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透明少年  作者: 泉海
1/2

その1 思春期の学生

「っていうのが、君の言いたいこと?」

 目の前の少年は少しうつむいて、物静かに「そう」と返事をする。その可愛げのない態度が、私にはかえっていとおしく思えた。そんなこと、伝えたらきっと、君は怒るだろうね。でもね、若さというのは、そんな儚さがあって、大人たちの目からは遠く懐かしいもののように映るから。私の目にも、君の思いはどこか昔を眺めるようなものがあって、何だか心が温かくなった。

 少年は視線の逃げ場を探して左右をゆらゆらと見つめていたけれど、何を諦めたのか、下を向いてじっとした。漬物石みたいに、じっと固まっている。そうしてまた、閉じ籠る気だろうか。目を瞑って、独りの世界へ行こうとしてるように感じた。

「駄目だよ」私は言う。

「…どうして?」と、少年はすぐに反応する。こういう否定の言葉には、彼は敏い反応を示すのだ。

「だって、また逃げる気でしょ」

 私は立ち膝でグッと前に詰め寄って、正面から顔を向かわせた。対する彼はというと、顔を横に逸らせて、私との距離を開こうとする。嫌がる素振りも無邪気なもので、駄々をこねる子どもの姿が脳裏の片隅にちらついて、何だか可笑しかった。

「…逃げないよ。元々、僕はそっちに居たわけじゃないし、望んで暮らしてたわけでもない」

 横顔はそうに語る。

「そう?」

 私は静かに座り直して、テーブルにのったアイスティーに口をつけた。ストローを伝って登る液体は、アトラクションを楽しむかのようなはしゃぎ具合で、夏の爽やかさを味わわせる香りが、鼻の奥からすっと吹き抜けていく。

 そんな間にも、目の前には押し黙る少年が、息を潜めてこちらを窺っている。うつむく瞳の向こうに、ストローを噛る私の姿があって。二、三秒その姿を覗いては、独りでにニヤリといじわるな笑顔を作ってみる。当然、その子もつられて笑い始める。

「でもさ、君は、一人なことに不満があるんでしょう? みんな仲良くやっているのに、自分だけ除け者だって。ずるい。不平等なんて」

「それは……僕にとって、みんなと仲良くなるのはそんなに嬉しいことじゃないから。だから、そんなことで幸せになれるみんなの気持ちが、不公平なんだよ」

「輪に入ろうとは思わない?」

「思わない」

 少年は即答する。それを聞いて、私は納得したように一人感嘆の声をあげて、背もたれにどっと体重を預けた。しばらく前のめりでいたためか、ちょっと疲れたらしい。大きく息を吐いて、伸びをするのが気持ちよかった。

「なぁんだ。やっぱり、君は幸せじゃないか」

 何息か吐いて、またストローを咥えるような前傾姿勢になり、頬杖に支えを頼る。「飲みなよ」と彼に促すが、少年は微動だにしない。

「それで? 結局のところ、君という人間はさ、幸せに手の届くみんなが羨ましいのかな? 自分の出来ないことに対して、満足出来てしまうみんなが。君は天邪鬼だからねぇ。仲間になれば、きっと一緒に楽しめると思うんだけどさ」

「いらない」

「どうして?」

「…埋もれたくない。それに、みんな僕を見てくれない」

「見てるよ」

「本当の僕じゃない!」

 少年はいきなり怒鳴って、それから周りを軽く見回すと、しょげて大人しくなった。鬱憤でも溜まっていたのか、または彼の逆鱗だったのかは分からない。でも、そう縮こまって、赤らんで恥ずかしがっている今の君は、子どもらしくって、睦まじい。私は好きだよ。君のそういうところ。じれったく思うかもしれないけど、でも、それでもいいじゃないか。

