前篇
月の光をうけて、その石は夜空に昇って行きました。
◇ ◇ ◇
月の明るい夜でした。
小さな〈弟姫月〉は満月で(ご承知のとおり、小なる月は七日に一度は満月ですけど)、大きな〈兄姫月〉も満月にほど近い十三夜の相貌を見せています。
二つの満月が連れ立って踊る双黄月の良夜ほどではないにしろ、この夜空の輝きは、灯火なしで本がらくらく読めるくらいで、特に今夜は照明を使うのを禁止されていたので、歩くのにとても助かりました。
足取りに不安を覚えることなく、夜の庭を進むことしばらく。
「精霊よ 銀の処女を 歌い讃えよ
詩人を酔わし 霊感を授ける恋人を」
力に満ちた涼やかな歌声。
玲瓏とした響きは、水底の住人にも負けていません。
素人の耳にも、その歌声こそが十分に詩人に霊感を与える力を持っているように思われました。
歌声の聞こえ来る場所を目指します。
月に照らされる内庭で、呪歌の主、ネリア・リンベルク錬金術師が、丸いお鍋の底のような形をした鏡を操作していました。
それは光を一点に集める光学の装置で、いまその光線は、水の入ったフラスコへと向けられています。
月の光を照射しながら、ネリアさんが呪文を唱えると、フラスコの水はだんだんと銀灰色に変わって行きました。
歌声に呼応して、ある時は強く、ある時は弱く、金色でない銀色に冴え返る水中の月。
いつしか水はそれ自体が淡く柔らかい光を、内側から放ちはじめます。
頃合いと見て、もう一度今度は締めの呪文を唱えます。
「夜空の女よ 甘い恋への憧れをかきたて
賛美者を狂わせ 駆り立てる 一滴の天来の美酒をして
酣に酔わせる 天の酒場の女主神よ」
「――ここに降りたまえ!」
月の精霊への頌歌が終われば、あとは反応が終わるのを待つばかり。水はやがて凝固して、半ば金属の性質を帯びることになります。
天の水つまり〈水銀〉に属する霊水です。
錬金術では、火を孕む土である〈硫黄〉と共に重んじられる物でした。
というのは全てネリアさんの受け売りですけど。
そして、それは何も錬金術に限った話ではありません。
「有象無象を含めた多くの魔術結社が後裔を自称したがる帝国時代の〈銀の太陽〉なんてもろに月神崇拝の秘教集団だったしね」
と、いつだったかネリアさんも言っていましたが、様々な魔術において月は重要な存在であり、その呪力が籠もった水は、色々なことに使えるので、今日みたいな良く晴れた満月の晩には、こうして作り溜めしておくのが、ネリアさんの習慣でした。
その時には家中の明かりが消され、竃の火も落とされました。
「月からこぼれる光は陰火。夜の国に属する物だから、それを集める儀式の過程で、昼の力である電光や灯火の光が混じる事は、絶対に避けなければ駄目なのは分かるわね」
強い灯火は月明かりを掻き消してしまうからです。
月の光が魔性を宿した光であることは誰だって知っています。
魔女や人狼が月の眷属を称するのは故なきことではありません。
夜闇を燃やす火炎が妖魔を退け、雷電が悪鬼を打ち据えるのは、月の女神の寵愛を受ける彼らに嫉妬しているからだと主張した神学者がいたくらいです。
それは本質的に鬼火や蜃気楼に通じる輝きなのです。
「まあ、火で焼かれて雷に打たれたら、あたしら人間だって余裕で死ねるけど」
集光器をゆらさない程度の絶妙な力加減で肩をすくめます。
みもふたもない言葉に思わず笑ってしまいました。でも言われてみたらそうですよね。火に焼かれれば普通は死にます。
「違うのはコボルトやゴーレムのみなさんくらいですよね」
顔を見合わせてくすくす笑いを交わします。それにしても。
「今の季節は暖かいからいいですけど、冬場はきつそうですね」
真夜中の屋外で、焚火をすることもできないわけですから。
「そうねえ。でも月の冴える冬の方が、良質な霊水が作れるという話もあるのよね」
「そうなんですか」
「うん。この辺りには積もるほど雪が降ることなんて滅多にないけど――けど、というかだからこそと言うべきよね――双黄月の夜に銀世界で紡がれた霊水は、同じ目方の純金と交換されるくらいに珍重される物なのよ」
「金ですか!」
それも純金ときました。
