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第85話|再集結、オリーブ会議

 ――まだ、胸が高鳴っていた。


 前夜の戦いから一晩。

 仮宿の小部屋。石壁に掛けられたランプの灯が、机の上の影をゆらゆらと揺らしている。


 机に広げられていたのは、びっしりと走り書きされた観察記録のノートだった。


 オリーブは椅子に腰をかけたまま、手を止められずにいた。

 震える指先でページを繰り、ペン先を走らせる。

 だが文字は歪み、インクは滲み、読み返せば――何を書いたのか自分でもよく分からない。


 手が落ち着かない。

 心が落ち着かない。


 落ち着いたら、昨夜の光景が薄れる気がした。

 薄れたら――自分がまた“怖さ”の方へ戻ってしまう気がした。


「ちゃたろ〜さん……本当に、こんな戦い方があるなんて……」


 かすれた声が漏れる。


 あの光景が脳裏に焼きついて離れない。

 ――灼熱の炎を浴びながら立ち続ける姿。

 ――三首の猛攻を盾一枚で受け止める姿。

 ――地獄門で、誰も止まった瞬間に、ひとりだけ“手順”を切らさなかった背中。


 支援も援護も、誰の助けもなく。

 ただ、自分の力と意志だけで成立させた戦いだった。


 オリーブはノートに目を落とす。

 ノートの縁は冷たい。

 けれど中心には、まだ温が残っている気がした。


 その温が、怖い。

 怖いのに――目が離せない。


「……逃げてるだけじゃ、何も変わらない」


 自分の声が、胸を刺した。


 前回、自分は混乱に飲まれ、怯え、声を失った。

 眼鏡は外れ、記録は途中で止まり、支援の言葉すら詰まってしまった。


 けれど――ちゃたろ〜は違った。


 選び、踏み込み、そして証明した。

 勝てない相手に勝つのではなく、勝てない相手の前で“折れない形”を示した。


 その“折れない”が、いちばん眩しかった。


 眩しいのに、熱いのに、怖いのに。

 羨ましかった。


「私も、もう一度戻る。記録者じゃなくて、ただの支援役でもなくて……戦う人間として」


 言葉に出した瞬間、胸の奥が熱くなった。

 熱は勇気に似ている。

 だが勇気だけでは薄い。

 薄い勇気は、また咆哮で剥がれる。


 だから――形にする。

 手順にする。

 いつでも戻れるものにする。


 オリーブは椅子を勢いよく押しのけて立ち上がった。

 ノートと眼鏡を抱え込み、石の廊下へ踏み出す。


 冷たい石床。

 朝の光が差す食堂への道。


 足取りは迷いなく、そして軽かった。

 軽いのは強いからじゃない。

 重さを抱えたまま、歩く順番を決めたからだ。


     ◇


 食堂の扉を押し開けた瞬間、明るい声が弾けた。


「おおーっ、オリーブちゃん!? あたし先に来てたんだけど、ちょうどよかった!」


 テーブルに腰掛け、パンをかじりながら手を振るのはララだった。


 オリーブは驚く。

 昨日までの蒼白さが薄れている。

 頬に血色が戻り、瞳に火が戻っていた。


 火は、強さじゃない。

 火は“戻り方”だ。


「ちゃたろ〜さんがホントにソロで突っ込んだって聞いて、もう感動しちゃってさ! あたしも、帰ってきちゃったよ!」


 “帰ってきた”。


 その言葉が、オリーブの胸を少しだけ楽にした。


「……ヴィリス師匠の名にかけて?」

「そーそー!」


 ララがにかっと笑い、胸を張る。


「炎が効かない? だったら通る撃ち方を探す! それが火力職の魂よ! ヴィリス師匠もきっとそう言うはず!」


 弾けるような言葉。

 オリーブは思わず笑ってしまった。


 前回の敗北を背負っているはずなのに、立ち直り方はこんなにも違う。

 違うのに、同じだ。


 どちらも“戻ってきた”。


(頼もしいな)


