16
みぞれのような雨が車の窓ガラスに当たっては流れ落ち、いくつもの筋を作っている。外はもう薄暗い。
「輝夜、俺は天才じゃない。多分どんだけ頑張っても輝夜に追いつくことはできないと思う。だけど、輝夜のことが好きなんだ」
ハンドルを握って前を向いたままそう告げた。
「……寝てる?」
運転しながら告白したのはまずかったか。
「いや、起きている。私も実門のことは好きだ」
輝夜も俺に返事をする。外に比べて車内は暖かい。数秒遅れた返事に、きっと輝夜は眠たいのだろうなと思った。
「……そうか」
標識を見て、パーキングに入り車を駐車した。停まっている車は数台しかなかった。
琵琶湖の周りには、ぐるりと湖を一周できるように湖岸道路がある。所々にパーキングがあり、きちんと管理されていた。
おそらく間違いなく、輝夜の「好き」は俺の「好き」とは意味が違うだろう。
「俺は、輝夜のことを恋人にしたいと思っている好きなんだけど、輝夜の好きは……例えば、莉子を好き、とか、そんなのと一緒だよな?」
「莉子は好きだ。でも、実門を好きなのとは違うかもしれない」
感情が読めない。
俺は輝夜の方に身を乗り出して、彼女にキスをした。
「……口吸い」
「……なんだよ、その肝吸いみたいな言い方。ウナギじゃねーし」
笑っておでこに口づける。
「……でこ吸い」
そのまま襟足にキスをした。
「……首吸い」
続けてもう一度……
「口吸い……」
もう春なのに外はまだ寒かった。暗い湖は海のように闇に沈んでいる。街灯に照らされた遊歩道を歩く人はいなかった。
輝夜が好きだ。
俺の部屋でマンガを読んで号泣していたのが、つい昨日のことのように思い出せる。何もわからない新しい環境で、あの時はきっと心細かったと思う。けど、いつも前向きで明るく元気な輝夜が、俺にとっては光り輝く存在だった。
輝夜ならどんなことでも乗り越えていけるだろう。
俺は一生彼女をサポートしていきたいと思う。
出来ればずっと一緒に……
-------------------------
その連絡が私の元に入ったのは、石上が手術を終えた翌日だった。
「どういうこと?」
スマホを握りしめ、私は苛立ちを覚えた。画面越しの美幸の声は、どうにも要領を得ない。
「頭を強打したそうで、重症らしいわ」
なぜ! 私は強く美幸に尋ねる。
「詳しいことは、私にも分からないわ。急変したのかもしれないし……」
美幸の言葉に、私の思考回路は一瞬で冷却された。
連絡は、私と同居している美幸のスマホに入っていた。
知らせが遅すぎると私が美幸を責めると、美幸は珍しく感情を露わにした。
「いい加減になさい! 輝夜が知ったところで、どうにかできるわけがないでしょう。医者に任せるしかないのよ」
美幸の怒声に、私は反論しなかった。私の持つ力を説明できるはずもない。
それよりも、一秒でも早く石上に会わねばならない。
「今から向かう」
電車とタクシーを乗り継げば、五時間で病院に到着する。動かねば、物事は解決しない。
なぜ、もっと早く知らせてこなかった!
事態を把握してから私に連絡するまでの時間、一体何をしていたのか。
きっと問題はない。大丈夫だ。
私は不死の薬を持っている。これさえあれば、石上は復活できる。
命さえあれば、どんな病も、どんな傷も治せる。それは実門の件で実証済みだ。
私が、彼の命を繋ぐ。
スマートフォンで事故の状況を確認した。
事故は昨日発生した。駅のホームで、電車に飛び込もうとした愚かな男を庇って、石上がホームから転落した。
駅にいた人が非常停止ボタンを押したため、電車は手前で止まったという。
だが線路に飛び込もうとした男性が、強く石上を振り払った。彼はホームから百一十センチ下の線路に背中から落下した。
石上の友人だと名乗り、親族から容態を聞き出した。
「頭部強打による脳挫傷、外傷性くも膜下出血が認められ、硬膜形成術、骨片除去を施した。一命は取り留めたが、未だ予断を許さない状況」
私は急いで不死の薬と、念のための天の羽衣を鞄に放り込み、スマホと財布だけを持って家を出た。
最後に会ったのは二か月前。その間、LINEでのやり取りはあった。
石上は、絶対に高所には登らないと固く誓っていた。
仕事でも、危険を伴う高所作業があるなら辞めるとまで言っていた。前世の記憶に縛られ、彼は死を恐れていた。
あれほど注意していた人間が、なぜこんな事故に巻き込まれる。
なぜ、あの時、不死の薬を無理にでも渡しておかなかった。
今、何とも言えない苛立ちと、自分への憤りが込み上げる。
彼は「自分が前世の運命をたどっている」と言っていた。
私はそれを軽々しく否定した。
もっと真剣に、彼の不安と向き合うべきだった。私の傲慢さが、この結果を招いたのかもしれない。
私は、彼の親族からの連絡を待つ間、何度もスマートフォンを確認した。
手が震える。この無様な震えを、私は憎んだ。私が、この私が、冷静でいなければ。
虫の息だろうと構わない。心臓マッサージが続けられている状態でも、問題ない。
私が到着するまで、なんとしても生きていろ。
電車の中で、私はただ祈るという、最も愚かで無力な行為を強いられた。この無様な焦燥感が、私にとって何よりも屈辱的だった。
やっと病院にたどり着いた時、私の努力は無意味に終わっていた。
石上は数時間前に、この世を去っていたという。
間に合わなかった。
私の完璧な計画が、この世の凡庸な「死」によって打ち砕かれた。
実門が駆け付けてきた。
美幸からの連絡を受けたのだろう。
実門は黙ったまま、私の肩にそっと手を置いた。
「……輝夜」
低く落ち着いた声が、静かな病室に響いた。
「俺も悔しい。どうしてこんなことになったのか、考えても答えは出ない。けど……お前が一人で背負う必要はないんだ」
私は唇を噛みしめていた。
口の中に血の味がした。
「泣けよ、輝夜。俺がここにいる。涙を流しても、俺が全部受け止める」
いつの間にか涙が滝のように流れていた。 実門は何も言わず、ただ背中を撫で続ける。 言葉よりも、その沈黙が私を支えていた。
石上には父、母、兄弟がいた。
彼らにとって石上は家族だが、私はただの他人だ。
私が彼のために用意した全ての準備は、間に合わず、何の助けにもならなかった。
石上は、幸せだったのだろうか。
彼は、結局、その運命から逃れられなかったのか。
志半ばで死んだ者は、記憶を持ったまま転生する。
それが石上の説だった。
彼はこの世に未練を残しただろうか。
人の命は、なんと脆弱で、そして、私の力も、かくも無力だったのか。
このどうしようもない、全てを支配しきれなかった悔しさだけが、私の中に残った。




