29.優しい光の中で
コツコツ、という音がしたので、明霞は窓辺に向かう。
「こんばんは、ヤー」
『明霞!』
窓を開けると、ヤーは中に入り、明霞の肩にとまる。そして、嬉しそうに頬をつん、と柔くつついた。
すっかり明霞に懐いた……いや、相棒となったヤーは、夜にこうしてやって来ることが多い。しばらくの間、とりとめのない話をして去っていくのが常だが、今日は違っていた。
『明霞、少し出られる?』
「出るって……どこへ?」
『庭』
「……わかった。いいわよ」
『ちゃんと何か羽織るのよ!』
「わかってるわよ」
まるで子どもに諭すような物言いに、明霞は苦笑しながら外へ出る準備をする。
昼間はそこまでではなくとも、森の奥深く故、夜は冷える。ヤーの言うとおり、羽織るものは必要だ。
「ヤー」
『こっちよ』
「え……?」
外に出ると、ヤーは案内をするかのごとく飛んでいく。置いていかれないようにと、明霞は歩みを速めた。
すると、突如目の前に花畑のような景色が広がる。
「わぁ……」
思わず、感嘆の息を漏らした。
明霞の部屋から見える庭からは離れていたし、広い庭を隅々まで探索する時間がこれまでになかった。だから、こんな場所があるなんて、今まで知らなかったのだ。
一面に咲き乱れるのは、牡丹の花。様々な種類があるようで、色彩豊かである。
「なんて、美しいの……」
「明霞」
牡丹の花に気を取られ、人がいたことに全く気付かなかった。
月明りに照らされた、長身の姿が目に入る。
「颯懍様……」
颯懍が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
満月の光のせいか、紫黒の髪がより美しく輝き、濃紅の瞳が艶めかしく映る。
彼の容姿が整っていることは知っている。だが、普段はあらゆる面で素っ気なさの方が勝ち、無骨さが表に立っていた。しかし、今は違う。
(これほどまでに……美しい方だったの……?)
表情は相変わらず淡々としているのだが、それがかえって彼の美しさを際立たせていた。
スラリと伸びた体躯は、若干見た目は華奢であるけれど、よく鍛えられている。
身軽でありながら、強さも併せ持つ。それは、烏にとってもっとも必要なことだ。そして彼は、長を除く誰よりもそれを体現していた。
「どうした? ……眠れないのか?」
「え……と、あの……」
ヤーに連れて来られた、と言おうとしたが、少し離れた場所から羽音が聞こえた。
きっとヤーだ。言うな、ということだろう。
(ヤーったら……。颯懍様がここにいらっしゃるのがわかって、私を連れてきたのね)
それなら、それに乗ろう。
明霞は小さく首を振り、颯懍を見上げた。
「……はい。馥郁たる香りに誘われ、来てみたのです」
明霞の部屋にまでその香りが届くかは難しいところだが、緩やかな風も吹いており、問題ないだろう。それに、この場所にいると、まさにそのとおりであることがわかる。
牡丹の香りがこれほどまでに爽やかで、心を落ち着けてくれるものだとは思わなかった。
「そうか」
「……」
そう言ったきり、颯懍は黙ってしまう。
だが、これもいつものことだ。彼との会話が長く続くことはあまりない。それでも──
(沈黙が心地いいって……変かしら?)
二人とも何を言わず、ただ側にいるだけ。
それでも、ちっとも苦にならない。それどころか、心地よさまで感じる。
(これも……包容力というのかしら。黙っていても温かい。どこか、つつみ込まれているような……)
だからこそ、彼の側は居心地がいい。
……それにしては、先ほどから自分の鼓動がうるさくて仕方ないのだが。
「明霞」
「颯懍様?」
その声は、いつもより硬く、緊張しているように聞こえる。顔を見ると、それが気のせいではないことがわかった。
(表情が少し、強張っているような? 私……何かしてしまった?)
明霞が不安になっていると、颯懍が意を決したように身体を傾け、改めて彼女と向かい合う。
「あの……」
「明霞、俺の……最初の言葉を撤回させてほしい」
「最初の……言葉?」
「その、あれだ。……仕方がないから、引き受ける……と言った」
そう言われた途端、颯懍と初めて会った時のことを思い出す。
<仕方がないのでその身は引き受ける。だが、婚姻に同意したわけではない>
それを、撤回?