「…本当の僕じゃない。薄っぺらい表面を見ただけで、知った気にならないでほしい。僕はここに居る。みんなの中に居るのは…勝手に作った、幻影だ」

「ふぅん。…じゃあさ、君らしさって何かな? 教えてよ。私にさ、君のこと」

 私は投げ掛ける。彼は目を逸らす。この繰り返しも、何度目かのこと。さて、果たして君は、答えを見つけられるかな。

 少年、人生はまだまだ長いのだよ。今から自分を決めてかかっては、生きるのがつまらなくはないかい? 不自由な思いをするだけだということを、君は気付けていなくて、そんな必要もまた、どこにもないということが分からずにいる。一緒にされたくない、という君の本音は、ありもしない君の本物を、無理に生み出そうとしているだけなのさ。

 私は思い悩む様子を見守って、君がギブアップを宣告するまでは、粘って沈黙し続けようと決めた。その時間潰しに、右手の二本指に命を生やして、てくてくとテーブルの縁を歩いて回ることにする。さすがに長方形全体には腕が届かないから、私の回りの、こちら半分の面積におさえることにして。にょきにょきと交代しながら前へ出る指は、さして意味などなく、ただ、神様に命じられて動いている。

 てくてく。てくてく。指の足が四角い軌道を周回していく。途中、少年の瞳が私の指を追いかけ始めて、その時から、考えるのを放棄したのが分かった。私は「楽しい?」と訊こうとした。けれども、あまりにいじわるなお姉さんだと思って、そう思われるのも気が重くなって、顔を窺って尋ねないことに決めた。

 まばたきを一回。心で笑う。

「あれ? 降伏かい? じゃあ、私の勝ちだね」

 二本指は立ち止まって、相手に勝利を宣言する。逆立ちした、歪なピースサイン。勝ち誇ったかのように、私は口の端を持ち上げて「やったぞー。倒したぞー」と心で再生してみた。少年はまた顔を逸らせるので、逃げないよう、話を繋げる。

「うー? 恥ずかしいの?」

おちょくってみるけれど、彼は「そんなことないよ」と短く答えるだけで、ちょっとがっかりする。まったく、可愛げのない子。つまらない。世の中、楽しんだ者勝ちだというのに。

 …世の中、楽しんだ者勝ちなのに。もしそうならと、願う私の、勝手な期待でしかないことははっきりと分かっている。わがままな都合を押し付けるばかりで、私には、確かなことは何一つ答えられない。答えるには、きっと短すぎたんだと思う。

 ふと窓の外を見る。鮮やかな空と、緑葉と、コンクリに人だかり。今日も世界は賑やかだ。街を動かす活気に押されて、私もそこに加わりたくなる。飛び出して、歩く人それぞれに訊いて回るんだ。今日のご予定は? どんな一日でしたかと。夕暮れ時には、きっと答えを持ってるだろう。布団にくるんで、明日まで大事にとっておくかもしれない。

「少年、人が見えるよ」

「ん? ああ、いるね。いつものことだよ」

「退屈?」

「何も。意識するようなことでもないし、したからって特別何かあるわけでもないしね」

 まあ、そうだね。そうだねと心で返事したけれど、でも、本当は私、そうは思わない。おもしろい。おもしろくは、ないのかな。君には、退屈な日常か。流れていく一日に過ぎなくて、面白味はないのかもしれない。

 でも、それはやっぱり、幸せなことだよ。私はそうに思う。君のつまらないという気持ちは、きっと不自由のない証拠。いつか分かる日が来るよ。もしかしたら、その頃には今この瞬間を羨んでいるかもしれない。そうなら、いいな。私のこと、覚えていてほしい。

 未来ある少年、君は何をいじけてる。そんな足踏みは、老後までとっておきなさいな。


    2


「それで、わだかまりは消えたかな?」

 グラスの氷が半ばとけて、ぐだっている。シャキッとしろ、なんていかないのが、自然さんの融通のきかないところ。コミュニケーションがとれないのは、それだけで残念な気分になってしまう。

 彼はというと、意地になっているらしく、未だグラスに手をつけていない。または、タイミングを逃した、なんて感じているのかも。そんなこと、気にしなくていいのにね。薄まったジュースはきっと、美味しくないだろうな。

