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結局のところ、グランマリュエ先生は、アシュレイのことも私のことも気にかけてくださったんだろう。
だからこそ、療養中にもかかわらず、わざわざ顔を出してくれたのだ。
もちろん「温室のリリーさんの様子を見に来た」というのも、あながち嘘じゃないのだろうけど。
ともあれ、先生のおかげで頭の中がスッキリした。
裏でどんな思惑が渦巻いていようと、アシュレイ自身は〝仕事〟をしに来たのだ。
『臨時講師』として、この母校にやって来た。それはつまり、今の私たちは『先生仲間』ということ。
それがどれだけ表向きの肩書きでも関係ない。私はこの学校の教師として、『講師』のアシュレイを迎えるべきなのだ。
私は私の仕事を全うする。
それなら、何も変わらない。いつも通りでいい。
複雑な理論は好きだけど、日常まで複雑にする必要はない。物事はシンプルに考えた方が、いつだって心地がいい。
妙に清々しい気分のまま、私はグランマリュエ先生と並んで、南棟の職員室へと続く通路に足を踏み入れた。
カーペットが敷き詰められたその通路は、両脇にずらりと背の高い本棚が並んでいる。
もっとも、収められた書物のほとんどは、ダミーの背表紙か固定された魔導書の複製品だ。中身の読めるものは、ほんのわずかしかない。
本棚と本棚の合間に立つ仕切り柱には、それぞれ精緻な彫刻が施されていて、絡まり合う植物の蔓や羽ばたこうとする鳥たち、目を光らせる四足獣など……そのどれもが、今にも動き出しそうなほど、生命感に満ちている。
そんな中で、今日は、通路に入って右手、五番目の――仕切り柱のフクロウと目が合う部分こそが、本日のミーティングルームの入り口だった。
彫刻のフクロウがふっと瞬きをしたように見えた、まさにその瞬間。
一架の本棚がゴトン、と音を立てて奥へとずれ、隠された空間が現れる。
「お先にどうぞ、ベネットくん」
グランマリュエ先生に促され、私は一歩、ミーティングルームへと足を踏み入れた――が。
……速攻で踵を返しそうになった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
中では、息を呑むような沈黙が横たわっていた。
職員室は、せり出した彫刻のある白い天井と、磨き上げられた樫材の壁に囲まれている。
中央には楕円形の長机が一台と、それを囲む数脚の椅子。奥には資料投影用の壇があり、北側の隅には給湯設備と、二人がけのソファが二脚向かい合って置かれていた。
壁を縁取る金の装飾はところどころ燻んでいて、室内全体に、時を重ねた場所ならではの重みと威厳が漂っている。
とはいえ、天井は高く、そこから吊るされた控えめなシャンデリアが、空間と心を優しく照らす。
加えて、南の大きな窓からは、傾いた陽光が斜めに差し込み、室内をあたたかな金色で満たしていた。
そう。この部屋が陰気に沈むことなど、普段なら決してない。〝普段なら〟。
それが、今は、どうだろう……。
空気そのものが、とてつもなく重く、苦しい。
今回集まった職員は、私とグランマリュエ先生を含めて十数名。
誰もが部屋の中央を避けるようにして、壁に寄りかかり、あるいは静かに立ち尽くし、もしくは給湯スペースのソファに腰掛けていた。
その目は、どこか落ち着かず、中央をジリジリと窺っている。……まるで睨みつけるように。
その視線の先。
会議用の楕円テーブルについているのは――カップを傾け、静かに紅茶を味わうアシュレイ・ソーンヴェイルと、「どうしようね」「これ一体どうしたもんかね」とアセアセ愛想笑いを浮かべる校長、エルマー・アップルトン先生だけだった。
私はさっと視線を巡らし、ティアナ……先生を見つけると、目だけで『いや、ここまでピリつくことがある?』と訴える。
ティアナ先生は顔全体をショボショボさせながら、唇の動きだけで『帰りたい』と返して来た。
今さらながら、彼女があの怒涛のメッセージをどんな気持ちで送ってきたのか、痛いほど分かる。
これは……、これは……。
なんというか……。
想像していたとはいえ、想像以上に……。
「あぁっ! やぁっと! 来たね! ベネットくん!」
