5
夢を見た。
学生時代の夢だ。
それこそ、ロズリン魔法学校の五年生――春の終わり頃だったと思う。
夢の中の私は、あの頃と同じローブを着て、あの頃と同じ温室にいた。
少し湿った空気。ガラス張りの天井から降り注ぐ日差しの眩しさ。それにきらめく葉水の雫は、まるでカボションカットされた翡翠のよう。足元で漂う土の香り。重たく、どこかまろくて、ほのかに苦い……。
すべてが鮮明に蘇る。もはや夢というより、記憶の奥底から浮かび上がった、当時の実感そのものだった。
私は静かに、記憶を辿っていく。
履修していたのは、そう――『魔法生態学応用I』、通称『栽培実習』。
魔性を帯びた草花や種子が、魔力や環境によってどう育ち、どう変化するのか。それを観察し、記録して、最終的には〝錬金術素材〟として提出する、という実習だった。
この分野は、魔力に反応する植物や鉱石、獣素材などの育成と保存、運用を扱う学問で、錬金術との結びつきがとりわけ深い。互いに切っても切れない関係だ。
当時、与えられた課題は二つ。
『指定された魔性種子を育て、錬金術素材として提出すること』。
『また、その成長記録と、可能であれば、自ら考案した育成理論を添えること』。
評価は、植物の成長度、安定性、魔力純度、収穫量、この四点を主軸とし、加えて育成理論の独自性や妥当性を含めた総合判断で決まる。
生徒たちは種子カタログの中から一つを選び、それぞれ温室の専用区画で一ヶ月の育成と管理に挑んでいた。
そして私とアシュレイは――同じクラスで、同じ科目を選択していて、偶然にも同じ〝フェリドナの種子〟を選び、偶然、隣り合った区画を割り当てられたのだった。
「……リリーの理論は、ちょっと過激すぎるんじゃないかな」
他のクラスメイトたちとは少し離れた、温室の一角。隣で、私と同じようにしゃがみ込んだアシュレイが、思案げに眉を寄せる。
まるで絵本に出てくる王子様のような彼は、意外と表情豊かで、感情が表に出やすいタイプだった。
この時も、『納得できない』という懐疑的な様子を隠す気配はまるでなく。
私も当時、大概にひねくれたクソガキだったので、その横顔にふん、と鼻で笑ったのを覚えている。
「理論の実証に終始するなんて、面白くないじゃない。私は〝現象の発見と進化〟を試みたいの。それに、この理論は絶対上手くいくわ」
「根拠は?」
「直感よ」
はっ、とアシュレイがせせら笑う。
「じゃあ失敗するかな」
「は!? なんでよ」
「安全で再現性のある魔術構造こそ、評価される。リリー、君の試行的な姿勢は非常に……非常に……、だけど、今回もやっぱり、俺がミスタ・グランマリュエから最高の評価を貰って、勝ってしまうだろうね」
そのあまりに強気な態度に、私は頭がクラクラした。『非常に』のあとに続くはずだった言葉は、きっと『愚か』だ。決まっている!
