後篇
「でも、それも日が昇るに従って浮力はかげり、今頃は地面に降りてきているらしいのですが、なにぶん小石ですから、発見するのは困難でしょう。それに風に流されてしまったかもしれません」
わたしはそう話を締めくくりました。
「そりゃ災難だったね」
ヒルティさんが同情顔で相槌を打ちました。
翌日のお昼過ぎのことです。
お客さんとの世間話の中で、昨晩のことが話題に上がりました。
自然と飛んでいった〈月の石〉へも話がおよびます。
あの後、〈月の石〉は、どこか遠く、夜空の向こうへ消え去ったきり、結局戻ってきませんでした。
思い返せば、昇って行く速度は確かに速かったとはいえ、すぐに反応すれば十分手で捕まえられる物だったのです。
それを、ぽかんとして見送ってしまったのが悔やまれます。
ネリアさんからは、あやまって空に放してしまうのはよくあることだし、ちゃんと覚えてなかった自分も悪いのだから、あまり気にし過ぎないようにと言われました。
実際、終始上機嫌で笑っていたくらいなので、ネリアさんにとっては本当に大したことではないのでしょう。
ですが、それでもやはりちょっとだけ落ち込んでしまいます。
「それで〈月の石〉――月光を浴びて浮遊力を得る石だったかね」
「そうです」
「浮力を持つ鉱物は幾つか有るけど、話を聞く分にはワシらが〈タルタリコ石〉と呼ぶ物に大変似ているね。それがワシの知ってる物と同じなら――十中どころか百中の九十九まで同じ物だろうけど――普通なら夜には屋根の有る所に置くか、函に容れて保管するよ、さもないと飛んで行っちまうからね」
「タルタリコ石ですか?」
「そうとも。酒精石。葡萄酒の中の精霊が石に姿を変えた物ね。元より酒は天来の品。空に帰りたがる性質が有る所へ、結晶ともなれば尚の事。それを、よりにもよって、昨晩みたいな好月の夜中に、開けさせる方がどうかしてるね」
ふふんと鼻で笑うと、ヒルティさんはどっこいしょと、お客さん用の籐椅子に腰を下ろしました。
そして、妙に愛らしい仕草でぶらぶらと足を前後に動かしながら(背が低いので、深く腰掛けると足が浮くのです)、彼女の視線は店の奥へと向かいました。
「それで、あの阿呆は何をしてるね?」
売り場の奥に作られた調剤室の中のネリアさんの姿に、ヒルティさんは、種族に特有の藍方石を思わせる、目が覚めるような青藍の目もまんまるに、不思議なものを見たという顔をしました。
「もちろん何かの薬を作っているのくらいは見て分かるね。けど、あの夜型の無精者がよ、こんな早い――事は全然無いけど、アレにしては早い時間から、自発的に動く時は、往々にしてろくな事にならんと、いらん経験が教えてくれるんだがね」
力の抜けた、どこか諦めの混じる嫌そうな声音に、こちらも思わず苦笑してしまいます。
わたしよりも遥かに長い付き合いの持ち主として、色々思い当たることがあるのでしょう。
そして、たしかに、普段なら、そろそろ起きだしてくるネリアさんのために、ご飯を作っている時間です。思えば、お昼を取る時間も、働きに入る前と比べて遅くなりました。
「美容液だそうです」とわたし。
「うん?」とこちらはヒルティさんが首を傾げて発した物です。
「昨日の夜に作った霊水をベースに、美肌効果のある美容液を作るんだそうです。ほんと、いつになく早起きだったんですよ」
朝の内に起きだすや、はりきって調合を始めました。
「はん! わざわざ月を降ろして何をするのかと思えば」
ヒルティさんは、呆れたとばかりに口をゆがめました。
「ワシ思うんだが、『夜更かしはお肌の大敵』と好く聞くね、それを、美容液を作るために、真夜中に儀式をやるっていうんは、本末転倒違うか? というかよ、そもそも昼夜逆転している生活を改めれば良いね。アンタも、もう三十だったか、好い歳なんだから、明け方に布団に入って昼過ぎに起きるような態度を好い加減見直すべきよ。聞いてるのかね。まったく」
