その2 孤独の老人
今日もまた、街中をぶらりぶらりと、お日様を見上げながら出歩いている。日差しに照らされたまばらな人影。私からは遠く離れた位置にいるようで、ぼんやりと、ただ、そう感じたんだ。そう感じて、目で追った。
手を後ろに組んでさ、スキップしてみよう。上下に跳ねる視界は面白いかな。一人、シーソーごっこをしてるみたいに。ぴょんぴょんと蹴って、背伸びして外を眺めると、少し大人になれたような、成長した気分が味わえる。そんな発見を、また一つ、今日は見つけた。
気分に押されて、私は子どもたちの後を追っていた。走り回る胸元の頭は、右に左にと道脇に寄りながら、どこかへと進んでいる。その黒い丸を指差して数えていたら、私は公園に着いていたのだ。大きめの公園だ。かくれんぼが出来るくらいには、広い。案外賑やかなもので、子育てする女性なんかも、ちらちらと見かける。子どもはもう、言うまでもないけど、はしゃいで遊具にたむろっている。追いかけっこするのもいる。泣いてるのもいる。それは、赤ちゃんだったけれど。
木陰のベンチで世間話する主婦たち。みんな、口の前に手をかざして喋る。本音を隠してしまいたいのか。分からない。けれど、そんな付き合いも、悪くない。たまに群がって、何となくお喋りもしたいものだ。
ただ、そんな公園で一人だけ、一人でいる人がいた。おじいさんだった。自販機近くのベンチに座って、私のように、みんなの様子を眺める視線。顔は、多分、穏やか。しわくちゃな肌と、どこか哀愁のありそうな丸まった背中が個性的な人だった。
自販機に小銭を入れて、飲み物を買う。ついでにもう一つ買う。ガタンと落ちてくる音。ちょっと泡立った二つを左右にそれぞれ持って、それから、おじいさんに声をかけた。
「どうぞ。むぎ茶」
おじいさんは少しぼーっとして、私を見た。私は笑顔を返してあげた。特に意味はなかったけれど、そんな風にすべきかなと、何となく思ったから。
「ああ…ありがとう」
ちょっと驚きながら、おじいさんは手を伸ばす。しわしわの手。弱々しくて、心配になるような、老いが浮き出た体で。大丈夫? おじいさん、元気かな?
私は隣に腰かけて、キャップをぐるりとひねって開けた。まあるい口をぐいっとあおって、喉を冷たく潤す。カフェインゼロのスッキリとした口通り。横目でおじいさんを見ると、手に持ったまま、また遠くを眺めていた。
「開けようか? おじいさん」
「いや、大丈夫」
そうに言って、ずっと、眺めてる。まぶしいものを見るような瞳で。瞳はまだ、輝いてる。
「おじいさん、何を見てるの?」
キャップを閉めて、私は言う。日差しはちょっと暑いくらい。ペットボトルを首にあてて、熱を冷まそうかと考えた。
「いいや、ただぼーっとしているだけさ」
おじいさんはそんな風に答えて、また、黙りこんでしまう。私はほっぺたをぷくーとして、脇腹を人差し指で突っついてやろうかと思った。けれど、おじいさんは弱そうに見えて、そんなことするのも心配になってやめた。
年寄りは突っつきには弱いのだ。それに、射されてばかりで可哀想じゃないか。お薬だって飲んで、疲れてるんだからそっとしよう。
そっとしよう。そっと。でも、何もしないんじゃ、つまんないよね。
「おじいさん、最近どう?」
ふんわりとした質問をしてみる。ぼちぼち。まあまあ。そんな答えが返ってきて終わりかなと、想像した。おじいさんは「変わらずだね」と当たり障りのない返答をしたので、予想を外れるようなことはなかった。けれど、きちんと受け答えはするんだなと感心して、もっとグイグイいっちゃえと、私の何かに火が着いてしまった。
「おじいさん、逃げるまでは、帰さないよ」
私は宣告した。おじいさんは、さすがに困惑した顔で、目をまあるくしていた。意味が分からない、といった様子で。大丈夫。そんのものないよ。私は笑って誤魔化した。
「おじいさん、悩みはないの?」
横目で訊く。おじいさんは目を瞑っていた。静かに。何か話すまでは、じっと待とうかと思ったけれど、
「ありゃせん。わこう者ほど、思い詰めることもなけりゃぁな」
何だか手玉にとられてるような気になって、癪だった。悩みのない人間なんていないでしょ。なめられてるね、私。もしくは、避けられてる?