「そこまでの値打ち――つまり力のある〈水銀〉は、こんな南じゃまず作れやしないけどね。そうね、この辺りでその精度まで求めるなら〈冬姫の離宮〉にでも籠もるしかないんじゃないかしら」
「〈離宮〉に入るのに火を使えないのは死んじゃいませんか」
二百年ほど前にとある冬の女神が降臨した神域です。
パルマから西南西に旅慣れた人が歩いて五日。わたしの足なら六日でしょうか。
降臨地を中心に、女神の力の余波が未だに留まっていて、行ったことのある人の話だと、一年を通して吹雪の止まぬ日のない極寒の地なのだとか。
「そ。だからほとんど誰もやらないの」
結果、稀少で高価なままというわけです。
「まあ、それはおいといても、冬の方が太陽の力が弱まる分、相対的に月の力は強まるしね。魔術師や錬金術師を名乗る人間なら、その機を逃しはしないでしょうね。徒弟にやらせて自分は寝てるなんてことも同じくらいありがちだけど」
「それはもしかして冬場はわたしがするということでしょうか」
「さて、どうかしら。ふふ、冗談。人任せにする気はないわ、今みたいにお手伝いくらいは頼むと思うけど。さてと、今の間に次の準備をしておくかしら。頼んでおいた物を渡してちょうだい」
そうでした。
「それなんですが……」
◇ ◇ ◇
「函を取ってきて。月の函よ」
さて、これを、どうしましょうか。
蓋に三日月が描かれた木製の箱です。
素材は紫檀でしょうか、蓋の月の文様は浅く彫った溝に銀灰色の顔料を塗ってあるようです。
真鍮の留め金のある向きを正面に見て、側面には左から時計回りに、熊と兎と蟾蜍がそれぞれ、焼印で押されています。
言いつけられたのは、たしかにこれに違いありません。
蓋の絵からして、そのはずです。
三日月模様は言うまでもありませんが、これらの生き物はすべて月と縁の深い霊獣たちです。
それが二つ。どちらも手の平に乗るくらいの大きさで、見た目はそっくり同じな小箱を前に、わたしは途方に暮れました。
二つもあるとは聞いていません。
はてな。どちらを持っていけば良いのでしょうか。
首を傾げて、むむっと、うなることしばし。
蓋を開けて、中を確認しようかという考えが、ちらりと頭を過ぎりましたが「いやいや、それは危険です」すぐに振り払います。
比較的無害で安全な物が置いてある部屋だとはいえ――と説明されていますが、それだって過信は禁物です。
あの人たちの「大丈夫」は、結構な割合で他の人間にとっては、あんまり大丈夫じゃなかったりします。
浮世離れしがちな魔法使いの中でも、とりわけ、変わった物を蒐集し、蓄えるのに定評あるのが、錬金術師という種族です。錬金術師の工房で、正体の判らない物に迂闊に触れるのは危険です。
少し前にはこんなことがありました。
夏の盛りの頃、蝉時雨の中を燦々と照る西日への対策に、日除けとして朝顔を育てようと思い立ちました。
許可を得るために、工房の主――ようするにネリアさんのことですが、彼女に計画を持ちかけると、それならちょうどいい物があるからと、渡されたのが騒動の種。
もとい朝顔の種。
昔に種苗商人から手に入れた、背高に育つと折り紙付きの東洋産の変り種という話でした。
それから、朝顔用に調製された栄養剤。
今ならこの段階で疑わしく感じるところですが、あの日のわたしは純朴でした。
数日後、蒔いた種はほとんどが無事に芽を出しました。
これならきっと立派に育って、日除けの役目を果たしてくれると期待したその翌る日のことです。
ドーン、ドーンっと大きな音が、夜も明けきらぬうちから、ひっきりなしに轟いて、その度に地面が少なからず揺れました。
半ば夢の中を漂いながら、花火でも上がっているのかしらとのんきなことを考えましたが、徐々に意識がはっきりするにつれて、そんなはずがないと気づきました。
慌てふためき目を覚まし、寝台から跳ね起きると、ほどなく、震源がすぐそこ、工房の敷地内であると分かりました。
一体、何が起こったのかと思えば、一夜にして、岬の大灯台を超える高さに成長したお化け朝顔が、一つひとつが小振りの西瓜ほどもある種を、盛んに落としていたのです。
見上げれば雲の中から喇叭が顔を覗かせているではありませんか!