私は引き攣る口元を必死に取り繕い、「はっ! 言ってなさいな!」と返した。
「私の育成理論『多重魔力干渉応答法』こそが、今回の評価で加点まみれになるんだから!」
――アシュレイ・ソーンヴェイルに勝つためには、もはや〝満点〟では足りない。
五年生である私は、これまでの三年と数ヶ月で、嫌というほど思い知らされてきた。
なにせ彼は、どんな授業でも、どんな課題でも、必ず最高評価を取ってくる。それがアシュレイ・ソーンヴェイルの〝いつも通り〟。
魚が水の中を泳ぎ、樹々が日の光で息をするのと同じように。もはや日課といっても相違ない。
だからこそ、狙うべきは加点である。
七段階評定の横に、プラスをひとつ、ふたつ、みっつ――付けられるだけ付けて、ようやく肩を並べられるかどうか、といったところ。
今回、任意で提出する育成理論については、既存手法の精度向上や運用最適化を目的とした改良案、あるいは独自の理論構築や検証的アプローチでも可とされていた。
アシュレイは、いつだって正統を精確に攻める。
今回の実習でも、再現性と整合性を何より重視し、魔力の安定供給と成長曲線の最適化を徹底するだろう。
これまで幾度となく意見を交わしてきたが、彼の理論は一貫して『魔力純度を高く保ちながら、効率的に最大値まで育てる』ことに主眼を置いている。
つまり、魔法植物を設計図通り、緻密に、完璧に仕上げるアプローチだ。
私はその完璧な設計図を、書けない。
魔力応答の係数補正も理解はしている。けれど、アシュレイのように〝最適波形を制御し続けるモデル〟で、彼を上回れるとは思えなかった。
だからこそ、私は彼とは真逆の理論を選んだ。
複数の魔力属性を、ほんの少しずつ重ね合わせて供給することで、あえて微弱な〝魔力干渉〟を起こす。
その刺激が成長を促し、従来とは異なる進化――つまり〝新たな可能性〟を引き出すのではないかと考えたのだ。
自分では、この理論にかなりの自信がある。
けれどこれは、〝現象の新しさ〟に賭けた手法だ。
魔力反応を観察しながら、あとから理論をなぞるような――言うなれば、逆算型のアプローチでもある。
アシュレイが『過激すぎる』と評したのも、正直ちょっぴり、いや、かなり、理解はできた。
自分でも、これは冒険だと思っている。
けれど、それがどうしたと言うのか。
理論は現場で試してこそ価値がある。
挑戦なくして、進歩も評価もない。
それに、私には見えている。近い将来、評価表に書かれるだろう、輝かしい言葉たちが!
例えば、『環境変数への柔軟対応力に優れる』だとか。
さらには、『未知の展開を観察し、独創性に富む』だとか。
そうだ。そうとも。そうに決まってる。私は満点の先に行く――はず!
ちなみに、このやり取りをしていた時点で『栽培実習』はちょうど、期間の折り返しを迎えていた。
私は、目の前でゆらゆらと揺れる藍色がかった葉――フェリドナの草本を見つめながら、「……良い線いってるんじゃないかな」と、ひとりごちる。
私たちが選んだフェリドナの種子は、実習で選べる三種の中でも、最も難易度が高いとされていた。
実際にこの種子を選んだのは、学年内で私とアシュレイの二人だけだったらしい。
それも、納得できる話だ。
フェリドナは、特に最初の三日間が勝負。そこを極めて安定した魔力で乗り切らなければ、そもそも発芽すらしない。
加えて、成長状態が目視で判断しづらく、観測には魔導具の自作がほぼ必須。
土壌条件の調整も繊細で、適切な肥料の調合も一筋縄ではいかない。
そんな中、私が育てているフェリドナは、通常なら発芽に七十二時間前後――誤差十五分以内――を要するところ、七十時間八分三十六秒で発芽を確認した。
その後も、魔力過多による硬直や、供給不足による変性を一切起こさず、形状も成分構成も完璧なまま、驚くほど安定した速度で成長を続けている。
私のフェリドナは今、アシュレイの株よりひと足早く、成熟期に差しかかろうとしていた。
正直、このまま中間記録書と一緒に素材として提出しても、評価Aは確実に取れるだろう。
けれど、私の理論は〝どう成熟させるか〟に全てがかかっている。
失敗するか、大成功するか。そのどちらかしかない。……私はもちろん、後者を信じて疑わないわけだけれど。
自作の魔導プレートを土越しにぽふぽふと叩きながら、「一緒にてっぺん目指すわよ」と、心の中でフェリドナに語りかける。
――その時、ふと横から視線を感じた。
「……なによ」
