聖夜の共犯者、スノードームの奇跡
十二月二十五日、午後三時。
世間が一年で最も浮かれ騒ぐこの時間、私の部屋の空気は、澱んで灰色に沈んでいた。
窓の外では、粉雪が舞い始めている。ホワイトクリスマス。恋人たちにとっては最高の演出だろうけれど、部屋に一人籠城を決め込んでいる私にとっては、世界の断絶を強調する白い壁でしかなかった。
私はベッドの上で膝を抱え、スマートフォンに表示されたSNSのタイムラインを、死んだ魚のような目でスクロールしていた。流れてくるのは、煌びやかなツリー、美味しそうなケーキ、そして幸せそうに寄り添うカップルたちの写真ばかり。クラスメイトたちの投稿も、今日は一段と華やかだ。彼氏とディズニーランドに行っている子、グループでパーティーをしている子。みんな、それぞれの「正しいクリスマス」を謳歌している。
「……はぁ」
重たいため息が、狭い部屋の空気をさらに濁らせる。
高校二年生の冬。青春の真っ只中。それなのに、どうして私はこんなところで、膝を抱えて一人でいるのだろう。
視線を机の上に移す。そこには、小さなスノードームが置かれている。中の液体は濁り、プラスチックのサンタクロースは、どこか寂しげな顔で立ち尽くしている。まるで、私の心の投影みたいだ。
原因は、分かっている。 片思い。それも、脈ナシ(たぶん)の、重たいやつ。
相手は、隣のクラスの神崎拓海くん。サッカー部のエースで、背が高くて、笑うと目尻がくしゃっとなる、漫画から出てきたような爽やか男子。 私(地味で目立たない、図書委員の美月)とは、住む世界が違う。廊下ですれ違えば挨拶くらいはするけれど、それ以上の会話なんてしたことがない。
クリスマスの少し前、勇気を出して彼をデートに誘おうか、なんて無謀なことを考えた時期もあった。でも、結局何もできなかった。彼が他の可愛い女子と楽しそうに話しているのを見るたびに、私の小さな勇気は萎んでいき、最終的には「どうせ無理」という分厚い殻の中に逃げ込んだのだ。
だから今日、私は一人でいることを選んだ。無理して誰かのパーティーに混ざって、愛想笑いを浮かべながら心の虚しさを感じるよりは、この灰色の部屋で孤独に浸っている方がマシだと思ったから。
――ブブッ。
枕元に放り投げていたスマホが短く震えた。
通知画面を見ると、「彩花」の文字。同じクラスで、中学からの親友だ。彼女は私とは正反対の、明るくて行動力のあるタイプ。今日も彼氏とデートのはずじゃなかったっけ?
『美月ー! 生きてる?』
相変わらずのハイテンションなメッセージに、少しだけ口角が上がる。
『生きてるよ。瀕死だけど』
そう返信すると、すぐに既読がつき、次のメッセージが飛んできた。
『やっぱりね(笑)あのさ、今から出てこれない?』
え? と思う間もなく、続けざまにメッセージが届く。
『彼氏が急なバイト入っちゃってさー、ドタキャンされたの! 最悪でしょ? 一人じゃ寂しいから、付き合ってよ! 駅前のカフェでケーキ食べよ!』
……なるほど。彩花もクリぼっちの危機ってわけか。
普段なら面倒くさがる私だけど、同じ境遇の友人の誘いを断るほど薄情ではない。それに、このまま一人で腐っていくよりは、彩花の愚痴を聞きながらケーキを食べる方が、精神衛生上良いかもしれない。
『分かった。すぐ準備する』
私は重い腰を上げ、クローゼットを開けた。
一時間後、私は駅前の巨大なクリスマスツリーの前に立っていた。
約束の午後五時。空はすっかり暗くなり、街はイルミネーションの光で溢れ返っている。行き交う人々は皆、幸せそうな笑顔を浮かべていて、一人で立っている自分がひどく場違いに感じられた。
私は、少し気合を入れて選んだ白いダッフルコートの袖を握りしめた。中には、普段はあまり着ないワンピースを着ている。どうせ彩花と会うだけなのに、心のどこかで「クリスマスだから」という意識が働いてしまった自分が少し恥ずかしい。
「美月ー! ごめん、待った?」
人混みをかき分けて、彩花が走ってきた。赤いチェックのマフラーが、彼女の元気さを象徴しているようだ。
「ううん、今来たとこ。……彼氏、大変だね」
私が言うと、彩花は「そーなのよ! まじありえない!」と大袈裟に嘆いてみせた。でも、その表情はいつものように明るく、本当に落ち込んでいるようには見えなかった。
「ま、気を取り直して行こ! 予約してるカフェがあるんだ!」
彩花は私の腕を強引に引っ張り、歩き出した。
連れて行かれたのは、駅の喧騒から少し離れた裏通りにある、お洒落な隠れ家風のカフェだった。入り口には大きなリースが飾られ、温かい光が漏れている。
カランコロン、とドアベルが鳴り、店内に足を踏み入れる。甘いケーキの香りと、コーヒーの芳ばしい香りが、冷えた体に心地よかった。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」 「あ、はい。予約してた佐藤です」 「佐藤様ですね。奥のテーブル席へどうぞ」
店員さんに案内され、店の奥へと進む。ここは少し照明が落とされていて、落ち着いた雰囲気だった。
そして、案内されたテーブルを見た瞬間、私は息を呑んだ。
そこは四人掛けの席で、既に先客が一人、座っていたのだ。
窓の外のイルミネーションを、少し退屈そうに眺めている横顔。
短い髪、通った鼻筋、そして、見慣れた部活のウィンドブレーカーではなく、落ち着いたネイビーのPコートを着た姿。
神崎拓海くん。
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。思考が停止する。え、なんで? 彩花と二人じゃないの?