すいません。ちょっと盛りました。
流石に雲の上にまで届いたりはしませんでしたが、巨人サイズの種が落ちてきたのにちなんで、この出来事はジャックの朝顔事件と名づけられました。
ちなみに、命名は町内会によるものです。正式名称(?)で呼ばれることは滅多にありませんが。
回覧板で回って来ました。
誰が書いているのかは知りませんが、町内で起こったあまり深刻でない出来事を面白おかしくユーモラスな筆致で描くコーナーがあって、うちの工房の半ば指定席のようになっています。
さきほどの「雲の中の喇叭」云々というのも、実はこちらから拝借したものです。
安眠妨害をこうむったご近所のみなさんも、最初かんかんだったわりには、一通り文句を言った後には、けろっとした顔で「今度はどんな記事になるかしら」と興味津々といった感じで、たくましいなあと思います。
まあ、毎週のように何かしら起こしていれば、耐性も出来るということでしょうか。
また、こんなことも。
そちらの事件の主役は、ちょうどこの部屋の中にあります。
ここからは見えませんが、棚を二つ隔てた向こうの床には腐敗を遅らせる魔法円が描かれていて、そこには材質や形状も様々な沢山の水瓶が置かれています。
何事もそうですが、質の高い薬を作るためには、材料の段階から上質な物が求められます。
特に作られるのが霊薬ともなれば、自然と水もただの井戸水や水道水では間に合わず、聖別された浄水や天然の霊水が使われることになります。
いつ必要になってもいいように、ストックされているわけです。
ある日、その中の一つから、器の容量を明らかに超えた大水が溢れ出すという事件がありました。
霊水の壷たちの中に、うっかり紛れ込んでしまっていた、店主の私的な蒐集品の一つである『「湖を飲み込んだ」魔法の水瓶』を、知らずに開封してしまったのが原因です。
慌てて栓を閉め直すも時すでに遅く、どっと噴き出した洪水が部屋を満たして、あわや溺れ死ぬかと思いました。
しばしばこんな具合です。
と言いますか、家主(ネリアさん)が整理整頓の苦手な人なので、きっとこれからも起こりうると確信しています。
「これはこれで考えて置いてあるから、どこに何があるのか自分はちゃんと把握している」
などというお決まりの文句には騙されません。わたしの父も生前よく似たようなことを言っていましたが、この手の台詞が信用できた実例はないのです。
あれは起こるべくして起こった事故でした。
水が引いた後も(これもまた妖しげな魔法の瓢箪で吸い込んだのですが)、部屋中、床一面に放り出された貝に魚に水草に、泥臭いやら、散々なありさまで、あの時は、本当に大変でした。
あ、でも、あのお魚は美味しかったですね。
鯉の一種だそうですが、はじめて見る魚で、金色で鱗のない見た目に当初は馴染まず、また頭から尾びれまで二メートルほどもある、大半の成人男性より大きな姿を前に、どう料理すればいいのかはかりかね、そもそも食べられるのかも分からず、手を出しあぐねていたところ、いい食べ方があるからと、知り合いのコボルトさんが調理を買って出てくれました。
その日の夕食として、彼女の家でご馳走になった魚は、骨までさっくりからあげにされて、目を見張る美味しさでした。
もしまた機会があれば、もう一度、いえ、一度と言わず、二度三度、何度でも味わいたいです。ああ。思い返すと思わず涎が……。
あれ?