案の定、アシュレイだった。
彼は、まるで珍しい標本でも見つけたかのように、興味深げな瞳を向けてくる。居心地が悪い。
私が少し身じろぎすると、アシュレイはシャラシャラと音がしそうな長いまつ毛を一度瞬かせ、パッと笑った。
「愉快な百面相だね」
しゃがんだまま頬杖をつき、アシュレイは楽しそうに続ける。
「頭の中で、評価配点と勝率でもこねくり回していたのかな? 〝自分の理論が加点されて、俺に勝つ〟……なんて展開を、脳内でシミュレーションしていた? 随分ロマンチックだね」
人によっては、これを『世界で一番美しい笑顔』とかと称するのかもしれない。
だが私にとっては、『世界で一番小憎たらしい笑顔』でしかなかった。
このチクチクチクチクと刺さる、一見さりげないようでいて、狙い澄ました嫌味が本当に腹が立つ。
顔の良さと口の悪さを絶妙なバランスで釣り合わせて、ギリギリ怒鳴り返せないラインを踏み込んでくる、その塩梅が本当に嫌で嫌で仕方ない。
額に青筋が浮かぶのが分かる。
我慢よ、リリー。我慢、我慢……。
我慢…………。
プルプルと震える私の隣、アシュレイは小首を傾げ、更に甘ったるく続けた。
「可哀想なリリー。俺にまた負けることを、まだ知らないなんて」
ふぅ、と、わざとらしいため息が聞こえた。
人によっては憂える妖精に見えるかもしれないが、私にとっては完・全に悪魔である。
悪魔は続ける。
「でも、俺は覚えておくよ。君の強引で暴力的で破綻した理論をね。うーん、つくづく俺には真似できないな。干渉波なんて、重ねれば重ねるほどノイズが増えるだけだし、魔力構成要素の位相差を無視したらどうなるか……なんて、結果は目に見えてるもの。ああ、良ければ今すぐ課題を提出してしまったらどうかな? もう勝負は決まったようなものだし。ここまで育った貴重なフェリドナを一株枯らすのも勿体無い」
……我慢…………。
…………我慢………………。
「あ、そうだ。君が設計した魔導プレートと、あの独創的な肥料の組成も、ぜひ詳細に添えておくといい。教授陣はそういうの、評価してくれると思うから。きっと加点まみれになるよ。Aにプラスが三つくらい付くかもしれないね。もちろん俺は、Sを取ってしまうんだけど」
…………が、ま、ん……………………。
「……………………よ…………」
「ん?」
「………………い…………よ…………」
「なに? なんて言ったの、リリー・ベネット? 声が小さくて聞こえないよ」
「…………ちょっと、立って…………通路に出なさいよ…………」
「ん? うん。分かった、これでいい?」
私とアシュレイは、しゃがみ込んでいた区画から離れ、温室の通路側へと移動する。
アシュレイはキラキラ笑ったまま、手を後ろに組み、これから始まる〝なにか〟を心待ちにしている様子だった。
――――限界だ。
「アシュレイ・ソーンヴェイル。まず最初に、も、もう一度言ってみなさいよ、私の理論が…………」
「強引で暴力的で破綻している!」
「こ、この、この、この足長野郎!!!!」
表に出ろ!!!!
私は温室用の手袋を、決闘の意を込めてアシュレイに投げつけた! もちろん、その長い足元に向けて……が、勢い余り顔めがけてすっ飛んでいく。
あっ。
しかしアシュレイは涼しい所作でそれをヒョイとかわし、あまつさえ「ごめんね、これは生まれつき!」と作業ローブの裾を軽やかに翻した。
……こ。
こ、い、つ、は!!!!
私はすかさずもう片方の手袋を脱ぎ、今度こそ、彼の足元めがけて正確に叩きつける。
今度はバッチリ、ど真ん中、いいコントロールだ。
満を持して、私は我慢していた言い分を一気にぶちまけた。「その〝全て自分が正しくて、私が間違っていて愚かしい〟という態度、本当に辟易する!」
「精密や均質がそんなに偉いわけ!? いい? あなたのやり方はね、温室の中にもう一つ、小さな温室を作ってるようなものよ! そりゃ、育つでしょう、綺麗に育つでしょうとも。外界から隔離して、魔力を選別して、必要な波形だけを通すんでしょう? それなら成分も安定するうえ、反応も上等でしょうね。でも……でも、綺麗なだけで、ぜんっぜん、面白くないわ!」
アシュレイは足元の手袋を拾い上げ、手の中で軽く弄びながら、少しだけ笑顔を潜める。