「嘘だね。おじいさん、良くないよ」
目を見て、ニヤリと笑ってやる。見透かしたような不気味さを醸し出して、おじいさんの本音を暴いてやろう。
「ほんとのことを言ってみなさいな。相談に乗ってあげるからさ」
「人様に聞かせるような憂いはないわな」
「そ。あなたも偏屈な人ね。私も無理には訊かないわ。ただ、打ち明けた方が楽になるのになって、そう思っただけ。不躾だったわよ。ごめんね」
キャップをまた開けて、もう一口あおる。あおったら、またキャップを添えて、口を閉じる。
風が来た。葉っぱがカサカサと擦れて、揉まれている。広葉樹の葉っぱだ。平べったい形で、口笛に使うやつ。私は吹けないけど、吹けたら楽しいだろな。まぬけな音で、そう、滑稽に思えるかもしれない。
まぬけな音を想像したら、不意に笑いが込み上げてきた。ワハハともらしちゃいそうな高揚。ちょっとだけ、声に出ちゃったかもしれない。おじいさんが私の異変に気付いたようだったから。違うよ。おじいさんがおかしかったわけじゃないからね。
「じゃあね、おじいさん。あんまり思い悩んじゃ駄目だよ」
私はベンチから腰を浮かせて、背中を向けた。そうして公園を去って、その日はなんとなく終わったと思う。
こんな日も、あるよね。むしろ、そういう日が大半で、私も何となく過ごしてきたんだろう。肩の荷を下ろしてさ、一緒の時間に溶けていって。充実した日々だったけど、満足感からはほど遠かった。それでも、幸せだったんだ。
私は今日見つけたスキップで、退屈な道を優美に飾った。
2
「あれ、おじいさん、またいるの?」
翌日も、おじいさんは公園のベンチに座っていた。昨日と同じ場所である。常連さんなのかもしれない、と考えた。
「好きだねぇ。老後の楽しみってやつかな?」
おじいさんは鳩にエサをあげているようだった。小さいビニールの袋に刻んだ食パンを入れて、それを手に持っていたから。目の前にもいくつかばらまかれた切れ端がある。ただ、鳩の姿はなかった。
「…」
おじいさんの沈黙は深くて、ゆったりとした老後の生活を思わせた。時間に囚われない生き方。そんなおじいさんだけれど、私は悲しそうに思った。おじいさんが、どこか不安そうに見えた。私の直感というのはだいたい当たるのだ。なぜなら、無意識にいる私は、カウンセラー顔負けなくらい優秀だから。そう、勝手にそんな風にうったてる。うん。
私がベンチに座ると、おじいさんは袋を縛って立ち上がった。また距離を作られるのかな。そう思って、私は背中を眺めて、何をするのか観察した。
おじいさんは数歩歩くと止まり、自販機にお金を入れ始めた。ポーチから小銭をガシャリガシャリと詰めていく。そうして、何かのボタンを押しと、タイムラグの後、ガシャンと商品が落ちてくる。あの不器用ながさつさだけは、どうにもならないんだろうか。良くないと、思うんだけどね。
おじいさんは下に落とされた商品を拾わずに、またお金をガシャリガシャリと入れて、ボタンを押した。勘違いじゃなければ、同じ場所かな。二つも同じのを買って、欲張りさんだと思った。
屈んでから振り返ったおじいさんは、そのままベンチに戻ってきて、片手を前に出したまま、私の前で止まった。両手にそれぞれ、緑茶のペットボトルを握りしめていた。
「ほれ」ぶっきらぼうに言う。
「くれるの?」
「ああ。昨日の、お返しだ」
私は受け取ると、さっそくキャップを開けた。くるりと、慣れた手つきで。それからおじいさんは、ゆったりと隣に腰を下ろした。
「私、避けられてると、思ったけどなぁ」
緑茶の渋みが、何とも言えない深みを出していて、美味しい。市販のお茶でもさ、私には十分美味しいんだ。違いが分からない子だから。私は。
おじいさんは例によって遠くを眺め、隣の私に聞こえるように、声を発した。
「昨日、あれから考えてみた。わしはどうしてこう、憂鬱な気分なのか。沈んだ気持ちになっては、毎日のように足しげくここに通うのか」
「答えは、見つかった?」
「そうさね…おそらくは、考えてる通りかもしれない。だが、まあ、仕方のないことだ」
「そう」
隣でふたを開ける動きが見える。開け終えるのを待ってから、私は何かと尋ねた。
「悩みって、何だったの」
「うん。老人の、些細な問題さね。そう…わしは、寂しいだけなんだろう」
「寂しい?」
