白煙の最後
イステルの低いつぶやきに、グルーシャは肩をすくめた。
「さぁ?依頼人を明かすほど、甘くないんでね。」
白煙は徐々に流れていき、視界は晴れていく。馬車はそこに置き去りにされ、馬の姿はなかった。まだこの場所は森の中だ。障害物が多い。
イステルは再び剣を構え直した。
「ならば、聞き方を変えよう。王は俺を殺したいのか…それとも、消したいのか。」
グルーシャは目を丸くし、口元を歪めた。そして、静かに笑い、答えた。
「キャハハ、鋭い。どちらかといえば後者かもね。」
次の瞬間、短剣が一本、イステルめがけて投げられた。イステルは剣を一閃させ、短剣を弾いた。空気が張り詰める。
「お前は”英雄”になりすぎたんだよ。」
「…俺はただ、民を救いたかっただけだ。この腐った国を、誰もが笑える国にしたかった。それだけだ。」
イステルの言葉に、グルーシャは大きな声で笑った。目尻には、わずかに涙が滲んでいた。その表情には、嘲笑だけが浮かんでいた
「アッハハハ!!!本当にそんなこと考えてたんだぁ…ウケる。お前さ、この国の現状を本当に見てるの?」
イステルは過去を思い返した。脳内に浮かんだのは、皿を両手で抱え、富裕層に「食料をお恵みください」と懇願する民の姿。そして、その民を斬り捨てる護衛の騎士たちだった。
「食べ物が欲しくても手に入らず飢えに苦しむ。盗みでも働けば地下牢に閉じ込められて人生おしまい。こんな国を本当に誰もが笑える国にできると思ってんの?」
グルーシャの声には、怒りとやるせなさが滲んでいた。イステルは直感した。――彼女もまた、この国の犠牲者なのだと。
「だからさ…あんたみたいな英雄がいると!!こっちは希望捨てきれないんだよッ!!!」
グルーシャは素早く腰に手をまわし、続いて短剣を投げた。無数の短剣が、白煙の中から飛び出していく。イステルはすべての短剣を避け、グルーシャの懐に入った。
「ッ!?噓でしょッ!!?」
イステルはグルーシャの腹部に渾身の一撃を叩き込んだ。グルーシャは勢いよく飛んでいき、背後の木に直撃した。腹部を押さえ、痛みをこらえている。
「…どうして、斬らなかったの。あんたなら…ゲホッ、殺せたでしょッ…」
「…お前も苦しんできた民の一人ならば、俺が斬ることはできん。」
イステルは剣をゆっくりと鞘に戻し、そのままリンドウ平原に向かって歩いて行った。グルーシャは、去っていくイステルの背を、ただ黙って見送るしかなかった。
「…ほんと、最悪だよ。」
グルーシャは空を見上げた。空は雲一つない青空だった。グルーシャの心にはもやもやとした何かだけが残った。
「…本当に希望を捨てきれないのは、私じゃん…」
民を救いたいという固い”意志”。絶対に不可能と思われる現状を見ても諦めずに前へ進もうとする背中。
「ふふ…ばっかじゃないの。」
グルーシャは自嘲気味に笑った。そして、茂みの奥に向かって叫んだ。
「いるんでしょー?出てきなさいよ。」
白煙を薄く漂わせると、木々の陰から二人の男が姿を現した。黒衣に身を包んだ、王直属の影兵。
「…対象は?」
「見ての通りやられたよ。あっけなく。」
男の一人が剣を抜き、高く振り上げた。グルーシャは空を眺めたまま、一言だけ呟いた。
「…あの人、簡単には消えないよ。」
刹那、短い風切り音と共に視界が傾いた。直後に体の温度が低くなっていく感覚を味わった。
「…希望…って…」
白煙が晴れていく。そこに残ったのは影兵でもグルーシャでもなく、血まみれのローブと折れた短剣だけだった。
風が吹き抜け、血に濡れたローブの裾をわずかに揺らす。影兵がローブを回収し、辺りを見回った。
「…始末は完了した。本命は、まだだけどな。」
「まぁいいだろう。我々の手から逃げることはできん。少々時間が伸びただけだ。」
二人の影兵は短く合図を交わすと、森の闇へと溶けるように消えていった。そこに残ったものは、何もなかった。