「面白くない? 構わないよ! 俺は理論に面白さを求めていないからね。完璧で安全、なにより再現性が高い。確かに対象を〝自然物〟ではなく〝構造体〟として扱う側面はあるかもしれないけれど、それで不確定要素を排除できるなら、むしろ理想だ。全成長過程を設計し、予測し、制御する。それこそが、俺が考える〝理論的に最も美しい育成形態〟なんだ。言わせてもらえばね、矛盾や分岐をあえて内包したまま成立させようとする君の考え方こそ、俺からすればよっぽど〝美しくない〟かな」
――これは本当にどうでもいい余談だけど、美しい存在に『美しくない』と断じられると、どんな状況であれ、否応なしにガツンとくる。
私は案の定、つい言葉に詰まった。
「う、美し……そ、その〝美しさ〟って、結局あなたの枠の中で完結してるものじゃない。数値が揃ってるから? 条件反応が規則的だから? 確率収束がα分散内だから? 最初から〝正解のある式〟に当てはめて、きゅ、窮屈よ! 私が見たいのは、あらゆる反応を重ね合わせた先に見える可能性なの……! 観測された現象じゃなくて、観測できなかった変数を拾い上げた先よ……偶然を受け入れた先にある、奇跡のような応答式──そこにしか、新しい結果は現れないんだから!」
「偶然を可能性と呼ぶ時点で、君はもう術式自体の制御を手放してる。それは創造じゃない、放任だよ。リリー、君の『多重魔力干渉応答法』は確かにユニークだ。けれど、干渉項の変動率を制御できないまま、式全体に組み込んでいるだろう? たった一つ、魔力の係数が閾値を超えただけで、君の式は崩壊する。そんな危なっかしい構造を〝可能性〟という言葉で包むのは、無責任だと思わない?」
アシュレイは、今まで絶えず浮かべていた笑顔をスッと引く。タンザナイトの瞳に、諭すような光が揺らめいた。
「魔力に、対象に、意思を持たせた気になっているかもしれないけれど、実際にはフィードバック制御がほとんど効いていない。君は〝自由を与えている〟つもりでも、実際には最も植物を振り回し、そして帰還関数――つまり、術式全体の責任すら放棄している。〝面白い〟とか〝面白くない〟とか、定性的な価値にそこまでこだわりたいなら、魔術師じゃなく詩人でも目指すんだね」
アシュレイは拾った手袋の親指と小指の先を両手で摘みながら、「詩人リリー・ベネットの初執筆作は、いつ頃世に出るのかな?」なんて、またカラリと笑った。
「…………」
言葉が出ない。いや、出せない。
もう何も言い返せる気がしない。
――何故なら。
詩の一つや二つ、もうすでに書いていたし、それも自分の机の引き出しの奥にしまっておけば済んだものを、思春期特有の自己顕示欲にまかせて、よりにもよって投稿サイトにアップしてしまった直後だったからである。
………………。
――今の今まで、きれいさっぱり忘れていた。昨日の私はなんてことを。誰かその手を止めて。いや、もうその指ごと折ってしまえ!
私は下唇をキュッと噛んで、押し黙った。
「……え? リ、リリー?」
アシュレイが目を瞬き、少し不安げにこちらをうかがう。
――詩、本当に……どうしよう。削除出来るよね? 投稿ページはちゃんと閉じたよね? そもそも図書館にある魔導計算機の履歴ってどのくらい残るんだっけ……?
「…………」
顔が青くなったり赤くなったり。もう本格的に黙り込む私に、アシュレイは「リリー」と遠慮がちに声をかけてきた。
「その……俺、今、ちょっと言い過ぎだった……?」
その通りだ。
的確すぎる指摘である。
――『それは風だったかもしれないし、あなたのため息だったかもしれないわ。
けれどそのとき、確かに私は、世界でいちばん甘い予感に、心臓を攫われたの。
私の心を、ここまで撹拌するなんて、どんなにむつかしい魔術より、よっぽど禁術みたいね』
――ペンネーム:ユリシス・ド・ラ・ルミエール=セレスティア。投稿サイト《グリモワール・リリック》より抜粋。
普通にこのまま温室の土を掘って、その穴に入って蓋をしたい。そして土に還ってしまいたい。
私は勢いよく顔を上げると、目の前の美丈夫をギッ! と睨みつける。
「……こ、の銀髪男!」
「な、なんだよ金髪女」
「あなただって甘党じゃん!」
「だからなんの話だよ辛党!」
「もう良い! 考えたくない! あっち行ってよ!」
「なっ……!」
私は顔を背け、さっさと自分の区画内に戻ると、書き終えていた中間記録を引っ掴む。
私の動きにつられて、私の可愛いフェリドナの葉がかすかに揺れた。瑠璃のような表面の光沢が、つるんと日差しを弾く。
――『それは風だったのかもしれないし……』
思い出すな……。もう、もう思い出さなくていい……!