正直、わたしもそう思います。でもネリアさんはそうは思わないようでした。それか痛いところをつかれてむっときたのか、薬品を扱っていた手を止めて、調剤室からひょいと顔をのぞかせると、すねるような口調で反論します。
「二十八! あたしまだ二十八歳だから、三十違うし!」
「わはは。そうだったかね、そりゃあ、すまなかったね」
さほど済まなそうな口調でもありません。
「あんたら老いを知らない妖精種族に、そういう事言われると腹立つわあ。特にあんた達みたいに、火に飛び込んで、痛んだ肌を修繕できるようなキテレツな生態してる連中からだと尚更!」
「奇天烈とは心外よ。ワシらからすれば、アンタ達の火傷や水脹れこそ不思議だし不気味ね」
赤土か赤銅を思わせる肌色に、宝石めいた瞳、金属光沢のある銀の髪が、彼女が大地の小人の一員であることを雄弁に物語っていますが、ヒルティさんは御伽噺に登場する森と鉱山の精霊の末裔と伝えられるコボルト――時に『叩き屋』や『地中暮らし』といわれる一族です。
祖先である地下の精霊から石と鉄の特性を受け継いだ彼らは、わたしたち人間とは桁違いの火に対する耐性を持っています。
その肌は生半可な火では傷一つつかないと言います。
おまけにこの金属の妖精たちは、鋳掛屋が壊れた鍋を白鑞で継ぐように、小さな怪我程度ならば、火にくべて熔かした自分自身の髪の毛を使うことで、たちどころにふさいでしまえるというのだからびっくりします。
「あと、さっきから聞いてたら人を常識知らずみたいに言ってくれちゃってさ」
「そうは言ってない。アンタがちゃんと常識を知ってる事くらいワシだって知ってるさ。そうじゃない。ワシが言いたいのはこういう事ね。そうさ、アンタに足りないのは自重よ」
「なにそれ、流石にちょっと酷くない」
憤懣やる方ない様子。もっとも、こちらも大部分は作っている物でしょう。この二人は普段からこんな感じです。
ちょっと見には、しっかり者の妹とちょっとずぼらな姉といった風情ですが、実際の両者の関係は、たとえるなら、お転婆な姪と何くれとなく面倒を見る叔母とでも言うべきものみたいです。
もちろん叔母は豪快に笑っているヒルティさんの方です。
ひとしきりネリアさんをやりこめると、「ほれ、仕事に戻った、戻った」と手を叩いて追い払い、それから腰に下げた黒い革製の上等の煙草入れから喫煙用具を取り出して、こちらを向いて一言「構わんかね?」と聞きました。
毎回確認してくる律儀な人です。
そしてこちらの返答も常に同じです。店主であるネリアさんが許可していますし、父も喫煙者だったので、好ましいか否かは別にして、時折嗅ぐ分には、懐かしい匂いです。
「シャーリー嬢ちゃんは話が分かるね」
破顔して、それから首を飾る赤い宝石の中から、妖精の火を指先で摘まみ出すと、無造作に煙管の火皿に押し込みました。
至福の表情で、輪を三つ続けて吐き出します。
「ネリアの弟子にしとくには惜しいくらいよ。もし錬金術に飽きたら、ワシに相談するが好いよ、猟師の男でよかったら紹介してあげられるからね。……あ、大丈夫、心配ないよ、小人じゃなくてちゃんとヒトの若いのだからね」
「ありがとうございます」
とはいえ、今のところ、まだ結婚する気はありませんけど。
「最近はどこもかしこも喧しいからね、やれ臭い、やれ体に悪いの大合唱で、やれやれよ。店の中では煙草を吸うな、いやさ外でもやめておくれときたもんさね。ワシなんかは猟師で、一年の大半を街の外で過ごしてるからまだマシな筈だけど、それでも肩身が狭く感じる事があるよ」
紫煙とともにヒルティさんはボヤきました。煙草道楽の身には昨今の情勢は厳しくもあり、寂しくもまたあるようです。
ただ、ヒルティさんの場合、それだけではないでしょう。
彼女はパッと見には十二歳くらいの女の子にしか見えません。それに加えて、成人した女性にしては珍しく、彼女の髪は短くおかっぱに切り揃えられているので、なおさら幼い子供に見えます。
疑いなく十四歳のわたしよりも外見だけなら幼いです。
そんな彼女が煙草を吸っている姿を目撃した周囲も、むしろ戸惑ってしまっているのではないかとにらんでいます。
