第96話《封印再構築の準備》
――再び、静寂が戻った。
食器を下げ、鍋を洗い終えた頃。
監封塔には柔らかな魔灯が灯り、つい先ほどまで緊張だけで張り詰めていた空間に、ようやく“生活”の気配が戻り始めていた。
水滴が流し台を打つ音。
布で拭いた皿が、乾いた石卓に触れる音。
塔は無音に近い場所なのに、こういう小さな音だけは妙に澄んで響く。
ネルは椅子に腰を下ろしたまま、しばらく黙っていた。
先ほどまで語ったこと。
戦争。
封印。
そして、“門の先”にある脅威。
それらは、ただ説明しただけの話ではないのだろう。
彼女の中では今も、監封の規程として、責務として、重みを持ったまま脈打っている。
黒い法衣。
封印紋の刺繍。
胸元の紅玉が、呼吸に合わせて淡く脈動し、光を含んだまま静かに揺れる。
尾は床の上で、ほとんど動かない。
揺れないように、押さえ込んでいるように見えた。
無意識ではなく、意思で抑えている揺れ方だった。
ちゃたろ〜は、余計な言葉を挟まなかった。
彼女が沈黙を必要としているのが分かる。
だから、自分はやることだけをやる。
一杯の水を差し出し、自分も腰を下ろす。
向かい合ってはいるが、視線は無理に合わせない。
それは“監査”の距離ではなかった。
ただ同じ場所にいて、同じ話を受け止めている者どうしの、“同席”の距離だった。
「……明日は、出ます」
沈黙を破ったのはネルだった。
声音はいつも通り淡々としている。
だが、その奥には決断の角が立っていた。
「探索に?」
「はい。“再封印に適した魔核”は、塔の中に転がってはおりません。……実地で探すしかありません」
「どこへ?」
「まずは、“魔壊の湿地”へ」
ネルはそう答えてから、ゆるく立ち上がった。
「魔素の残留が多く検出されております。……そこに、目星が立っております」
髪を撫で上げる指先の動きが、必要以上に丁寧だった。
乱れを嫌う者の所作。
秩序で自分を保つ者の動き。
そして、いつもの癖が出る。
彼女は一瞬だけ言葉を探し、舌で上唇をなぞった。
「今宵はお休みください。明朝、出立いたしますので」
「了解」
ちゃたろ〜は短く返した。
その短さが、塔の静けさへ落ちる。
余計な励ましも確認もいらない。
それが逆に、妙な信頼を作っていた。
◇
夜が更け。
そして、朝が来た。
魔灯の残光がまだ完全には消えきらない時間に、ちゃたろ〜は監封塔の玄関前へ立っていた。
整えた装備。
簡易な食糧。
最低限の荷。
派手さはない。
だが、戦場へ出る者に必要なものだけが、過不足なく揃っている。
(準備は、守りの一部だ)
ちゃたろ〜は盾の縁を指でなぞり、目を閉じて一度だけ呼吸を整えた。
そのとき、静かな声が背後から落ちる。
「お早うございます、“協力者”殿」
振り返るまでもなく、ネルだと分かった。
音の立て方が、最初から“封印塔の人”だった。
漆黒のローブ。
深紅の瞳。
揺れる尾と、腰へ沿って垂れた髪。
そして――旅支度らしい違和感。
やけに、近い。
「なにか……ついてるか?」
「いえ。衣の端が少々傷んでおりましたので、修復魔術を」
ネルはそう言って、ちゃたろ〜のマントの端をすっと指先でなぞった。
触れるたび、淡い魔力の膜が光を放つ。
ほつれた布の繊維が、静かに“元の形”へ戻っていく。
その近さ。
無言の集中。
空気の濃度が、一段だけ上がる。
ちゃたろ〜はつい視線を外した。
見れば観察になる。
観察は相手を硬くする。
だが、距離が近いと、見ないことにも意識が要る。
「……ありがとう」
「いえ」
ネルの返答は相変わらず固い。
「貴殿は“私の責務”に必要な戦力ですので」
言い回しは固い。
固いのに、指先だけが妙に丁寧だ。
ちゃたろ〜はわずかに目を細めたが、何も言わなかった。
ここで何か言えば、彼女はまた規程の中へ戻ってしまう。
今は、それをさせたくなかった。
「では、まいりましょう」
ネルが袖を払う。
その動きに呼応して、塔の外へ召喚陣が浮かび上がった。
封印紋と同じ幾何学。
けれど用途が違う。
これは拘束でも遮断でもない。移動のための円だ。
光の輪郭が整った瞬間、銀白の羽を持つ魔獣が現れた。
「……アレンヴィル」
「ええ。飛行・転移機能を併せ持つ使役個体です」
翼が一度、大きく広がる。
空気が押し分けられ、その羽音が監封塔で聞くにはあまりにも“外の音”に思えた。
ネルが先に乗り込む。