私はレポートを握りしめたまま震え、心の中で激しく暴れ回る羞恥心をなんとかやり過ごそうと必死になった。
「リリー!」
何故か慌ててて追いかけてきたアシュレイが、フェリドナの前で固まる私を見て、ギョッと狼狽える。
「え? ま……待ってよ。まさか本当に……このまま提出するつもりなのか? 君の理論はどう成熟させるかが一番肝心だろう? あ、ああ、俺に言われたことがそんなに堪えたのかな。流石のリリー・ベネットが反論出来ずに黙り込むなんて。ごめんね、俺は顔も良ければ口も上手いから」
――五年C組は今日、図書館で授業があるって聞いたような……。ど、どうしよう、見られたりでもしたら。
顔から火が出そうなくらい恥ずかしいのに、胸の奥では氷柱みたいな後悔と心配がどっかり居座っていて……もう、肝が冷えっぱなしだ。
「……堪えるわよ」
「え」
――あなたが書いた詩なら、それこそ誰に見られても恥ずかしくない芸術作品に仕上がるんでしょうけど。
あいにく、私はそうじゃない!
「もう、いい。あなたに言われるまで……気付かなかったもの。私が本当に、愚かだった。認めるわ。実力を、見誤ったこと」
もう潔く、社会的な死を受け入れる覚悟で過ごそう。
振り返ると、何故か顔を真っ青にしたアシュレイと目が合った。その手から、私の片方の手袋がポトリと落ちる。
いや、なんであなたがそんな顔をする?
「なによ。別にアシュレイには関係ないでしょう。……詩人リリー・ベネットの活躍に乞うご期待、とでも言っておけば愉快かしら?」
――どうせまた新作を書いてしまうんだろうけど。今度からは絶対、誰の目にも触れない密やかな場所に、そっと閉じ込めるのだ……。
ふっ、と、私は投げやりに笑う。
すると、アシュレイはその整った口元を引き結び、突然、私の肩を掴んだ。ぐっと強引に目線が合わさる。
え? なに?
「リリー」
「なによ。どうしたの」
「あ、の」
アシュレイは言ったきり、珍しく言葉を選んでいるのか、そこで口を噤んだ。
躊躇うように視線を彷徨わせ、泳がせ……やがて私のレポートに目を落とす。
奇妙な沈黙の後。
彼はひとつ息を吸うと、意を決したように話し始める。
「君の理論は……色々、荒削りだ。さっきも言った、けど、干渉応答項の制御が甘いし、定数も見直しの余地がある。正直、最初は『よくあんな博打じみた式を実践に持ち込んだな』って、驚いたし、今だって、完璧とは言えないと思ってる。でも」
一拍置き、彼は私のフェリドナを見た。
「……でも、あの外層光膜の再分化反応。あれは、完全に新しい挙動だった。君の理論によってしか誘導できなかった応答だ。既存のどの育成式にもない」
その瞳が、再び真っ直ぐこちらを見据えてくる。
アシュレイの蒼い双眸には、まるで春の宵の空に似た、静かで柔らかい熱が宿っていた。
「だから、やめるなよ」
……ん?