いえいえ、そういうことではなく。脇道へと走って行った思考を引き止めて、目の前の箱に呼び戻します。
そうです。問題はこの箱なのです。
あらためて箱に視線を向けます。
そのまま考えごとをする時の癖で、首から提げたお守りの小瓶を、いつものようにいじりながら(中に入った聖水に硝子越しに触るとひんやり落ち着くのです)じーーーっと箱を眺めます。
とはいえ、やはり、このままでは埒があきません。
いくら穴のあくほどにらんだところで、現に穴があくはずもなければ、中を透視できるわけでもありませんから、はっきり言えばこれは時間の無駄です。
覚悟を決めると、えいやっと手を伸ばし、どれがお目当ての箱なのか、何か分かるだろうかと、一つひとつ取り上げてみます。
一つはカラリコロと中で何か転がる音がして、また一つは穀物や細石が立てるようなサラサラとした音、なにより持ったときの重さが明らかに異なるので、中身はきっと別だと思われました。
困りました。容易ならざる事態です。
などと大袈裟に慌ててもみましたが、やがて解決策に思い当たります。この言い方も大袈裟ですね。考えてみれば簡単な話で、両方持って行って、正しい方を直接選んでもらえばいいだけでした。
もうひとつ言えば、もともと「箱を持ってくるように」としか聞いていませんから、中を見たところで、どのみち判断できません。
これが持ち上げるのにも苦労するような重量物ならそうは行きませんが、幸い、どちらも小さくて軽い物ですから、もし仮に数がこの十倍あったとしても、持って運ぶのに支障はありません。なお都合の良いことに近くの棚にお盆が数枚重ねて置かれていたので、その中から一枚取ってくると、二つとも載せてしまいます。
その後は何の問題もなく、無事に運び終えました。
そして話は冒頭に戻り、箱が二つあったことを伝えます。
◇ ◇ ◇
「あら」
そう言ってネリアさんは綺麗な三日月形の眉をひそめました。それから、しばし考えるようにして、二言三言聞き取れないくらいの小声で何事か呟くと。
「二つあったの。ふうん。いつもアレの入った函だけ真っ直ぐに持ち出してるから、他にも同じ函があるなんて、すっかり忘れてたわ。そっか。まあ、あの部屋に放り込んだ以上は危険な物でもないだろうし、両方開けてしまえば済む話よね。あたしはちょっと手が離せないから、あなたが開けてちょうだい」
「わかりました」
それがいまいち信用できないところがあるので怖いのですが、指示された以上は開けないわけには行きません。
蓋を開いていくと、しかし、拍子抜けしたことに、最初の箱は空でした。考えてみればこれもおかしな話です。サラリサラと何か入っているような音がしていたはずなのですが。
不思議に感じながらも次の箱を開くと、こちらにはカラコロと鳴る音に相応しい中身が入っていました。
それは何てことのない豆粒ほどの小さな石に見えました。
けれど、それはただの砂利ではありませんでした。それも当然だったでしょう、だってただの石ころを、箱に収めて後生大事に保管しておくはずがありません。……いえ、やっぱり保管しててもおかしくはないかもしれませんが、ともあれ。
「なにこれ」
びっくりして目を見開きました。そしてその目はだんだんと上に上がっていきます。じょじょに首が痛くなってきました。
というのも、その石はふうわりと浮き上がったかと思うと、結構な速さで、どんどんと空に昇っていったからです。
「〈月の石〉よ」
振り返るとネリアさんが笑っていました。
「そっかそっか〈月の石〉が入れてあったか。まあ、あの大きさだと〈月の砂〉と呼ぶべきかもだけど。あの時使った奴の残りかな? しっかし、それにしても良く飛ぶわねー、この分だと月の塩梅は満月か、それにほど近い状態みたいね」
昇って行く様子を見送りながらの呟きは不思議な物でした。今夜が満月に近いのは(そして小なる月が満ちているのは)、その視線をちょっと横に向ければ明らかなのです。きっと視界の端には入っているでしょう。それが見えていないはずはありませんし、それどころか月が満ちているからこその儀式な訳で、道理に合いません。
「ああ。地下の月の話よ」
あ、なるほど。
「地下世界の話でしたか……って、え、実在するんですか〈末姫月〉。てっきりお伽噺の一つだとばかり」
神話の時代が終わって、英雄の時代へ移り変わろうとする頃。
完全な闇の中に暮らす者たちを憐れみ、地下に降って、死者の世界を照らす銀の太陽となった、心優しき末の月。
わたしの驚きを尻目に、石は、見えざる彼女の光に押されて、どこまでも昇って行きました。