「孤独感、というやつだそうだな。今はそんな言葉が出回っているらしい。老後の独り身問題なんて取り上げられて、中々に、多いと。わしだけじゃないなら、どこか安心出来るかも、分からん」
おじいさんはまた、遠くを見ている。交ざりたいのかもしれないと、私は少し、おじいさんの眼差しを理解した気になった。
「おじいさん、ひとり?」
「ああ、独りだ。そうじゃなきゃ、今頃老人たちと、団らんをしているだろうて。いや、うん。今からでも、探すべきかもしれんな」
「友達、いないの?」
「おらん。…皆もう、逝ってしまった。仏壇など、もう見とうないわな。辛いだけじゃ」
おじいさんは、そっと静かに、「辛いだけじゃ」ともらして、私にはまだ、届かないものだと察した。どんな関係だったのだろう。親しかったのなら、その分、今が辛くて仕方ないのだろうけれど、風化しないものなのか。そういった悲しみは、ずっと、覚えているものなのかな。
「独り身は、辛い?」
「辛いぞ。心の持ちようなんて、言われればお仕舞いだろう。しかれどな、そう、うまく腹をくくれるものじゃありゃせんかった」
「うん。私には、あんまり、実感湧かない」
「だろうな。良いことさ。平和になった世の中、死別などそう頻りに起きるべくもない。知らない方が、いいのだ」
そうして、子どもが遊ぶのを、見守る。キャッキャと悲鳴に紙一重の歓喜を聞いて、心なしか、和やかな顔を浮かべる。
「早朝目覚めては、お天道様が上がるまで家でじっとしてな、頃合いを見て出掛け、人混みに紛れる。そうやって孤独を紛らわせど、夕日になる頃にゃ渋々帰って寝る準備。明日もまた、同じように生きにゃならんと。辛いのは、眠る時だ。寝つけん。苦しゅうてな。苛まれては、とても、考えずにはいられんくなる」
「大変、なんだね。心の病気かぁ。それは、うん。私には、どうしようも出来ないかもしれない」
「そう易々となくせるものなら、こんなにも残りはしないだろう。わしも、その一人に過ぎないのだから、根深いものだ」
おじいさんは一口お茶を飲んだ。普段急須で飲む時と、表情はきっと一緒なんだろうな。でも、一人で飲む時より幸せだったらいいなと、私は願う。
「羨ましい? それとも、懐かしい、とか? おじいさんは、この景色をどう感じるの?」
「そうさな。喜ばしいと、そう、思う。しかしな、ふと風穴が空いたみたいに、スッと冷えてしまうこともある。きっと憧れなのだろう。わしには、届かなかった日々だと。手を伸ばそうとすると、距離が分かってしまって。ああ、思い出すと、嫌だなぁ」
「おじいさん。おじいさんはさ、家族が懐かしいのかな」
「ああ。懐かしい。だがそれよりもな、身寄りのない今の境遇が、ずっと、芯に堪える。わしは誰にも知れず、独り亡くなると思うと、神仏の救いがあっても、まるで現世の生き地獄にいるようで。一人極楽まで連れていかれるのを待つよりは、この世で皆と、共に早死にしたかったと、思うことがある。ただ生きるというのも、辛いものさ。やはり、寂しさには克てん」
「つながりが、欲しい?」
「欲しいな。誰かに見られでもしないと、この世から透過されたような気が起きてしまう。幽霊なのかと問い正したくなる。そんなはずはないのだが、誰にも見向きされないと不安なのだ。そう、思うものなのだ。次第と」
震えた手で、二口目をあおる。普段、こんなに喋ることもないのだろう。今日の会話が、刺激になればいいんだけどな。社会との関わりを感じて、疎外感を拭うことが出来れば。
「お嬢さん。今日はありがとうな。おかげでいつもより、気が紛れた。お嬢さんの言う通り、見ているより、やはり話した方が楽になるものだ。分かり合える気がしてな。互いにさらけ出せれば、悩みも消せるように思う」
「そう。なら良かったよ。おじいさん、私よりも長生きしてよね」
おじいさんは笑って、三口目を含んだ。
3
「お嬢さん、もう少し、付き合ってはくれんか」
おじいさんはキャップを閉めて、人だかりの方に顔を向ける。声のする方、はしゃぐ姿は、噴水が似つかわしいくらいの華やかさだった。
「お嬢さんは、人の死について、意識したり、考えたことはあるかな」
「あるよ。…うん、自分のことなら、ある」
訊いてきたおじいさんは、「そうか」と呟いてから視線を落とし、足元をゆらゆらと見つめた。どこか思い悩んだような面持ちだった。あるいは、昔を振り替えっているのか。
「なに、老人の昔話だ。今となっては、語る者もそう居らんからな」