◇ ◇ ◇
「あんなのダメダメ」とネリアさん。
と言っても、ヒルティさんが紹介してくれるというわたしのお見合い相手についての話ではありません。
ヒルティさんから「月の水くらい買えば済むだろうに、手ずから仕込むとは物好きな事だ」と言われて返した言葉です。
商都の名高いパルマで、商品として扱われない物はありません。
当然として霊水の部類も様々流通していますし、〈弟姫月〉の光を受けた白銀の水に至っては、七日に一度作り出せるということもあって、需要に対して供給過剰気味で、安い物だとフラスコ一杯が安いビール二杯分くらいの値段で取引されます。
実はここ『薔薇の乙女』でも売っています。もっともネリアさん曰く「最高品質」であり、お得意さま曰く「過剰品質」の物なので、価格設定も強気で、あまり売れることはありませんが。
「やってることは単純作業といえば単純作業だから、学生の小遣い稼ぎか、徒弟の雑用って思われがちなのよねえ。やんなるわ」
とよくこぼしています。
かつて月の光を集めることは、これほど簡単ではありませんでした。わたしは故郷の島で、集光器を使ったやり方が発明される以前の、伝統的な手法で霊水を作るのを見たことがあります。
数夜にわたって儀式を重ね、少しずつ月の呪力を注ぎ込んで行きます。その際、儀式と儀式の間は、太陽の光に触れて呪力が吹き消されてしまわないよう、厳重に保管する必要がありました。
なので、集光器を使った方法なら、一晩で作れてしまうと知ったときは、とても驚きました。集光器は月の光を効率的に利用するために考案された道具だと教えてもらいましたが、使い方も単純明快で、わたしにも扱えるでしょう。
「あの街で学生がする定番の副業と言えば〈月の水〉と〈密造酒〉とが双璧だったわねえ」
それ自体は高価な道具ですが、フラスコも含めて学校の備品や教師の私物を借り受けることで、元手ゼロで始められるアルバイトとして、パルマ――正確には湾上に浮かぶヘルメス島の学生街ではとても一般的な物なのだそうです。
「これが師匠の命令で作ってる分には、下手な物を提出すると雷が落ちるから、ちゃんとした物ができるけど」
その縛りがない分、あるいは提出する上澄みを除いた下層品が放出されがちな結果、手抜きが顕著だと、ヘルメス島の大学で学び、歓楽の都パルマに工房を構える錬金術師は言いました。
「松明や放電灯の光が混ざった純度の低い物も多いんだから。料理の風味付けや大衆薬くらいに使うのならそれでも良いけど」
「獣を追っかける時に使う隠身呪にも充分使えるけどね」
さきほどから独り静かに煙草に集中していたヒルティさんが、ふいに言葉を挟みました。次の葉を入れる合間の口寂しさを紛らわす、ちょっとした薬味といったところでしょうか。
「そこ引っ掻き回さない」
話の腰を折られたからか、ちょっと声が冷たいです。
うへえっと呟くと、「悪かった。降参ね」とヒルティさんは小さく両手を挙げます。もっとも言葉ほどには反省していない様子は明らかでした。と、またたきするほどの早業です。笑いながら、まだ燻っている葉を手の平に落としかと思うと、それを火種として、詰め替えた葉っぱに着火します。
後で聞いた話では、猟師に伝わる呪術で、三日三晩水に浸したマントや蓑を着ることで、獲物に気付かれにくくなるそうです。
やり方としては他にも、香水にして吹き付けたり、そのまま頭から被ったり、はたまた、水面に月を映す湖で、呪文を唱えながら沐浴するというのもあるんだとか。
そういえば、故郷の村の漁師さんたちも、似たような感じの伝統のおまじないを持っていましたっけ。
「まったく」
てんで堪えた様子のないヒルティさんを、ネリアさんは軽くにらみつけていましたが、しばらくしてぷっとふきだした後で、話を再開しました。
「ちょっと手の込んだ事をしようと思ったらもう駄目で、もともと火と雷の気質が水と相性が悪いこともあって、そんな物を使った日には、逆に上手く行かなくなるのがオチ」
