命綱
選べ、任意が強制になる前に。
2012年11月18日。時刻は9:30。天気は曇天。気温は16度。
私はいろいろあって崖から転落しそうになっている。
仮に落ちたら命はないだろう・・
私を助けているのはたった一本の縄。
それにしがみつくことで辛うじて生きていた。
ただ私は知っている。これは惨めな時間稼ぎだ。そしてもう少しで終わる。
痙攣する腕に力を入れつつ(もう入らないが)、これからのことを考える・・
・・嫌だ、死にたくない。
まだ私にはやらなくてはならないことが沢山ある。
まだやんちゃな息子が一人、残っているのだ。
職場の仲間だって悲しむだろう。大きな仕事もようやく私に任されたのだ。
これからが人生の本番になるはずだっていうのに・・
私は天を睨んだ。白い天上が見えるだけだ。
・・妻はどうしているだろうか?
料理本を片手に愛妻弁当を作ってくれた妻。
それを眼の隅で確認しつつ、新聞を読む私。
息子から風邪をうつされ、私に風邪をうつした妻。
妻と息子から「誰かからうつされたのでは」と心配されたっけ。
何気ないエピソードが私の頭をよぎっていく。
手を離せば、彼女に会えるだろうか。
いいや、そんなのは彼女が望んではいまい。
私は彼女の分まで生きると、本人の前で誓ったはずじゃないか。
やつれた彼女の豊かな笑顔と、同時に漏れ出した涙が、
私にこれからを与えてくれた。
そう、彼女がいなければ、私は今も生きてはいないだろう。
・・だが、彼女がいなくなった後の世界は、想像以上に冷たいものだった。
やんちゃな一人息子は今年で30になる。
やんちゃにしか精を出さなかったため、無職である。
何もできないくせに、口と暴力だけは一人前。
だからやんちゃしかできないのだろうが。
職場の人間は私がいなければ、ろくに仕事もできないだろうからそれは悲しむだろう。
すべて私が彼らがやりやすいように根回ししていたのだから。
もっと言うならば、彼らのずさんな仕事を私はすべて訂正して上部に提出していた。
大きなプロジェクトも言いだしっぺが私にほぼすべてを押し付けている。
今までは、家に帰れば彼女がいてくれた。
だがこれからは夕食賃の催促が来るだけだろう。
もう嫌だった。彼女は悪くないのは分かっているが、恨めしい気持ちにさせられる。
そう考える自分が更に恨めしい。
生きるべきか、いっそあきらめてしまうべき、か。
そんな私がいろいろあった結果とはいえ、この場所で生きるかあきらめるかの選択を強いられているというのは、運命の悪戯だろう。
そして時間は来た。
腕に、肩に、腰に、なにより心に限界が来た。
もっと生きて、この状況が転じてくれることを待ってみたかった。
だが、老齢にさしかかる手前の心身で、自重を支え続けるのには無理があった。
さようならみんな。そしてこんにちは、我が妻。
私はいろいろあって救助された。だが、全身は不随になった。
病棟で安静にしている私を待っていたのは、いたるところからの罵詈雑言であった。
「あんたのせいで大きなプロジェクトもご破算になった、責任を取れ。」
「ジジイの貯金もしけたもんだな。たったの一カ月も持たなかった。」
「「さっさと働け。」」
痙攣する腕に力を入れつつ(もう入らないが)、これからのことを考える・・
・・嫌だ、死にたい。
私は天を睨んだ。白い天井が見えるだけだ。




