河船
船頭をつとめる魔法使いが呪文を唱えながら、手にした杖で「コツン」と地面を叩きました。すると噴水のように、こんこんと水が湧き出したかと思うと、たちまち大きな河の出来上がりです。
ただしそれは本物ではありません。
幻の水が流れる夢の河です。
使われたのは、土地の記憶に働きかけて、ありし日の姿を呼び覚ます幻影の魔法です。
幻の河に浮かぶ船に――この船は実体を持つ本物の船です。
この河を流れる水は、夢であり、幻である存在ですから、本来ならば船に限らず、起きている世界の存在が触れることはできないのですが、それにも関わらず、現に船は浮かんでいました。
それはつまり、この船は純粋な意味では現実世界の存在ではないということです。けれど、それならば夢の世界の存在かというと、そういうわけでもありませんでした。
中世の頃、とある手癖の悪い詩人によって、白昼に幻視された夢の世界から無断で持ち出された一本の苗木があります。
それを総ての親とするソムニア属の樹木群。
それで造られた竜骨を持つ船がこれです。
船はかなりの大きさで、売り文句を信じるならば、一度に五百人を運ぶことができました。そこに次々と人が乗船して行きます。わたしもその乗客の中の一人でした。
もう何度か乗っていて、乗るのはこれが初めてではないのですが、それでもやはり色々と驚いてしまいますね。
それまで夢魔を退ける香木や木剣の材料として使われていたソムニアの木を、船材に使えば幻の河に漕ぎ出せると思いついて実現してしまった人の頭はちょっとおかしいと思います。
「帆も櫂もねえしな」
「それもあります」
同行者の言葉にうなずきます。
この船は帆に風を受けず、櫂でこがず、代わりに馬車のように引かれて走るのです。と言っても運河沿いの曳舟道を歩く馬に引かせた馬船ともまた構造が違います。
そうですね、見た目にはソリが近いかもしれません。
わたしの田舎は孤島の漁村なので、漁舟や艀のような小型のものならば、海棲馬や海牛、オルカのような海獣に引かせることがあるのを知っています。
なのでそういう意味での驚きは小さいのですが、規模が規模で、なおかつ引っ張っているモノが……それこそ珍妙な夢の中から飛び出てきたような存在でした。
「ん? キノコってのは普通走るもんだろ。まあ、こいつはちぃとばかしデカイとは思うが」
「わたしの故郷だと茸は走りませんね」
船を牽引するのは小山のような茸でした。
この船を引く茸はかなり大きいので、初めて見る人はその点では少なからず驚いているみたいですが、動くこと自体は誰も不審に感じていません。
このような茸は、はるか昔に、現実世界に乗り捨てられた夢幻の精霊の乗騎が野生化したものだと言われています。
馬や蜥蜴では間に合わないのは――そもそも大きさと力が足りないというのもありますが――普通の生き物では、河の水に触れるうちに、夢の中に取り込まれて眠ってしまうからです。
◇ ◇ ◇
割り当てられた船室は、船のちょうど真ん中辺りでした。
窓もなく、揺れも小さいので、あまり動いている感じがしないのですが、実際はとてつもない速さで進んでいるはずでした。
疾走する茸の速度は馬の比ではありません。
そんな茸が走るのにも慣れたと言えば慣れました。
もちろん全部の茸が走るわけではないのですが、一部の茸が走りまわるのは、飛ぶ鳥と飛ばない鳥がいるのと同じくらいに認識されていました。
それくらい茸が動くことは、大陸では当たり前の話でした。
そして、それは、ちょうど船を引っ張る茸がそうですが、一部が家畜化されており、小人族や獣人の中でも小柄な種の間では、馬の代わりに使われるのも一般的な話です。
これも島と大陸のカルチャー・ギャップの一つですね。
わたし以外誰も気にしておらず、それどころか驚くわたしに驚かれるありさまでした。
読んできた本のどれ一つ言及することがなかったのは、茸が走るのはあまりにも自明すぎて、わざわざ書くまでもなかったというのが真相だったようです。
ああ、いえ、そういえば、一つだけ。
愛読していたお料理の本の中の、食材に関するコラムに、ある茸を指して「特に足が速いので注意が必要」と書かれていました。でも、その時は、お魚に使うのと同じで「傷むのが早い」という意味での注意だろうと流してしまったんでした。
「キノコが走らない森ってのはイマイチ想像がつかないが、そいつは随分と味気なさそうな場所だな」
「そうは言いますけどね、ルーグンさん」
つまらなそうな顔をした同行者にわたしは軽く抗議します。