そして振り返り、静かに手を差し伸べた。
「ご同乗ください。“密着”いただければ、振動が和らぎます」
「その表現、もうちょっと他の言い方ないのか」
ネルは小首をかしげた。
胸元の紅玉がわずかに揺れる。
「文献通りの表現ですが……?」
「文献、便利だな」
「便利です。誤差が減ります」
「……誤差、ね」
ちゃたろ〜は肩をすくめ、アレンヴィルの背へ乗る。
距離がさらに縮まる。
意図はない。
だが、意図がないからこそ、体温や呼吸の“存在”が妙に近い。
アレンヴィルが天へ舞い上がった。
監封塔がみるみる小さくなり、世界が広がっていく。
上空から見る塔は、堅牢な監査施設というより、“境界の杭”のようだった。
ここから先は違う。
そう世界へ言い渡すための杭。
風がネルの髪を揺らす。
後ろから見えるその背中には、淡い香りと体温があった。
それでも緊張が消えないのは、彼女が“監封者”であることを、その背中自体が語っているからだ。
「魔核について、もう少し詳しく聞いても?」
風に紛れぬよう、ちゃたろ〜は少しだけ声を張った。
「もちろんです」
ネルは前を向いたまま答える。
「“門の再封印”には、魔力の大きさだけでは足りません」
「他に何が?」
ネルは少し黙った。
言葉を探す仕草。
舌で上唇をなぞり、視線がほんのわずかに落ちる。
「……“格”です」
「格」
「はい。魔核がどれだけの意志を持ち、どれだけの“記録”を宿しているか」
「記録、ね」
「門を護るという役割を理解し、受け入れ、担える核でなければ……封印結界が拒絶します」
「力任せじゃダメってことか」
「ええ」
ネルの声は、風の中でも不思議とよく届いた。
「いわば、“意志ある遺志”が必要なのです」
風の音に紛れて、短い沈黙が落ちた。
“核を選ぶ”という話は、討伐の話よりも重い。
倒せば終わりではない。
その核へ、役目を背負わせることになる。
その沈黙の中で、ネルの尾がふと風にあおられ、ちゃたろ〜の足元をかすめた。
柔らかな接触。
薄い布越しでも分かる、温度のある感触。
ちゃたろ〜はわずかに視線を横へ逸らす。
(……わざとじゃないだろうな)
わざとじゃない。
たぶん。
――そこが、厄介だった。
「まもなくです。“湿地”が見えてきます」
眼下に広がっていたのは、黒く濁った沼地だった。
ところどころで魔素が吹き出し、空間そのものが歪んでいる。
空が揺れているのではない。
“距離”だけがねじれるような歪み方だった。
「ここは、かつて“人界と魔界の境界”が曖昧だった場所です」
「扉が……開きかけてた?」
「はい。封印の綻びが重なり、魔核を持つ存在が多数変異した記録があります」
「その中に、再封印に使える核があるかもしれないってわけか」
「その可能性に、かけましょう」
アレンヴィルが降下し、着地する。
ぬるり、と足元の沼が音を立てた。
黒い泥が、呼吸を持っているみたいに波打つ。
ネルが先に降り立つ。
スリットから覗く足が黒い泥を踏む。
だが、足取りは乱れない。
薄い結界膜が衣の裾と肌を守っていた。
汚れを“寄せつけない”のではなく、“区別して弾く”ような結界だ。
「結界展開。視界と呼吸を確保します」
それに応じるように、ちゃたろ〜も《プロテクトウォール》を展開した。
緑がかった魔力の膜が広がり、周囲の瘴気を押し分ける。
湿地の匂いが薄まり、肺がやっと落ち着いた。
ネルはそれを見て、小さく口元を綻ばせた。
ほんの一瞬だけ、監封者の仮面が薄くなる。
「見事な展開速度。……さすが、“支える者”ですわね」
「お褒めにあずかるとは思ってなかった」
「本音です。……あ、いえ。規程ではなく」
言い直す仕草が妙に真面目で、少しだけ可笑しい。
二人は並んで歩き出す。
足音が沼を踏みしめる。
泥の下で、何かが“逃げる”ように波を打った。
魔核の匂い。
異形の気配。
そして――視線。
湿地の奥。
木の影でも、霧でもない“黒”が、こちらを見ている気がした。
ネルがふと振り返る。
深紅の瞳に、うっすらと笑みを浮かべながら。
「……ご安心を。“先に壊れる”のは、わたくしではございませんので」
「……そう願いたいな」
ちゃたろ〜は盾をわずかに上げ、目を細めた。
守るべきものが増えたわけではない。
けれど――守る理由が、ひとつ増えた気がした。
湿地の奥。
黒い影が、確かに息をした。
探索は、もう始まっている。