「提出するのは中間レポートだけにして。もし成熟過程の予測式がまだ詰めきれていないなら、追記すればいい。根部の魔力環流はすでに安定してた。君の方式は、強制補填を使わなくても自然循環を保ててる。それって、十分すぎるくらい革新的なんだ。……君の理論が〝愚か〟だなんて、俺は絶対に思ってない。ただ、分かって欲しいんだ、君が……君は……」
アシュレイはそこで言葉を切る。
最初から最後まで、ひたむきな声音だった。
縋るようで、どこまでも誠実な。瞳の奥を覗き込んでみても、揶揄や皮肉の色はまるで見当たらない。
やめるなよ。
提出するのは中間レポートだけにして。
君の理論が〝愚か〟なんて、俺は絶対に思ってない……。
私は口をぽかんと開け、人形みたいにカクンと首を縦に振った。
「いや、知ってるし、言われなくてもそのつもりだけど……」
私は中間レポートをひらひらと揺らしてみせる。
「え」
「え」
見事に同時に声が重なる。
「え?」
「え?」
まったく同じ一文字が、また交差した。
「……え?」
「……え? アシュレイ、突然、なに? ……なに? 今の一瞬で変な呪術でも受けてしまったの? しんじゃうの!? だめよ! 先生! せんせーーい!?」
「おい、ミスタ・グランマリュエを呼ぶ前に説明しろ! あと俺は死なない! き、君が言ったんじゃないか、『自分が愚かだった』って、『実力を見誤った』って!」
「それは詩の話でしょう!?」
「詩!?」
「そう! 詩!」
「詩」
「詩よ!」
「詩……」
アシュレイ・ソーンヴェイルは、ぽかんと目を丸くした。
パチ、パチ、と数度瞬きを繰り返し、強張っていた眉がすうっと緩んでいく。
そしてそのまま、支えを失った蔓のようにへなへなと姿勢を崩して、「なにが、どうして、そんな……?」と膝に手をついた。
彼はいつも、天から糸で吊るされたように背筋を伸ばす、優等生の象徴そのものだった。
だからこそ、この変化には私も思わず目を見開いてしまう。
「ア、アシュレイ、どうしたのよ」
アシュレイは顔を伏せたまま、「どうもしないよ……」と不貞腐れた声で返事をした。
「……リリー・ベネット。実習は、続ける?」
「え、ええ、もちろん」
「最後まで?」
「じゃないと意味がないでしょう」
「俺の隣で?」
「区画的にそうなるわね」
「そう……」
「良かった」。そう聞こえたような気がしたけれど、あまりにもか細い声だったので、定かではない。
アシュレイは姿勢を正す。
そして、なんとも言えない顔で私を見つめた。
「……リリー、その」
「なによ」
「……君は、詩を書いてるの?」
「うん」
「かわっ……」
……てるね! とアシュレイは続ける。
どうとでも言え。こちとら一万二千人が利用している投稿サイトに自らの恥を誇らしげに投下してきたのだ。今更アシュレイ一人にからかわれたところで痛くも痒くもない。
むしろ妙にスッキリしてした私は、やけくその勢いで堂々と胸を張り、こう言い添えた。
「ちなみに私の詩集は現段階で全七巻」
「………………」
「初執筆作は、魔法学校の寮で過ごす初めての夜に、ホームシックで書いた『おかえりの魔法』」
「……………………かわい」
「……いですよねぇミスタ・グランマリュエのヒゲは!!」そうアシュレイが妙な勢いで叫ぶと、いつの間にか近くまで来ていたグランマリュエ先生が、チョロンと伸びた顎髭を指で撫でつけていた。
グランマリュエ先生はふうと息を吐いて、「世辞は結構ヨ」とアシュレイの賞賛をあっさりかわす。
「キミらネ、出来が良いからって無駄話……でもないのヨ。前半に至っては五年生がする議論じゃないしネ……けどそれにしたって騒ぎすぎ。二人とも、反省文五枚、ヨロ」
私は目を剥いた。
「五枚ぃ!?」
「先生、僕は騒いだ覚えがないので、書かなくても良いですか?」
「すごいわね、どの口がものを言ってるの!?」
「ソーンヴェイルくん、女性を盾にするのは、紳士として一番イケナイ行いネ」
「やだなぁ、紳士も淑女も関係なく、誰かを盾に出来るならするでしょう。素直と実直が一番痛い目を見る世の中ですから。あ、これ中間レポートです。はいリリーも。二人とも実習は期間の最後まで続けます。リリーは反省文も書きます」
「ソーンヴェイルくん……」
「アシュレイ・ソーンヴェイル!!!!」
純粋に思う。
どうして私は、こんな男のことが、好きで好きでたまらなかったんだろう。
いや、そうか、違う。
正しく彼に恋をしたのは、この後……。
あの、反省文を二人並んで書いた、放課後の……。
――違う、これは、今、思い出さない方が良い。
じゃないと、アシュレイの顔を見るのが辛いから。
今もまだ好きな気持ちが残っていることを、認めるのが怖いから。
私は振り切るように、過去から浮上した。
わたしは彼らが何を言っているのか、さっぱり分かりません。