アップルトン校長は、私とグランマリュエ先生を認めるなり、すぐさま席を立って「さぁさぁさぁさぁ!」と手招きをする。そ、そんなに。遅れた申し訳なさはいっぱいだけど、そんなに『さぁさぁ』言われるほどとは……。
私はその『さぁさぁ』に従って、テーブルへと歩を進める。
アシュレイの方はというと、音も立てずにティーカップをソーサーへ戻し、伏せていた眼差しをこちらに向けた。
途端、その顔が、ふわ、と和らぐ。
ほんの些細な変化だったが、私には分かった。グランマリュエ先生が来てくれたことで、彼も少し、肩の力が抜けたのだろう。
「これで、ようやく役者が揃った、な、なんてね……! ア゜ハァ〜! ……と、というわけで、すでにね、皆さんにはもうお伝えしてありますが、改めて!」
いかにも取り繕った、空元気の明るい声で、校長がぱん、と手を打つ。
それからテーブル側のアシュレイへと視線を送り、ひとつ咳払いをした。
「こほん。えー、本日付で臨時講師として赴任された、王国観測局の――あっ、いや、違う、間違えた。違うよ。待って、そうじゃなくて……えーっと……」
瞬間的に、その場の空気がピリ、と張った。
周囲の視線が、あからさまに刺を帯びる。
アップルトン先生は顔を引きつらせたまま、両手をワタワタと宙に泳がせ、最終的にアシュレイをバッ! と両手で指し示した。
「えー、つまりその……臨時講師として! 我がロズリンに来てくださった……アシュレイ・ソーンヴェイルさんです! いぇい!」
いや、『いぇい!』と言われてもな。相変わらずお茶目な方。
そんな校長の慌てぶりをよそに、アシュレイは静かに立ち上がり、
「アシュレイ・ソーンヴェイルです。よろしくお願いします」
と、まるで舞台の上の役者のように、完璧な所作で一礼する。
その表情は、控えめで品のある微笑みに整えられていた。
私も軽く微笑み、静かに応じる。
…………。
………………。
あ。
………………なるほど。
私は、一瞬で全ての事情を察した。
多分、本当に、これだけだったのだ。
おそらく、最初の挨拶のあと、ミーティングルームでは一見、和やかな雰囲気が流れたことだろう。
「第七観測局から、遥々来てくださったんですよね?」だとか、「いやぁ教師は大変ですよ。でも中央の方に来ていただけるなんて百人力です」だとか、おべっかと探りの入り混じった雑談が次々と投げかけられたに違いない。
もしかしたら、ティアナ先生あたりは本当に「肌、綺麗ですね〜」なんて当たり障りなく話を広げようとしたかもしれないし、実際、単なる話題を軽く振った職員もいたかもしれない。
ほとんどの教師が、きっと同じ魂胆を抱いてはいた、だろうけど……。
アシュレイがほんの一言でも、〝本来の目的〟をうっかり口にしたりしないか、と。
……が、アシュレイはそのすべてに、この〝慎ましやかな微笑み〟だけを返したのだ!
なぜなら彼は、基本的に、嘘が大の苦手である。
生意気な鳥のように流暢に囀る能弁な人ではあるけれど、その言葉の根底に〝本心〟がなければ、極端に脆い。猫を被るにしたって、取り繕うにしたって、〝嘘じゃない〟が大前提なのだ。
ましてや、虚飾や演技だけで相手を煙に巻いたり、納得させたりすることには、心底ストレスを感じて胃が痛くなるタイプだった。
さらには、誰かの質問には答えて、他の誰かには答えない――という不公平さにも耐えられない。
そんな彼の、実直すぎる性格を、上の人間が知らないはずはない。
だからきっと、こう言われて送り出されたのだ。
〝とにかく笑って、何も言うな〟――と。
その結果がこれである。
そんな彼の無言の対応に、職員たちはますます不信感と反感を募らせ、『なにがなんでも一言くらいは引き出してやらないと気が済まない、もう〝そうですね〟だけでもいい』と躍起になり、私が来るまで、延々と彼を取り囲んでいたのだろう。
……なんせ、ここの教員たちもなかなかの曲者ぞろい。妙なところで負けず嫌いなのだ。
そうして、最悪の永久機関が完成してしまった。
私が入室した直後の、あの痛いほどの沈黙は、話題という話題の火花がすべて弾けきった、会話の焦げ跡だったらしい。
ア、アシュレイ……。
おそるおそる、かつ注意深く彼の顔を窺うと、こちらに向けられたその瞳は……。
ほとんど死んでいた。
アシュレイ!!
あ、あなたは良い意味で、なにも変わっていなかったのか!