しわついた顔がいっそうしおらしく見える。影が濃く思えるのは、太陽の高さのせいか。
「戦争の話?」
「ああ。戦争の話だ。とは言っても、わしは戦ってはおらん。幾分か幼くて、疎開世代などと呼ばれた年頃だ。その上から皆若くして出兵しおってからに、わしの周りにもそういったのが沢山おった。生きて戻らんかった者ばかりだ」
言いながら、頭の中では次々と記憶が掘り起こされているのだろう。話しながら思い出すものもある。思い出したくて話すこともある。でも、おじいさんは消してしまいたいんじゃなかったっか。私には矛盾みたく思えて、心境が掴めなかった。
「戦後、この国を支えたのはわしらの世代だろう。戦わなかった代わりに、わしらは貧しい世を引っ張っていったのだ。それが役目だと思ってな。命を賭さぬ分、生き長らえたからだ」
おじいさんは長くため息をついた。大きく、そして深く。ゆったりとした話の切れ間に、これまた静かな間を作り出して。
「死んだ者もおった。わしの大切な者たちもおったよ。それでも、戦中の犠牲の数に比べれば、微々たるものだった」
「戦争が終わったからかな。やっぱり、早くに終わるべきだったんじゃないのって思う」
「わしも、そう思う。だがな…そういかんものだ。追い詰められると、人間意地になるものよ。何とか取り返そうとして、そうして深みにはまっていく。それにな、敗戦の恐怖というものを、若い者は知らんだろう」
「時代が時代、でもあったかもね。戦争なんて、そんなものでしょ? 不安が膨れれば、いつか弾けるものよ」
だから、ね。おじいさんは、弾けないでよ。頭がパーンなんて、そんなの見たくないから。
グビッと飲んで、意識を紛らわせる。この味は永久不滅。そうならいいな。今までずっと、親しまれてきたんだから。ある日ポンと消えちゃったりしたら、私は失踪者名簿を探さなくちゃいけなくなる。それは非常に面倒でしょ。
負けないでよ。誰に? うーん。時代、かな?
「ヒロシマで沢山死んだ。誰彼構わず、皆一瞬のうちに連れていかれた。それからソ連が来て、お陰でわしらは助かったのだ。終わった。空襲は。人さらいの赤紙は。けれども、暫く人は死に続けた」
おじいさんもキャップを開け、ゴクッと喉を潤す。固有の渋みを味わってるところだろう。良かったね。生きてて。
「皮肉なものだ。原爆のおかげで、救われたなど。わしは長年、そのことが引っ掛かって離れん。あの無慈悲な死で、わしは生かされたなどと思いたくはない」
「私はよく知らないけど、でもさ、今も昔も、そうだったと思うよ。この国だって、渡来人の手を借りて育ったんだからさ、犠牲が新たな平和を生むなら、いいことよ。ちょっとずつ、前に進んでるわけだし」
「お嬢さん」
「なぁに?」
「わしらの父母が、兄たちが、死んだ意味は残っていると思うかね? 戦後も終わった。早々に、対抗していた者同士は互いに与して、新たな同盟も築き上げた。大戦が始まる前も、そうであった」
「えーと、つまり、どうゆーこと?」
「…一時期の熱に浮かされて、犠牲になったのではないかということだ。敵も味方も、すぐに代わる。あれほど憎んでいたものが、恐ろしかったアメリカが、今ではこの国の支えとなっている。だったら、なぜ、突き進んでしまったのかと、考えてはしまわんか。無意味だったのではと思わんか」
「うーん。子どもの喧嘩ってこと? 仲直りするくせに、むきになって攻撃するところとか」
「そうだな。人々は嫌でも巻き込まれるが、まあ、そういったいざこざなのだろう」
「でもさ、喧嘩するほど仲がいいって言うよ。ちょっとずつ距離感を掴んでいってさ、思い出も一緒に作って、そんなことがあったから、特別になれたねって。友達とは、そういうもの」
隣で聞いていたおじいさんは、静かに笑った。笑ってから、子どもの方を向いた。喧嘩はしてない。みんな楽しそうだった。
「何だかなぁ。お嬢さんは、明るい。普通、戦争の話なんて、暗くて若いもんは聞きたがりゃせんのにな。言っても、同情や聞き心地のいい正義感を並べて、感情を伝えるのが関の山だ。なのにお嬢さんは、どうも滅入らない。むしろ楽しむように、喩え話を持ってくる」
「えー、駄目かな?」
「いいや。ただ、不思議だ。お嬢さんは今を見ていない。ずっと未来を見透かしているような雰囲気があってな」