「まだ、あるよ。不満だらけだ。僕に限った問題じゃないんだ。世界が不公平なのは」

 カランと響く氷。鮮やかな液状世界になくなっていき、それから映らなくなる。透明になった彼を、誰も認識することは出来ないだろう。彼の存在は、消えたも同然。

 悲しいね。ただ、それぐらいしか、思うところがなかった。そんなもの。そんな言葉で片付けられる些細なこと。なら、人間だったら、どうだろうか。私たちが、そんな些細なことと片付けられてしまう現実。

「僕ら、ゴミみたいだ。機械みたいに働いて、定年まで働いて、それでやっと、自由を掴むんだ。生きられる保証もないのに、黙って従ったまま、ただ未来を待ってる」

 ストローをくわえた私は、少し薄まった紅茶の香りを感じて、それから、若干の渋みを味わった。労働という不自由について、義務なんだから仕方ない、という口裏合わせはどうやら使えそうにないけれど、でも、現実なんてそんなものだと言ってしまうには、片付けられない悩みだろう。

「君は、仕事は嫌かな?」私はそこから訊いてみることにした。

「嫌だよ。仕事が好きだって人が世の中にいるのは知ってるし、やりがいだって大事なんだろうけど、でも、みんながみんな、そうじゃないし、誰だってなりたい仕事に就けるわけじゃない。そのくせ、大人は訊いてくるんだ。大きくなったら何になりたいかって。本心じゃなれるかどうか分かってるのに、無責任に背中押してさ、いいことしたみたいな顔で格好つけて。惨めな自分を隠すみたいだ。僕は嫌だ。ああはなりたくない。僕は…」

「何になりたいの?」

「何にもなりたくない。お姉さん、嫌なんだ。大人になるなんて、何だか負けるみたいだ。勝負もしないで、勝手に身の丈探して、見合った幸せを繕って…そう、惨めなんだ。泥の手で仕事して、人を騙して上に立って、そんな風に僕もなるくらいなら、一生子どものままがいい。少なくとも、僕の正しいと思えることに従えるから。自分を殺してまで生きたいとは思えない」

 少年の告白は、大人からすれば、稚拙なわだかまりと嘲笑されるだろう。けれど私は、どこか的を得たような、生き方の本質に触れそうなものがあるように思えて、寄り添って考えようと思った。

「でも僕は、そうなるんだ。そうじゃなきゃ生きられないから。かと言って、わざわざ死のうなんて気も起こらなくて、のほほんと大人の階段を登り続けて、あと数年もすれば、ありきたりの性格を被って、回れ右の社会人に呑まれるんだ」

「一緒は嫌?」

「嫌だ。いや、一緒なのが嫌なんじゃない。一緒なのも嫌だけど、僕が言いたいのは、そんなロボットみたいな人間に陥って、こぞって頭の悪い集団になることで、だから成長なんて言葉が、僕は大嫌いってことなんだ」

「なるほどね」相づちを打つ。少年の目に映る大人は、そういう画一的なものとして、街中をさまよっているんだと気付く。

「でもね、私が思うに、大人たちには大人なりの悩みや考えがあるものだよ。いくら惨めに思えたってさ、彼らにも生活があるし、もしかしたら家庭だってあるかもしれないんだよ。君のような子どもをもってるかもしれない。親心なんて、当事者にならなきゃ分からないと思わない?」

「それは、そうだろうけど。でも、やっぱり大人は愚かだよ。生活のためだの仕方ないだの言って、そうやって間違った世の中に馴れていくんだから、子どもの方がましに決まってる」

「人生甘くない、なんて言うしね」

「そう。その癖、夢を持てだとか嘘をつくなとか、身勝手で残酷なことを言うんだ。人に説教する癖に、自分には甘くってさ。見えてないんだろうね。もう、他のことで見失ってる」

「駄目?」

「駄目だよ。少なくとも、人に説教する立場なら、模範てものを示してくれなくちゃ。そう、筋が通らないんだ。言うことなすこと、都合よくて」

 都合、ね。確かに、そうかもしれない。自分に出来ないことも、子どもに教育する上で必要なら喋るし、それに、子どもはずっと繊細だから、健康をいたわって、厳しく制限することも必要になる。いやはや、大変だねぇ。大人も。