「……あ、お疲れ」
私たちの気配に気づき、拓海くんが振り返った。私と目が合うと、少し驚いたように目を見開き、それから、どこか照れくさそうに軽く手を上げた。
「……え、神崎くん?」
私が絞り出すような声で言うと、隣で彩花がニヤリと笑った。
「ごめんねー美月。実は、拓海くんも呼んでたの」
彩花の言葉に、私はパニックになった。どういうこと? 彩花の彼氏は?
「ほら、拓海くんも今日暇だって言うからさ。三人の方が楽しいでしょ?」
彩花は悪びれる様子もなく言い放ち、私を拓海くんの隣の席に座らせ、自分は向かい側に座った。
私の隣に、憧れの彼がいる。その距離、わずか数十センチ。彼の腕が、テーブルの下で私の腕に触れそうなくらい近い。彼の体温や、微かに香る柔軟剤の匂いが、私の思考回路を完全にショートさせた。
そこからの時間は、まるで夢の中にいるようだった。
彩花はいつもの調子でマシンガントークを繰り広げ、拓海くんはそれを「へえ」「すげえな」と、穏やかな笑顔で聞いている。私はといえば、緊張で喉がカラカラになり、運ばれてきたクリスマス限定のケーキの味もよく分からなかった。
でも、少しずつ冷静になってくると、彩花の不自然な行動に気づき始めた。
彼女は、やたらと私と拓海くんに話を振ってくる。「そういえば美月、図書室で面白い本見つけたんでしょ? 拓海くんも本好きだよね?」とか、「拓海くん、次の試合いつだっけ? 美月も応援行きたいって言ってたよ」とか。 私が普段、彩花にしか話していないようなことばかりだ。私は赤面し、否定も肯定もできずに曖昧に頷くしかなかった。拓海くんは、そんな私を見て、優しく微笑んでくれる。
そして、一時間ほど経った頃だろうか。彩花が突然、スマホを見た。
「あっ! やば、お母さんから電話だ。ちょっと出てくるね!」
彩花はそう言って、慌ただしく席を立った。そのまま店の外へと出て行ってしまう。
残されたのは、私と拓海くん、二人きり。
テーブルの上のキャンドルの光が、揺らめいている。周囲の客たちの話し声が遠のき、世界の中心に私たち二人だけが取り残されたような、静寂が訪れた。
「……彩花ちゃん、元気だね」
沈黙を破ったのは、拓海くんだった。彼は、少し困ったように、でも温かい声で言った。
「う、うん。いつもあんな感じで……ごめんね、急に呼び出されたりして」 私が俯きがちに謝ると、彼は首を横に振った。
「ううん、全然。俺も、特に予定なかったし。……それに」
彼は言葉を切り、視線を少し逸らした。
「……佐藤さんが来るって聞いたから、来たんだ」
え? 今、なんて?