だから照明を落として月明かりの下で儀式を行うか、灯りを使うにしても、影響を最小限に抑えられるよう、月光を閉じ込めた月影の昌燈を用いる等の配慮が当然求められる(とネリアさんは言っています)のですが、ズボラであったり、専用の照明を用意するお金を惜しむ人間は少なからずいるのです。
「照明に投資したからって、その分高く売れるとも限らないのも分かるんだけどね。それに、あの街は研究で、この街は世界最大の都市として、それぞれ昼夜逆転している人間が多いせいで、真夜中でも明るかったりするから、余分な光が混じりこまないようにするなら、市壁の外に出て、街の光が届かない郊外で野営しながら儀式をするか、いっそ環境の整った儀式場を借りるかだけど、無料の式場は予約でいっぱいで、有料の式場では赤字もいいところ」
倹約と吝嗇は似て非なるものではありますが、知らず知らずのうちに節約が高じて、本来必要とされる最低限の出費まで切りつめてしまうことはまま見られます。
お恥ずかしい話ですが、わたしにも憶えがあります。
ついつい節約することその物が楽しくなってしまって、かえって出費を大きくしてしまいました。
「万事是銭次第。せちがらい世の中だこと。ま、どの道、月を望む祭場は、より高度な儀式や実験に充てられるのが常だから、最初から現実的とは言えないけどね。結局は、力の入れ具合っていう面から見て、あたしは変わり者の部類に入るかもしれないわねえ、それでも妥協はしかねるけど」
「特に今回は自分のお肌が懸かっているから尚更かね」
「そういうこと」
ヒルティさんのからかいに、ネリアさんはむしろ誇らしげに肯定しました。実際、ネリアさんは美容に結構気を使っています。
まあ、そのくせ研究や実験に没頭するあまり、宵っ張りが身に着いてしまっているのは、なんだかなあって思いますけど。
詰めが甘いというか、根が大雑把なんだと思います。
「しかし。錬金術と言うより妖術や魔女術っぽくないかね?」
錬金術にも〈長生術〉は存在しますが、らしからぬというか、月の女神の力を借りて、若さと美を求めるところが、そう感じさせるのだとヒルティさんは言いました。
一般に、月の精霊たちは、魔女をふくめた妖魔と獣人、そして死者たちの守護者とされています。
もっとも、その時点ではあくまでも冗談のつもりだったはずです。
それに対して、黒に近い紺の瞳に稚気の光を輝かせながら、あっけらかんとした声でネリアさんが応えました。
「ぽいもなにも。魔女術よ、これ」
「そりゃまた驚きの新事実だが、やれやれ、シャーリー嬢ちゃん、やっぱりろくでもなかったじゃないかね」
「あはは」
ヒルティさんの言葉に、何と返してよいのか咄嗟に思いつかず、自分で驚くくらいの愛想笑いでした。
「それで、アンタ、いつから妖魅、ストリーガの類に転向したね」
「ある意味最初から? 冗談だって、半分くらいは」
ヒルティさんの不審はもっともでした。本来魔女の術は魔女にしか使いこなせないとされています。
魔女の術自体は悪しき物ではありませんが、それを無理に使おうとすれば、月の女神の怒りに触れて、狂気を注ぎ込まれた末に、妖魔へと堕ちると言い伝えられています。
だとすれば好ましい術ではないのではないか、誰だってそう考えます。もっとも、その割にはネリアさんの態度に深刻さが欠けていましたが。何らかの対策は講じられているのでしょう。そこまで無鉄砲な人ではありません。それが分かっているので、ヒルティさんも多少いぶかしがるに留まっているのです。
「いやさ、妖魅だ魔魅だに成る気はないけど、あたしってば錬金術師の中でも特に薬学寄りの人間でしょ、魔女の秘薬には昔から興味があって、資料を集めたりとかしてたのよねー」
飛翔術と降神術、そしてなにより魔法の薬は魔女の代名詞です。
憧憬なのか対抗心かは分かりませんが、ずいぶんと魔女を意識しているようでした。
「まったく、この分だと、その内金雀枝の枝が欲しいとか言い出しそうね」
言うまでもなくこれは魔女の帚のことです。