「少年、君はどうしたい? どうすれば、君は幸せを感じられるだろうか。そう否定ばかりじゃ、何も解決しないからね」

「…そう。そうなんだ。僕なんかが抗っても、何にもならない。そんなこと、分かってるんだ。けど、このままじゃ、僕も呑まれるだけで、僕が嫌った人間に、僕もなるだけだ」

「難しいね」

「解決しないだろうね。僕は多分、常識と戦っているんだ。どれだけ無力なことか、分かるでしょ」

「分かるよ」

 それは流れるプールに、一人逆向きに泳ぐようなことだ。君の行為に理解はなくて、きっと、意味を問い詰めるような人ばかりだろう。私は楽しければ、それでいいんだけどさ。でも、邪魔に思う人が大半で、迷惑なんて言葉を取り出して、君を責めるだろうね。

 グラスの水をストローで混ぜると、丸い流れに小粒の氷が運搬されて、繰り返し繰り返し、もとの位置に戻ってくる。逆行することは、ありえないだろう。それこそ、時間が巻き戻らない限りは、起こりえないことだ。

「君の思うように、生きなさいな。息苦しく感じたら、また戻ってくればいい。それまでは、みんなに合わせるか、正しいと思うことをするか、君の自由だよ」

 水を吸って、シュプーという空洞音が管を震わせる。空になった湖は、底へとたどり着いてしまった。

 少年を見やる。笛吹く私を、恥ずかしげに見る小さな顔。柔らかい頬っぺたを左右に並べて、キラキラした目をしている顔だ。

「君は自由なんだ。勝手に縛ってるのは、君の方かもしれないよ」

 私は笑って、額を小突いてみる。「何だよ」とぶっきらぼうに呟く君を、私は無視して、いっそうの笑みを浮かべた。

「元気は出たかな、少年。私と話して楽しいかい? 楽しいなら、いいんだけどさ」

「うん…まあ、嫌じゃないよ」

「素直じゃないなぁ。でも、まあ、よかった。私も役に立てたなら、嬉しい」

 両手の指を組んで、外側に向け、肘を伸ばす。肩の付け根からぐっと、大きく伸ばしていく。夏に咲く向日葵のように、天井を目指してぬくぬくと育ちたいものだ。

 脱力すると、体は地面に帰ってきて、じんと両肩に重力がのしかかってくる。その重さが、案外、心地好かったりするものだ。

「君も、いつか分かるよ。誰かのためにする行動が、君にとっての幸せだってことがさ。だからさ、大人だってそう、悪くないものだよ」


    3


 追加のデザートを頼んで、口に頬張る。冷たいシャーベットが中で溶けては、つんとした刺激を走らせて、私はその刺激にもだえては、頭を抱えてじっとした。けれども、好き好んで食べているのは私だし、私の意思でやってることだから、誰に文句を言ったって仕方なかった。

 そう。好きでやってることなんだ。私の人生も、君の人生も、そんな自由で成り立ってるから、羽を伸ばして楽しめる。食べる自由、食べない自由を預かって、その代わり、自分のことには責任を持たなくちゃいけない。

 少年の次なる悩みは、そんな自由の窮屈さを打ち明けるものだった。

「困るんだ。何者にか、ならなくちゃいけない自由なんて」

「少年は何にもなりたくないの?」

 私はいろいろなってみたいけどなぁ。お医者さんでしょ、弁護士さんでしょ、それから、街角の喫茶店でコーヒーを淹れてみたいし、ファッションショーのモデルなんかもやってみたい。なりたい自分を考えれば、夢は膨らむ一方だと思うけれど、でも、少年は違うらしい。

「夢がないなぁ、君は」

「取り上げるのは、向こうじゃないか」

 そう言って、少年は初めて、飲み物に口をつけた。ぬるまったジュースが吸い上げられて、水位をだんだん下げていく。

「何かになりたいなんて、そんな特別な志望動機なんてないのにさ、個性だの長所だのをアピールして、売り込むんだ。殺してきた自分がその時になって必要になるなんてさ、おかしいと思わない?」

