魔術の体系であり、その実践者が錬金術師である。
そして、付与魔術とは、魔力を加えることである事象の属性を一時的あるいは恒久的に変化させる技術であり、対してある事象から抽出したAと言う属性を別の事象に移して付け加える技術が錬金術である。
でも、これって説明になってる?」
わたしは少し考えてみました。聞いてみて分かったような気にはなれますが、でもそれで理解できたかと聞かれると困ります。
「なってないです」
「そういうこと。走ることを指して、高速で足を動かして前方に体を進める技術って説明するみたいなものでね、確かに原理現象の説明にはなっているんだけど、それが持っている意味までは説明できていないのよ。
逃げるためにやむをえず走っているのかもしれないし、運動が趣味であるのかもしれず、はたまた伝令として職業的に走っているのかもしれない。
これは、走ることで移動速度が増し、所用時間を短縮できるということを利用しているわけだけれど、じゃあ、その属性を遷移させる錬金術で何ができるのかが抜け落ちているってわけ。そこが肝心なのにね」
そして、いくつかの技術の定義とそれによってできることがあげられました。
鍛治師は鍛治を行う者である。
そして、鍛治とは、火を加えることで金属を焼き、それに金槌で叩いて圧力を加えることで金属を鍛える行為及びその技術である。
できることは金属の加工による各種器具の作製。身近なところでは、包丁、蹄鉄、釘、鍬、銛に剣や矢尻が作り出されます。
酒造りは醸造を行う者である。
そして、醸造とは、葡萄や小麦、甘芋、丸豆といった果実や穀物を発酵させて、酒類や調味料を製造する行為及びその技術である。
できることは果汁や穀物による加工品の作製。身近なところでは、ワイン、ビール、酢といったものが作り出されます。
商人は商売を行う者である。
そして、商売とは、利益を得ることを目的として、品物を仕入れてそれを他人に販売する行為及びその技術である。
できることは商品の売買による利潤の蓄積。身近なところでは、衣料食品の小売、穀類や材木の問屋、土地建物の不動産が商われることもあります。
では、錬金術で何ができるのでしょうか。
「あたしたちは第一に賢者たる学究の徒であり、同時に技術の実践者たる術師でもあるの。薬師であり庭師、鍛冶師であり鋳掛師でありまた細工師でもある。機織り、料理人、酒造り、そして、その全てであると同時にどれでもないの。その上、あたしみたいな工房の主は商人でもあるのよ」
すごく目まぐるしくて上手に印象が定まりません。
「なにやら、万華鏡を覗いてみたような」
「あら、それは表現として綺麗すぎない?」
なにやらツボに入ったのか、くすくすと笑いました。
「良いところ、接木に接木を重ねたせいで、大元の台木が何だったのか忘れ去られた合体木が相場じゃないかしら。ある所では林檎が生っているのに、その隣の枝ではトマトが熟れているような、よく分からない植物」
それはむしろ、そちらの方がすごい気がします。比喩であると分かっているので、茶々を入れたりはしません。
「現状、錬金術はまさしくそういう局面にあるの。錬金術っていう大枠に、あれもこれも思いつく限り、できる限りに新しい技術・知見を盛り込んで、結果、大きな大きな木が出来たのね。でも……」
「その木は正面から見たときと横から見たときの形がまったく違っている?」
続くように言われた気がしました。そしてそれはどうやら正解でした。正答の賞品ということか拍手をもらいました。
目の前の鉢植えの三本の竹を改めて眺めると、ゆっくりと動いていました。マリンバンブーと呼ばれている、竹に擬態する無害な海洋棲のモンスターの一種だったのです。
「全体を一言で説明するには大きくなりすぎて、かといって細部を取り出してそこだけ説明したら誤解を招く。
なんだってそうだとは思うけど、発展が急にすぎると、自分の立ち位置や姿をじっくりと考えるのがなおざりにされがちでね。
また、よしんば、立ち止まって考えてみようと思っても、昨日は昔の勢いで変化していくから、把握のしようがないのも事実。
実際、この先も他の学問体系や技術領域も取り込みながら、もっと肥大化して行くでしょうね。そして細分化される。
ある賢者が錬金術の将来を予言しているところ、やがて錬金術という言葉は哲学に取って代わり、そこで行われる内容も専門ごとに深化され、種々に分派して行くだろうってね。
あたしなんかは古典的というか、薬を捏ね回すのが大好きだけど、特に先鋭的というか思弁的な連中に至っては、そもそも実験とすら無縁だし。
って、まあ、これは余談か。
だけど、どちらにせよ、そこまで行き着いて、それでようやく可能になるってところでしょうね、ちゃんとした定義づけは」
「なるほ……ど?」
正直なことを言うと、途中から説明されていることが理解できなくなってきました。ネリアさん自身、わたしに説明するというよりも、自問自答しているように見えました。
「そういうわけで、シャーリー」
「はい」
「実際上の錬金術師がどんなことをするかは、あなたが自分の目で確かめてちょうだい。あたしの工房に住み込みで働く限りは、毎日錬金術師の仕事を眺めて、時には手伝うことになるわけだから、目にする機会はいくらでもあるでしょう」
そう言われて、わたしは少し考えてみました。
「まずはさっきの洗浄の続きを行いますね」
「お願いね。それが終わったら、少し休憩にして、それから、届け物をしてちょうだい。
荷物は保冷壺いっぱいの氷とビールを三樽。
届け先は『幸せカモメの尾羽亭』。
つまりクーニャのところだから、道は分かるわね。台車は用意してあるから、積み込むのまでは一緒にやりましょう」
「分かりました。これは酒造りであり商人である部分ですね」
「そういうことになるわね」