 心の中で、そう呟く。

 呟ける時点で、オリーブも少し戻っている。


 そのとき、静かな足音が食堂へ入ってきた。

 音もなく椅子に腰を下ろす影。


 ルンナだった。


「……来たのね」

「……あら、ルンナ」


 銀の髪を結い上げた横顔は冷たいほど無表情だった。

 だが、瞳は鋭く、迷いなく前を見据えている。


 彼はただ一言だけ、ぽつりと言った。


「今度は討ち取る。……水属性は、友達だ」


 短い言葉。

 だが重い。


 重いのは決意のせいじゃない。

 初戦の闘いの痛みが、そのまま言葉の芯になっているからだ。


 ララもオリーブも、何も返さない。

 返せないのではない。

 返すと軽くなるからだ。


 その代わり、二人の胸の奥に同じものが沈む。


 ――この三人なら、もう一度立てる。


     ◇


 食堂の扉が、再び開く。


 その瞬間、空気がぴんと張り詰めた。

 張り詰めるのは恐れではない。

 “中心”が来たからだ。


「ちゃたろ〜さん……!」

「おかえり、パイセン!」


 オリーブの声が思わず漏れ、ララも立ち上がる。


 そこに現れたのは、いつもの無表情。

 けれど、決して揺らがぬ静けさを纏った“盾”だった。


 ララの声に、ほんの一瞬だけ口元が和らいだ気がした。

 だが次の瞬間には、いつもの淡々とした声で告げる。


「……全員、戻ったか」


 それだけの言葉。

 それだけで、三人の胸に温かな火が灯る。


 “戻った”という事実が、確認される。

 確認されるだけで――次の手順が始められる。


 沈黙を破ったのは、オリーブだった。


 勢いよく立ち上がり、ノートを机に置く。

 ノートが勢いでわずかにめくれ、小さく音を立てた。

 その音が、場に“現実”を刺す。


「ここで――“オリーブ会議”を開きます!」

「オリーブ会議!? なにそれ!?」


 ララが大げさに身を乗り出す。

 ルンナは無言のまま視線だけを向ける。

 その視線は、“続けろ”と告げていた。


 オリーブは頷き、震える声を押し殺しながらも、はっきりと言った。


「ちゃたろ〜さんの戦いを見て、気づきました。怯えてるだけじゃ、絶対に勝てない。だから……今度は私たちも、自分で動くべきです」


 眼鏡の奥の瞳が強く光る。

 昨日の迷いではない。

 “次の形”を作る目だった。


「――地下十八階で、訓練をしましょう!」

「訓練……って、また潜るの?」


 ララが眉を上げる。

 眉を上げるのは怖いからだ。

 怖いのに、逃げる言葉ではない。


「はい。今回はちゃんと準備して。支援も、分析も、ララさんのタイミングも、ルンナさんの武器も、全部調整します。もう一度、ケルベロスに挑むために!」


 言い切った瞬間、オリーブの喉が鳴る。

 鳴るのは緊張のせいだ。

 だが、その緊張は“逃げたい”ではなく、“失敗したくない”の緊張だった。


 ララが拳を握りしめる。


「やるしかないでしょ! 今度こそ、炎で決めてやる!」


 意地だ。

 でも、意地は悪くない。

 意地は人を戻す。


 ルンナも短く、しかし力強く頷いた。


「……水も、分析も、全部役に立てる」


 その言葉に、オリーブの胸が少しだけ軽くなる。

 “独り”じゃない。

 そう思えるだけで、咆哮の記憶が少し薄くなる。


 そして、ちゃたろ〜。


 ゆっくりと三人を見渡し、静かに告げた。


「……いいだろう」


 それだけ。

 それだけで、十分だった。


 肯定は長くいらない。

 長い肯定は、甘さになる。

 甘さは手順を溶かす。

 短い肯定は、背中になる。


「よし、まずは十八階で汗かこうぜ!」


 ララが明るく声を上げる。

 椅子が音を立て、扉が開く。


 再び挑戦の時が来る。


 敗北を背負ったままでは終われない。

 今度こそ――自分たちの力で証明するのだ。


 地下十八階へ。

 そしてその先に待つ、ケルベロス討伐へ。


 四人は再び歩き出した。

 敗北と悔しさを燃料にして、仲間への信頼を盾にして。


 食堂に残ったのは、冷えかけたパンの匂いと、器の微かな温。

 そして、“再集結”という言葉の残響だけだった。

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