「気のせいだよ。それに買いかぶってる。私は今しか見てないよ。過去も振り返らない。未来だって気にしない。今を精一杯生きるには、それくらいしなくちゃね」
「そういうものだろうか」
「私は若いから、悩むより進みたいのです。今日もスキップして、距離を稼いできました」
「…本当に、不思議な子だ」
今はもう、そうなのかと、呟く。そうと言うのが、何を指すのかいまいち分からなかった。私は後ろ指指されるような生き方はしてこなかったはずなのにな。なんちゃって。
「なあ、お嬢さん。また来ると思うかね」
「来るって、何が?」
「戦争」
飾り気のない、乾パンみたいな言葉。私には発泡スチロールくらいの重さしか持たない言葉だ。だから気軽に口を挟める。パンの間にも挟んでは、平気でかぶりつける自信がある。
「いつかは、来るよ。そういうものだから。でもね、おじいさんが生きてるころには、もう来ないんじゃないかな」
「そう、だろうな。まったく、長生きした方がいいのやら、分からんくなる」
「した方がいいよ。きっと」
「そうだな。…わしも、まだやれることがあるかもしれんしな。そう嘆いてばかりおれんということか」
青空が少し薄まり、気持ち黄色っぽくなる。その変化は、信号機が切り替わるほど大胆なものではなかった。そもそも、本当に黄色くなっているかも怪しかった。まだ夕方まで時間がある。早とちりの可能性だってあるのだ。
「あ、見て見て」
奥から右上の方に飛んでいく旅客機。飛行機雲は弱っちく、機体の推進力に置いてかれた上に、なびいて弧を描くように沈んでいく。ゆっくりと、空中で溶けていって。
「また来るよ。戦争も、平和も。よかったじゃない。平和な時代に生きられてさ」
それでも、おじいさんはまだ、どこか思い詰めた顔をしていた。いや、飛行機を見て、思ったのかもしれない。空襲なんて、過去だよ。過去。いつまでも引きずってられないでしょ。
「お嬢さんは、それでいいのかね。次にまた起こるとしたら、その時はきっと、お嬢さんがたの世代が犠牲になる」
「仕方ないね。誰かが悪いわけじゃ、ないから」
「だが、生きれないかもしれん」
「うん。でもね、神様以外はいつか死ぬんだ。あがいても無駄なら、私は地に足つけて、生きてくだけだよ」
飛行機雲をペットボトルに入れて、煙を掬う。こうして、消えた道筋は私の中に収まっていったのだった。
「私は空飛んだことがないからね。逃げ方なんて知らないんだよ」
4
話疲れたおじいさんは、元気がなく、ぐったりしているようだった。大丈夫だろうか。熱中症は怖いんだよ。後遺症だって残る。
「私、もう帰るね。ありがとう、おじいさん」
おじいさんは「ああ」と返事して、また遠目で人を眺めていた。
「喉、渇く前に飲まなきゃ駄目だからね。それと塩分もとってね」
「ああ」
「寂しい?」
「ああ」
「そう、仕方ないね」
孤独死が年間どのくらいいるのか知らない。でも、数が問題じゃあ、ないよね。人の生き方に社会がついてこれないというだけで、私たち個人で解決を図るようなものじゃないと思う。
「おじいさんさ、動物好き?」
「動物? 好きさ。動物の方は分かりゃせんが」
「ああ。鳩ぽっぽ来なかったしね」
未だ握りしめたパンの袋は、鳥にあげるよりかは、貧しい人へと届いてほしいものだ。それは、おじいさんだけの力では、厳しいものがある。今の平和は、まだ本当の平和からは遠いところにあるんだと、一人納得したように首を振って、次の戦争を終えるころには、叶っててほしいと願うのだった。
「おじいさんさ、動物飼ってみない? いやね、まだまだ平和は遠いのよ。これからは、殺処分を守る戦いに出てみればさ、孤独も癒えるし、命も救えるし、おじいさんも幸せになれるかなって」
「動物を助けるのか」
「そう。話してみてよかったでしょう。私みたいな天才、そうお目にかかれるものじゃないよ」
おじいさんは笑った。入れ歯がとれるんじゃないかっていうほどに。してるのかは分からないけど、とにかく、元気に笑ってくれた。
「いやはや、やはり長生きはしてみるものだ」
私は手を振って、公園から立ち去った。そして、コンクリの間に生えた道路を、仰ぎ見ながら進んだ。
今日が晴れで良かったと。誰かのはしゃぐ声を聞きながら思った。そうして、胸元高さの黒丸たちが、私を追い越していった。
私はその誰とも知らない子どもたちを追いかけて、まだまだ自分が消えてかないものだと言い張った。