私は弾かれたように顔を上げた。彼の耳が、少し赤くなっているのが見えた。
彩花は、十分経っても戻ってこなかった。
スマホを見ると、彼女からメッセージが届いていた。
『ごめん! なんか急用ができちゃって、先に帰るね! 二人でゆっくりしてって! お代は払っといたから!』
確信犯だ。
最初から、彼氏のドタキャンなんて嘘だったんだ。私を連れ出すための口実で、この状況を作るための、彩花の完璧なシナリオ。
怒りよりも先に、感謝と、そして巨大な緊張が押し寄せてきた。親友が作ってくれた、一生に一度かもしれないチャンス。これを逃したら、私は一生後悔する。
「……彩花、帰っちゃったみたい」
私がスマホの画面を見せると、拓海くんは「そっか」と短く言った。驚いた様子はなかった。もしかしたら、彼も薄々気づいていたのかもしれない。
「……出よっか」 彼が静かに言った。
私たちは店を出て、再び寒空の下を歩き出した。
先ほどまでの「三人の中の一人」という安心感はなくなり、「二人きりの男女」という意識が、冷たい風よりも強く肌を刺す。
「寒くない?」
隣を歩く彼が、気遣わしげに聞いてくれる。
「う、うん。大丈夫」
本当は緊張で指先まで冷え切っていたけれど、強がって見せた。
私たちは、当てもなく街を歩いた。イルミネーションが輝く大通りを避け、少し静かな公園の方へ。
会話は、ぽつりぽつりと途切れがちだった。でも、その沈黙は、カフェでのそれとは違って、不思議と心地よかった。雪を踏みしめる二人の足音だけが、静かに響いている。
公園の中央にある、大きな噴水の前で、彼が足を止めた。噴水は凍りつき、ライトアップされて幻想的な氷のオブジェになっていた。
彼は、噴水の縁に腰掛けた。そして、隣をポンポンと叩いて、私を促した。
私は、心臓が口から飛び出しそうになりながら、彼の隣に座った。
肩と肩が、触れるか触れないかの距離。彼の体温が、コート越しに伝わってくる。
彼は、しばらく黙って氷の噴水を見つめていた。白い息が、夜空に溶けていく。
私は、彼の横顔を盗み見た。まつ毛の長さ、鼻筋のライン、少し尖った喉仏。ずっと遠くから見ていたパーツが、今は手を伸ばせば届く距離にある。
「……俺さ」
彼が、静かに口を開いた。
「佐藤さんのこと、ずっと見てたんだ」
時が、止まった。
雪が降る音さえも聞こえなくなった。
「図書室で、いつも一生懸命仕事してる姿とか。教室で、彩花ちゃんと楽しそうに笑ってる顔とか。……あと、たまに廊下で目が合うと、すぐ逸らしちゃうとことか」
彼は、私の顔を見ずに、少し照れくさそうに続けた。
私の心臓は、もう限界だった。彼が言っていることが、信じられなかった。私の片思いじゃなかったの?
「俺、サッカーしか能がないし、気の利いたこととか言えないけど……」 彼は、意を決したように、ゆっくりと私の方を向いた。その瞳は、真っ直ぐに私を捉えていた。
「佐藤さんのことが、好きです。……良かったら、俺と付き合ってくれませんか」
世界から、全ての音が消えた。
残ったのは、私の耳の奥で鳴り響く、激しい鼓動の音だけ。
涙が、溢れてきた。
悲しいわけじゃない。嬉しくて、信じられなくて、胸がいっぱいで。
私は、何度も何度も頷いた。声にならなかった。
「……うん。……私も、ずっと、神崎くんのことが、好きでした」
やっと絞り出した声は、涙で震えていた。
彼は、少し驚いたように目を見開いた後、安堵したように、くしゃっと笑った。
私が見たかった、あの笑顔。
彼は、そっと手を伸ばし、私の頬を伝う涙を拭ってくれた。その指先は冷たかったけれど、触れられた場所から、熱い何かが全身に広がっていった。
「……メリークリスマス、美月ちゃん」
彼が、初めて私の名前を呼んだ。
空を見上げると、雪が強くなっていた。
でも、もう寒くなかった。
私の隣には、彼がいる。そして、ポケットの中のスマホには、この奇跡を演出してくれた、最高の親友からのメッセージが入っている。
私の灰色のスノードームは、いつの間にか、温かくてキラキラした光で満たされていた。
後日談。
あの日、彩花は店の外に出てすぐ、拓海くんに「あとは任せた!」とメッセージを送っていたらしい。そして、寒空の下、近くのコンビニで時間を潰しながら、私たちの成功を祈っていたという。
「もー、あんたたち遅すぎ! 凍え死ぬかと思ったわよ!」
翌日、学校で会った彩花は、そう言って文句を垂れたけれど、その顔は誰よりも幸せそうだった。
「ありがとう、彩花。……本当に、ありがとう」
私が心からお礼を言うと、彼女は照れ隠しのように私の背中をバンバンと叩いた。
「べ、別にあんたのためじゃないから! 私が、二人のニヤニヤした顔を見たかっただけだから!」
嘘つき。
最高の、嘘つきだ。
私は知った。青春は、一人で抱え込むものじゃない。時には誰かの手を借りて、強引にでも扉をこじ開けた先に、想像もしなかった景色が広がっていることを。
私の今年のクリスマスプレゼントは、彼氏だけじゃない。
この、お節介で、強引で、世界一優しい「共犯者」の存在そのものが、何よりの贈り物だったのだ。




