3
混乱した空気が、ふっとほどけていく。
世界がやわく静まり返るような錯覚。
最初は、季節外れの雪かと思った。でも違う。風に乗って、ひらひらと降りてくるのは、この上なく繊細で美しい白銀の花びらたち。
咄嗟に、男子生徒を両腕で抱き込む。不測の事態であるのは間違いない。けれど、奇妙なほど脅威も恐怖も感じなかった。それに伴うはずの警戒心もまた、どこか遠い。
空を見上げる。
そこに広がっていたのは、花びらと同じ白銀の魔法陣。
言葉を失うほど、美しい陣だった。さながら青いキャンバスに、純白のインクで精緻に描いた絵画のよう。幻想的で、どこか厳かでもある。
その複雑に織り合わされた円環の縁から、ひとひら、またひとひらと、花びらが零れ落ちているのだ。
「これは……」
――《静息花環》。
高度な制御を要する結界術式。
この魔法を使えるのは、私の知る限り、ただ一人。〝彼〟しかいない。
花びらは、地面に触れた瞬間、白い花となって中庭を彩っていく。
咲いた花は八重咲きのマーガレットによく似ていた。淑やかに麗しく、それでいて、輪郭はふっくらとやわらかい。
綿毛のような光をまとうその姿は、何もかもを忘れて、思わず触れたくなるほど優しい。
――それは、魔法生物にとっても同じだった。
残っていた八匹のバーフィーたちが、いつの間にか花のそばに集まり、花畑と化した芝生の上を楽しそうに跳ね回る。
足元の花を揺らしながら、降り注ぐ花びらを避けたり、追いかけたり、受け止めたり。まるで目一杯、この世界を遊び尽くそうとするかのように。
……バーフィーが、召喚実技の初回課題に選ばれる理由は、明快だ。
一に、攻撃性がないこと。
二に、この魔法生物が『人間と遊びたい』という理由だけで、この世界に来てくれること。
多くの魔法生物が、召喚に魔力のほか、物理的・概念的な代償や儀式を要するのに対し、バーフィーにはそれがない。
『来て欲しい』と願えば来てくれて、『遊んでくれた』と感じたらさっさと帰ってしまう。
契約を結ぶのが難しい反面、誤って〝契約してしまう〟リスクも極端に低い。
さらに言えば、多少……多少! 粗雑な魔法陣であっても、バーフィー自身が補正し、自力で帰っていける。
だから本来、魔力が尽きるまでバーフィーが召喚され続けたとしても、彼らは来られるだけ来て、遊べるだけ遊び、勝手に帰っていたはずなのだ。
せいぜい、術者の魔力がすっからかんになって、へとへとに疲れ果て、翌日は全身が筋肉痛……そんな程度の小さな失敗で済んだはずだった。
なのに、どうしてここまで大ごとになったのか。
いや、大ごとに〝してしまった〟のか。
……そして、その収拾にここまで手間取ったのは、誰か?
無意識のうちに唇を噛む。
自分が情けなかったから。
ふと気づけば、中庭の中心に、代替の帰還陣が浮かび上がっていた。
バーフィーたちは白い花々に導かれるかたちで、自然とそこに集まっていく。
私の結界球に収めていた個体たちも、ふよふよと漂いながら陣の上へ集ったかと思うと。
ぱっと、花弁が水沫のような光を帯びて弾ける。
バーフィーたちは無事に、そろって、元の世界へと帰っていったのだった。
そうして、帰還陣が閉じるのと同時に、白銀の花々も、しんと音もなく散っていく。
消えゆく花びらが残す光の尾、それが宙に溶けきるまでの、ほんの瞬きのあいだ。そのひとつひとつに、言い尽くせない美しさがある。
見る者の目を奪い、心を攫う力がある。
騒然としていた中庭の生徒たちも、気付けばこの魔法に見惚れ、すっかり落ち着きを取り戻していた。
なにより、私の腕の中にいる男子生徒も、またそうだった。血の気のなかった顔にはほんのり色が差し、呼吸も穏やかなものへと変わっている。
すやすやと、深い眠りのような寝息を立てる彼を見て、私はようやく、心の底から安堵の息をついた。
《静息花環》は、領域拘束と誘導、そして鎮静を組み合わせた、極めて精密な複合術式。
本来は、魔法生物や暴走した魔術、魔具を隔離・制御するためのものだけれど、副次的に、対象の魔力流動を平常値へと緩やかに戻す作用もある。
暴走した魔法生物なら通常状態へ。魔力欠乏症に陥った術者なら、その手前の安定状態に。
……つまり〝彼〟は、たった一人で、暴走した魔法生物を鎮め、帰還させ、混乱していた生徒たちを静め、魔力欠乏症に陥った生徒の容体までも安定させたわけである。
――完敗だ。
人間の都合で呼び寄せた魔法生物に最大限の敬意を払い、魔法の美しさでもって、この場をまるごと収めてしまった。
私がしたくても到底出来なかったことを、いともたやすく、当たり前のようにやってのけたのだ。