「うーん。飾らなくて、いいんじゃない?」

「自由さ。でもみんな、必死になって受けるんだよ。何になるにしても、競争はあるから。そうやって他の人を蹴落として、やっと金銭的な安定が得られるんだから。生活するには、避けられない儀式だよね」

「そうね。就職は、甘くないかもしれない」

「僕は嫌だな。憧れや熱意なんてものを強要する世の中は。強い思いがない僕なんて、どこにも居場所がないんじゃないかって思う。何かを追い求める姿勢が良しとされるのも、そんな風潮はごめんなんだよ」

 少年はそっぽを向いて、窓の外を覗き込む。照らされる丸い横顔は、つやつやした肌の表面を強調している。

「僕は…もてあましてる。将来を選ぶ自由を。選択肢を広げられても、僕の意思では決められない。決められないから、困るんだ。いっそ決まってた方が、悩まずにすむのに。蹴落とさないですむのにさ。結局は生きづらくなってるだけだよ。誰も望んじゃいないさ」

 それが今の世の中だと、低く呟いて、そうして、黙った。窓の外の世界は何もかも開けっ放しで、道案内がなければ路頭に迷ってしまう。飾られた自由は、そうした投げやりの切符で出来ている。

「決める勇気がないから、きっと、不安なんだよ」

「勇気だけじゃない。動機も期待も、さして持てないじゃないか。それに、元はと言えば、仕事なんて似たようなものばかりで、特別何かをするような職種なんて限られてるのにさ、選択の自由を盾に、それがいいもののように扱うのは汚いよ。だから仕事なんて、嫌になるのさ。嫌々。仕方なく。生活のため。それなのに、望んで得たような主張。人生が楽しいわけがない。僕たち、本当に好きで生きてるんだろうか。死ぬのが嫌だからって、わざわざ辛い思いを重ねてるだけなんじゃないかって、考えることがあるんだ」

「君は、正しいかもしれないね。死ぬのが嫌だ。生きるのが辛いって人は、きっと、たくさんいるかもしれない。でもね、それでもさ、やっぱり、生きてると嬉しいことや楽しいこともあるからさ、私はいいことだと思うよ。私たちは好きに生きるべきで、楽しむべきなんだよ。神様に感謝して、両親に感謝して、前を見て、喜んで、それからだよ。悲しいことを背負うのは。辛いって嘆くのは」

 キーンとするシャーベットにも慣れて、少年の声を聞きながら、淡々とスプーンを運んでいた。けれど、そんなデザートも遂に終わりを見せ、口の中の甘さが名残惜しいほどに、ほっぺたを優しくなでていく。

「君のままでいいじゃない。自分の幸せを追いかければ。何になったって、どう求められたって、君が寂しかったら、意味ないでしょう? 思うようにやってみれば? 案外、いけるかもよ」

 ピカピカに光るスプーンを置いて、椅子に両手をつく。体の両脇で体重を支える手のひら。左右のバランスがあるからこそ、支えられるのだと気付かされる。

 うん。バランスが、大事だよ。嬉しいこと。辛いこと。長く生きれば、きっとそのやりくりも巧みになって、生きやすくなるはずさ。経験というのは、そんな風に出来上がっていくものだから。今のうちからくよくよしてたんじゃ、前に進もうにも歩きづらいでしょ。

「もっと、身近のことから考えてみない? 将来どうに働くかなんてさ、そんなことは置いといて、君のしたいことや、なりたいこと。小さな目標なんかを積み重ねていってさ。そしたら、今とは見える景色が違うかもしれない」

「景色が変わるの?」

「変わるよ。感じ方も変わる。私の笑顔の秘訣を教えようか? 少年」

「いや、遠慮するよ」

「そう。…つまらないな」

 視線を切って、いじけた素振りを演出してみる。けれど彼は食いつかなくて、仏頂面のすました顔で、残りのジュースを飲みきった。

「僕が知りたいのは、こんな投げやりの自由を選びとっていく勇気だよ。出来れば動機やこだわりなんかを説明出来るものがいいけど、僕らしく生きれることが第一だし、それに、後悔だけはしたくない」