ルーグンさんは人狼の流れをくむ獣人で、パルマに来てから最初にできた同年代のお友達でした。
一つ年上の十五歳で、普段のお仕事は兵隊さんです。
今日はお使いで遠出するわたしに荷物持ち兼護衛として付き合ってくれています。
「足の生えた茸が走りまわっている姿というのは、わたしからするとちょっとした怪奇現象なんですよ」
初対面は台所でした。知り合いの猟師さんからいただいた茸たちを、いざ料理しようと思ったら、それが籠から飛び出して走り回った時は口から心臓が飛び出すかと思いました。
「軽いトラウマなんでしょ……なんですよ」
「そんなこと俺に言われてもなあ……てか噛むくらい引きずってんのか、お前?」
「……いまのはたまたまです」
本当になんでか舌がもつれたのです。かあっと頬が熱くなるのが分かりました。
「てかキノコに限らず歩き回る草だの木だのさほど珍しいもんでもないだろ。蔓草なんぞはたまに街中でも動き出す奴もいるし」
「むー。わたしの田舎は離島だからウォーキング・プラントの類は侵入してないんです。まあこっちは図鑑とか物語でならよく知ってましたけど」
たとえばエルフの宿るオークの木や、光のさす方向に向かって歩くヤシの木に、時の狭間に封じられたお城を守る茨たち。
そもそものわたしたち人間というのが思考する葦の葉から生み出されたという神話もあります。
ルーグンさんも例に挙げていた徘徊する蔓草の中だと、他の動かない樹木に絡みついては、樹液や養分を吸い上げ枯らしてしまい、果ては取り付いた昆虫や小動物の体液を啜り上げる吸血蔓が有名です。
「……あ。訂正します。吸血蔓だけは地元にもいました」
人を直接害するほどの力はありませんが、繁茂すれば森を殺し、牧場を荒らし、ついには漁場をも破壊する悪魔の草だとして忌み嫌われていました。
見つけ次第、根切にするのが鉄則です。
薬師の目で見ると、やっぱり他の重要な薬用植物を駆逐する嫌な草であると同時に、良い鎮痛剤と安眠のお薬その他の材料になる植物なので、なくなってくれても困るという、扱いづらい植物です。心配するまでもなく、根絶の仕様がないのがこの手の草の定番ですけど。
「それと、あの草の汁に半日漬けておくとお肉が柔らかくなるんですよね」
「へえ。そりゃあ初耳だが、言われてみればさもありなんって話だな。面白い。俺はどっちかと言やあ肉は硬い方が好みだが、今度いっぺん試してみるか」
「でしたら、今日のお礼と言うほどでもありませんが、漬け込むのをわたしやりましょうか? なんなら料理もやっちゃいますけど」
「そいつは有り難いな。だがなあ任せっきりにしちまうと、肝心の出来具合が、いったい汁の力によるものなのか、それとも腕の差によるものなのか、わからずじまいに終わりそうだから、仕込みまでで頼めるか」
「はい」
そういうことになりました。
「しっかし、あいつはどこにでも生えてやがるな」
「まったくです。昔、わたしが小さい頃、村の真ん中の御神木の洞の中から生えてきて、大騒ぎになったことがあります」
「そいつは難儀な事だな。で?」
「幸いその時は発見が早かったので、村の木登り名人が洞の近くまでよじ登って、根っこから引っこ抜くことで事なきを得ました」
「なんだ。大騒ぎって割には呆気ない解決だな」
「いえいえ。その前とその後が大変だったのです。なにせ御神木ですから、みだりに触れるわけにはいかないのです。当然それなりの儀式が必要になります」
ここまで声音を作ってしかつめらしく語ってみましたが、限界です。思い出し笑いで吹き出してしまいました。
「おう?」
「あは。すいません。その儀式っていうのがそれっぽい割には結構いいかげんな物だったんです。いえ、大人はみんな分かってたと思いますよ。今から考えると、あれは子供たちに見せるのが目的だったんでしょうね。何もしないで昇って降りて、さて何も起きませんでしたでは、普段から言い聞かせている『御神木に登っちゃいかん。バチが当たるぞ!』が形無しですからね」
「なるほどな。……そういや俺も似たような記憶があるな」
何か思い当たることがあったのかしきりとうなずいていました。
そしてそうこうするうちに船は目的地に到達しました。
ちなみに作中でシャーリーが噛んだ部分は、作者がミスタイプした部分をそのまま流用してあります。
2013.11.07.
題名を「船旅」から「河船」に変更しました。
旅というほどの物でもないよなあと。
タイトルを考えるのが苦手で、毎回投稿直前になってから泥縄的に決めています。
ところで表題といい章題といいますが、これが話題となるとガラリと意味が変わりますね。