別に勝負をしていたわけじゃない。
だから、この感情は見当違いも甚だしい。
さく、と芝生を踏む音がする。
視線を向けると、そこには想像していた通りの人物が立っていて、〝彼〟はちょうど、魔法杖をショルダー型の携行装具に収めるところだった。
きっと、何も知らない生徒たちは、〝彼〟を見てこう思ったはず。
さっき空から降ってきた白銀の花が、もしも人の形をとったなら。このような姿をしているのではないか? と。
均整の取れた長躯。
静かな湖底を思わせる、凪いだ蒼の双眸。
艶やかな銀の髪は、星の光を撚って編んだ絹のよう。
すっと通った鼻梁に、端正な薄い唇。
彫刻めいた美貌の持ち主で、触れることさえ憚られるような清閑さをまとっている。
けれど、その無機質なまでに整った容姿は、不思議と冷たい印象を感じさせなかった。
アシュレイ・ソーンヴェイル。
私が勝手に宿敵にし、ライバルにし、何かにつけて張り合い、無理やり因縁をつけた相手であり。
学生時代、実技でも座学でも、一度たりとて勝てなかった、生粋の天才だ。
……さらに言えば。
彼は私の初恋であり、そして私を丁寧に振った、紳士である。
実に、六年ぶりの再会だった。
「ソーンヴェイルさん」
認めよう。
私は確かに、こいつに対して、敗北感に打ちひしがれていた。
――のも、一瞬の話だ。
私は胸元から薄いクリスタル板の魔導端末を取り出すと、召喚魔法行使後の基本的な測定と確認を手早く行う。
生徒の安全確保と術後の状態確認は、教育現場における最優先事項だ。
加えて言えば、術後処理とその報告は法典上の義務でもあり、怠れば教育者責任が問われてしまう。
幸い、アシュレイ・ソーンヴェイルが極めて正確に、暴走した術式の停止と召喚陣の処理、さらには乱れた結界の再構築までを行ってくれたおかげで、私の仕事は本当に『確認だけ』で済んだ。
「帰還時刻記録よし、魔法陣残留なし、結界補強完了、魔力干渉レベル三階調整値でマイナス二・四。干渉なし。安全域を確認。――ご助力に感謝します」
私は小さく頭を下げる。
アシュレイ・ソーンヴェイルは、こちらに気づいたその瞬間から、ずっと言葉を発さずにいた。
が、この時になって初めて、「……ええ」と小さな相槌が返ってくる。
そして、ようやく。
バタバタとした足音とともに、回廊の向こうから魔法言語学担当のティアナ先生が駆けてきた。
彼女は豊満な胸元を揺らしながら、汗を拭うことも忘れ、「はいごめんねぇ」「はい通してぇ」と生徒の間をかき分ける。その間、生徒たちの間ではまた違うどよめきが起きていた。こら、胸をそう見るんじゃない。
「はーい、通ります、通ります! あ、リリー先生ぇ! 遅れてごめんなさいねぇ、旧実験区域でちょっとした騒ぎがあって……あらぁ?」
ティアナ先生は、アシュレイ・ソーンヴェイルと私を交互に見比べ、ぱちぱちと瞬きをした。
そのローズヒップティー色の瞳は、『困惑』よりも先に『興味』の色を濃くする。
私は腕の中の男子生徒を横抱きに抱え直し、ティアナ先生に向かって口早に告げた。
「召喚式を行使した生徒に輸魔処置が必要かもしれません。今は落ち着いていますが、魔法陣の暴走により意識混濁、反動兆候が見られました。このまま医務室へ向かいます!」
「後のことはよろしくお願いしますー!」と言い置いて、足を踏ん張り、中庭を突っ切り、医務室に向かって回廊をひた走る。
この男子生徒は魔力欠乏症だったのだ。
今は安定して見えるとは言え、検査が必要なことに変わりはないし、場合によっては、それこそ輸魔処置が求められるかもしれない。それなら、なるべく早い方が良いわけで。
別に逃げたわけじゃない。
そう、そうそう。
――いやいやいや。
べつにあの場が気まずかったとか、そんなわけない。
どんな顔をすれば良いか分からなかったとか、そういうのでもない。
私もいい大人だし。六年も前のことだし。
もう好きでもなんでもないし。
そもそも、なんでロズリンに? どうしてここにいたんだろう?
もう好きでもなんでもないし、興味もないけど、なんとなく、うっすら、共通の友人から『魔法省に勤めてる』とか聞いたような、聞かなかったような?
いやいやいやいや。
別に、どうでも、いいけど。
――『リリーとは、ずっと友達でいたい』。
最終学年、卒業を直前に控えたあの日。
図書館で、切羽詰まった顔で言われた、あの言葉。
「うわーーーーーー!!!!」
その咆哮は、150センチしかない私が男子生徒の重みに耐え抜くための気合いだったのか。
はたまた、ありし日の記憶を思い出したせいの、自己嫌悪と羞恥ゆえだったのか。
私自身も、分からなかった。