「うーん。よく分からないなぁ」

「条件が多いからだよ。それだけ、今の社会は生きづらくなってるってことじゃないか」

「なるほど。でも、答えはポンと返せるものじゃないね。それに、やっぱり君が選ばなくちゃ意味ないよ」

 じっとしてるのが窮屈になって、何かを期待して、スプーンを持ち上げる。表面の金属光沢が自分の姿を写すけれど、少し歪んだ景色が広がっていて、また世界も小さく、よく凝らさなければ見えなかった。考えたのは、それくらい。ちょっとした意識の脱線は、冒険の終わりも近くて、浅い。

「さっきも言ったけどさ、ちょっとずつ、目の前のことを選べばいいじゃない。君という人生は、そうして振り返った時に、道になってるものだよ」

 スプーンから目を離して、少年を覗く。相変わらず吹っ切れないような、思い悩んだ顔をして、将来はきっと多忙なんだろうと想像した。おっと、出世コースか? そうなら、いいね。もちろん、そうじゃなくっても。

「君の気持ちが指針になるのさ。今はまだ、実感、湧かないかもしれないけどね。そうやってちょっとずつ、でっかくなりなさいな。ちびっ子よ」

 頭を撫でてやる。お姉さんからの餞別。とっておきなさいな。反抗する頭には、そう念じてわしゃわしゃと揺さぶってやった。

「お姉さんはさ、決まってるの? もう何になるとか、どんな仕事に就くとか」

「私? 私はね、決まってないよ」

「でも、高校生でしょ。進学してから決めるってこと?」

「ううん。進学しない」

「どうして?」

 少年の声は疑問と不信感を混ぜ込みながら、私に向けて発せられる。そんな風に言われても、私はただ、本当のことを言うだけなのに。

「私はさ、長くないから」

 それからは、辛気くさい空気が流れていって、とても会話にならなかった。隠してたわけじゃない。ただ、同情は欲しくなかったかな。

 私は幸せなのに。それは、変わらないことなのにね。

「ごめんね。選べなくて。君の方が悩んでるのに、私一人逃げるんだ。ごめんね」

 少年はまた目を下に逸らした。涙を浮かべているのが見えた。


    4


 学校が社会の縮図だなんて言うだけあって、当然、被害者も度々現れる。最近もまた、ここら辺の学校で飛び降りがあったらしいと、今日の散策で何度か耳にした。

 暗い世の中だね。誰かが嘆いて、別の誰かが、同情の言葉を重ねる。余所でもそんなひそひそ話が展開されて、同じような会話をつらつらと聞いている一日だった。

 私は今日を、生きただろうか。半分死んだような気持ちで、いいことを見つける努力を怠っていたような気がする。

 もしかしたら。もしかしたらだけど、私は、人の不幸話を聞いて、安心しようとしているのかもしれない。人生はそんなものだと。過度な期待はするものじゃないと。そうやって、自分に折り合いをつけて、人を妬まないように抑えているのかも。

 だったら、穢らわしいな。私が思うより、ずっとずっと、醜い自分が奥に潜んでいて、何かに噛みつこうとしているなんて、汚ならしい。ただ、少なくとも私は、不幸な自分には酔っていない。これは確かだ。だって私は、幸せ者だから。

「私は、不幸なんかじゃない」

 唇を噛み締めて、自殺した学生を意識しながら、唱えた。その子は何を思って、迫り来るコンクリにぶつかったのだろう。怖くはなかったのか。痛くは、なかったのか。

 きっと、私たちを恨んで死んでいったんだろうな。ごめんね。私は、部外者で、助けなかった。それだけが今、この世に残っている。

「不幸なんかじゃない、ね」

 空を見上げて、星を数える。私はあとどれくらい、この一日を繰り返せるか。あとどれくらい、残っているだろう。

 今日もまた、寂しい夜が来る。明日にはまた、いいことが起こるだろうか。いいや、きっと起こるよ。きっと。

 口の端を指で押し上げて、私は誰に見せるわけもなく微笑んでみせた。

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