戸惑っている明霞の前で、颯懍は膝をついた。
「颯懍様!」
「明霞、俺の花嫁となり、この先もずっと、俺の側にいてほしい」
「!」
対外的には、明霞はすでに颯懍の妻である。だが、二人の間では、まだそうなってはいなかった。
(私の中では、もうとっくにそうだったけれど。勝手に、この先もずっとお側で……貴方を支えたいと願っていた……)
その時、離れたところから「烏」が来るのが見えた。何かをくわえている。
「シェン!」
シェンは、颯懍に持ってきたものを渡す。彼は立ち上がり、それを明霞の髪に飾った。
「綺麗……。颯懍様、これは……?」
銀色の髪に映える、深く、濃い赤。
「牡丹……夜光杯という種だ」
「夜光杯……」
花の中央にある花芯は鮮やかな黄で、周りを取り囲む花びらは颯懍の瞳の色とよく似ている。半八重咲きの夜光杯は、さながら「夜闇の女王」のよう。暗い赤が、風によそぐ銀の髪をより煌めかせていた。
「夜光杯は、銀の乙女が好んだと言われている。明霞にも似合うと思った。だから……明日、渡しに行くつもりだった」
「そうなのですね。……ありがとうございます」
大切に育てられたのであろう、形の整った美しい牡丹の花。
颯懍が用意したものを、シェンが気を利かせたのか、今持ってきたのだろう。当の本人は、すでにどこかに飛び去っている。
烏族の「烏」は、始祖の血を引いている。それ故、人語を操れるのだ。
最初からそうであった始祖とは、神に近い存在だったのだろうか。そして、その番であった銀の乙女とは……。
烏と人。本来ならば、交わりなど持てないはず。
しかし、互いがそれぞれの種を超えた存在であったなら──。
「私は本当に……銀の乙女、なのでしょうか」
皇宮にいた頃は、汚れたような灰色だった髪。それが銀髪に変化したことでさえ驚きだが、烏族にとって神聖視される存在と同じものであるなど、明霞には到底信じられない。
しかし、烏族以外で「烏」と対話できる者などいない。それが証拠と言われれば頷く他はないのだが、半信半疑というのが正直なところだ。
「俺にとっては、明霞が銀の乙女かどうかは問題じゃない」
「そうなの……ですか?」
銀の乙女を一族に迎えることは、烏族にとってとても重要なことだ。
「銀の乙女が舞い降りる時、一族の繁栄は約束される」とまでいわれているのだから。
「明霞」
「……っ」
一歩、距離が近づく。
たったそれだけで、明霞の心臓はドキリと大きな音を立て、暴れ始めた。
胸の前で組まれた明霞の手を取り、颯懍が更に近づく。
「明霞」
こうして名を呼ばれる度、心が温かくなると同時に苦しくなる。溢れ出る欲を抑えきれなくなりそうで、怖くなる。
気持ちを落ち着けるために瞳を閉じると、耳側でゾクリとするような低音が響いた。
「明霞が銀の乙女でなくても、俺は明霞を娶りたい」
「……っ!!」
颯懍の吐息が耳にあたり、瞬く間に明霞の顔が熟れた果実のように真っ赤に染まる。
しかも、吐息だけではなかった。
「ひゃああああっ」
思わず奇声をあげてしまった。
バッと離れると、颯懍は悪戯が成功した子どものような顔で笑っている。
「み、耳をっ……」
「柔らかそうだったから、つい」
「ついって……颯懍様!」
颯懍は、やんわりとだが、明霞の耳朶を食んだのだ。それに驚き、明霞はこれまで発したことのないような声をあげてしまった。
(颯懍様、笑っているし!)
「明霞、逃げるな」
「に、逃げますっ! だってまた……」
「もうしない」
「……本当ですか?」
「あぁ」
そう言われ、ほんの少しだけ近づく。すると、あっという間に颯懍の腕の中に囲われた。
「……逃げても、すぐに捕まえる」
「……」
烏族の次期長にかかれば、明霞のような小娘が逃げおおせるはずもない。それに、ここはとても安心できる。ずっと捕まえていてほしいほどだ。
明霞は身体の力を抜き、その身を委ねる。颯懍の腕に、力がこもった。
「明霞、俺の……花嫁」
「……はい。私は、颯懍様の花嫁です。これからも私は、貴方を支えていきたい……。だから、ずっとお側に置いてくださいね」
「それは、俺がお前に乞うことだ」
深い暗闇に、煌々と月の光が降り注ぐ。
その光は、二人を導く道しるべ。
ようやく重なった二つの影は、時を忘れたかのように寄り添い続ける。
決して離れようとしない二人を、二羽の「烏」が静かに見守っていた。
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