もちろん、エニシダの枝帚は魔女以外でも使いますが(現にわたしが毎日の清掃に使っているのもエニシダ製の帚です)、それでも、魔女といえば帚、帚といえば魔女なのです。
「あ、それはない。あくまでも錬金術を一層掘り下げる為に、異分野の知識に学ぼうってだけで、あたしは錬金術師である自分に愛着があるから、それを捨てる気はないの」
素早く、きっぱりとした否定。なるほど感情の種類は対抗心のようです。
「だから、これは趣味と実益を兼ねた有意義な研究って事。……あとはまあ、飛ぶ時に使う薬の製法には興味があるけど。空を飛んでみたいって思った事があるのまでは否定しない」
えっへんと豊かな胸を張りました。それはちょっと子供っぽい仕草で、自分でもそう思ったのか、頬を薄く染めながら、こほんと一つ、照れ隠しらしき咳払いをしました。
本人はあまり気付いていないようなのですが、今日に限らず、よく見られる光景です。幼心を残した女性、それがネリア・リンベルクという人だと思います。
「そりゃ褒めすぎよ。童心を忘れ無いなんて大層なものじゃなしに、趣味に没頭する余りに、年齢相応に成熟する機会を終に逸した只の駄目人間ってだけね」
とことんきびしい人です。
「むしろ、今のシャーリー嬢ちゃんよりもっと小さい頃から知ってるけれどね、その頃の方が落ち着きが有ったと言うかよ、年々日を追う毎に子供染みて行くのは本当どうかと思うよ、ワシ」
「そこまで言うか」
うめくようなネリアさんの声は聞き流されました。
「まあ、誰に対抗心を燃やしているのかは、見当が付かんこともないがね」
ヒルティさんは何か知っている様子で苦笑していました。複雑な心境がうかがえる微妙な表情で呟きます。
「沼の市の魔女殿も、あんまり挑発してくれなきゃいいんだがね」
◇ ◇ ◇
沼の市の魔女。
数百歳、もしかしたら千年以上生きているかもしれない古い古い魔女の話です。ある時は戦争をしている国同士の間に越えがたい山を一夜にしてそびえさせ、またある時は湖に映った月が綺麗だからと湖ごと持って行ってしまい、時には雨乞いの儀式に乱入して飴玉を降らせたりするそんな魔女です。
同時に、流行り病を鎮める秘薬を薬師に授け、土砂崩れに飲み込まれそうになった村を布で包んで別の場所まで運んで行き、天から降って来た遊星の魔王を、手にした帚で星界の彼方まで打ち返した魔女でもあります。
それはお伽噺ではありません。
その時の気紛れで行動しているのだと言う人もいますし、深慮遠謀あって動いていると言う人も両方います。
直観が神慮に叶うのが、秀でた魔女の証なの、というのはいつか母が語った言葉です。
「たしか〈魔女のお頭さま〉の一人でしたっけ」
「あら、よく知ってたわね。沼の市の魔女の悪名――もとい令名は山より高いけど、魔女団を率いる頭目の一人であることまでは、本人の行動が派手過ぎて、あんまり知られてないはずだけど」
「子供の頃にお母さんから聞いたことがあります」
母は彼女のことを〈二の姉さま〉と呼んで、尊敬していました。実は七年前、わたしが七つの時に他界した母も、魔女の素質の持ち主でした。もちろん本当に姉妹なのではなく、魔女たちはお互いを姉妹と呼び合うのです。そして〈長姉〉は伝説上の最初の魔女を指す言葉なので、〈次姉〉〈二の姉〉は、自分が属する魔女のグループの最高位者ということです。
つまり、それが〈魔女のお頭さま〉です。
と言ったら二人とも驚愕も露わに。
「あの偏屈に認められるなんて、あなたのお母様、相当の物よ。あのばば……魔女ときたら、自分の性格を棚に上げて、素直で清らかな聖女の様な、それでいて従順なだけの奴はつまらないとかぬかして、配下に加える人間を選り好みするから」
「魔女殿の下で過ごすから人格が磨かれるのか、最初から人格者以外はついていけないのかは判断の難しい所ね」
「はあ」
絶賛です。いえ、自分でも口を半分ほど開いて「はあ」では馬鹿みたいだと思うのですが、とはいえ、まさか「わたしのお母さんは聖女だったのですね」とも返せませんから(そもそも魔女です)、結論として「はあ」としか言えないのです。
けれど、魔女であったこと以外は、そしてその魔女としても、それほど強い力は備えなかったようですし、ごく普通の人だったと思うのですが、実はすごい人だったのでしょうか。
「『普通の人』と言うのは世の中にはそうは居ないよ。変に才気走るでもなく、愚鈍でもなく、中道を歩みながら、自然体で在れるというのは得難い事ね。それに、何より、些か困った御仁だけれど、魔女殿の人を見る目は信頼できるよ」
「そんなものでしょうか」
いまひとつ分かりませんが、それでも、親を誉められて悪い気はしません。
「はは。嬢ちゃんのその反応を一つ見ても、善い親御さんだったのが分かるよ」
にこにこと優しい笑顔を浮かべたヒルティさんが言いました。わたしもまた温かい気持ちになりました。
母のことが大好きでした。いいえ今でも大好きです。
力の弱い魔女だとしても、それでも箒を使って空を翔るくらいはお手の物でしたから、幼い頃のわたしは、母の背中にひっついて、島の上をぐるっと飛ばせてもらうのが大好きでした。
なので一つだけ言えることがありました。
「あの膏薬は空を飛ぶための物ではなくて、空を飛んでいる時に風から身を護るための物なので、飛ぶの自体には必要ないというか、あっても空は飛べませんよ」
少なくとも母はそう言っていました。乗せて飛んでくれる時には、「身体を冷やすといけないから」必ず顔や腕に塗るようにと言いつけられて、しっかり塗り終わるまでは許してもらえませんでした。逆に母が塗らずに飛んでいるのを見たこともあります。
「へえ。そうなんだ。魔女はあまり自分達の手の内を明かさないから、そういう情報は貴重ね」
感心の面持ちでうなずくと――「こんな身近に恰好の情報源があったなんて。これが青い鳥という奴かしら」――興味津々といった様子で、目の前の標本をつつきだしました。
好奇心に支配されたネリアさんの勢いは素晴らしく、暴走する牛もかくやで急には止まれません。「青い鳥は違うだろう」というヒルティさんのツッコミも耳に入っていない有様です。
ただ、生憎と幼い頃の話で、母にしてもわたしを魔女にするつもりはなかったようなので、大した話は聞いていません。なのでこの質問攻めに、わたしはたじたじです。
「ああ、ごめん、ごめん」
満足の行く答えは返ってこないことに気付くと同時、我に返ったようでした。
「でも、そっかー。帚に乗って空を飛んだ事があるのかあ。それってやっぱり気持ち好い?」
子供のように目をキラキラ輝かせているのが印象的でした。
「ええ、とっても。残念ながら、その素質はわたしには伝わらなかった――母が魔女な一方で、父が司祭でありましたから、互いに打ち消し合ってしまったんじゃないかって疑っています――ようで、ついに一度も飛べませんでしたが、子供の頃には、何度も帚に跨っては、空を飛ぼうと試みた物です」
実はここだけの話ですが、実は今でも時折、本当にたまにですよ、掃除中なんかにひょっとしたら飛べないかなって帚に跨ってみたりすることがあります。
そうして、できないことに気付いて、やっぱり無理かあと落胆するのまでが一連の動作となります。
「ええ、本当に素敵でした。叶うならば、もう一度空を飛んでみたいものです」
月に惹かれて空を昇っていったあの石のように、夜光の下を舞えたならば、どんなにか素敵なことでしょうね。
〈シャーリーとネリア〉
画:Coさん
向かって右がシャーリーで左がネリア。
元々このシリーズはとある同人アンソロジーに寄稿した「商都の錬金術師たち」(改稿前)を独立させたものなのですが、初出の同人誌版ではCoさんという方に挿絵(扉絵)を書いてもらったのです。
その際、いくつかラフを貰ってまして、その後、忘れていたのですが、しばらく前にパソコンを新調した後、データの整理中に発見して、眺めているうちに、これは眠らせておくのはもったいないと思われました。
それで、ご本人に「使って良い?」と聞いたところ、許可をもらえたので、公開しました。
(ちなみに貰ったのは2009年の8月頃なので、描かれたのもその頃か、もっと前)