私は何者か? 続き
前回の「想定外の訪問者」にせよ、時系列的にはそれから10年後に起きた「とある保守政党の、とある政治家の話」にせよ、私が遭遇したのは、普通の人間では人生で一度も起きないはずの事件だ。
これは、私の能力が異常過ぎることが原因だろう。
一方、異常な事態に正しく対応することができたのは、心の中で準備ができていたせいだろう。
私には父方、母方それぞれに、深い因縁の有りそうな先祖がいる。
最初の「私は何者か?」で書いたように、私の母方の曾祖母は予言で知られた明治時代の霊能者だった。しかし最終的には不遇の死を迎えている。
彼女は祈祷師でもあり、依頼を受けて祈祷を行うことも生業の一つだった。
ある日、曾祖母の元に一組の母娘が客として訪れた。
娘は不治の病に侵されており、すでに医者からも匙を投げられていた。母親は、娘の病気を治すために、祈祷をして欲しいと願い出た。
医者が治せないと診断した病気を、祈祷で治すことなどできるはずがない。
曾祖母はそれに気が付いていたが、助けを求めている相手を見捨てることもできなかった。そこで、依頼されたとおりに祈祷を行った。
もちろんこの場合の祈祷は気休めにしかならない。あえなく娘は病死してしまった。
ここまでは、単純な話だ。
残酷な自然が、残酷な勝利を収め、遺された人々は無力を噛みしめる。はるか昔から人が繰り返してきた、ありふれた絶望の物語だ。
問題だったのはここからだ。娘を失った母親は、自分の娘が死んだのは祈祷師のせいだと言い出したのだ。しかもその女性はマスコミにコネがあり、その影響力を使って新聞に曾祖母の悪口を書き立てたのである。「人を騙し、役にも立たない祈祷をして、金を巻き上げる悪人」として。
霊能者というのは、普通の人では拾えない情報が拾える人であるけれど、その影響力は人の信頼に依存する。どんなに正しい情報を話しても、人が信じてくれないと無力なのだ。
そういうわけで、霊能者にとって最大の財産である信頼を壊されてしまった曾祖母は、間もなく衰弱して死んだ。
無惨な話である。
父方は父方で妙な話がある。
父の実家は鎌倉時代から続く神主の一族なのだけれど、大叔父(祖父の兄弟)が言うには、かつて明治維新を起こしたとある人物も、実は一族の出身なのだという。
祖母の葬式に現れた大叔父は、一族の栄光と使命を語った。
「お前はいつか、日本を救う」
彼は、私を指さしてそう言った。
その時はまだ子供だったから、私は素直にその話を信じた。そして父に、大叔父の話を伝えた。
ところが父はむっすりと不機嫌になり「その話を外で言うな」と釘を刺した。
ほかの親戚の話を聞くうちに、大叔父の評判が悪いことを知った。
かつて神社を改築したとき、他の親族に何も相談なく予算を決めて、一族から半ば強制的にお金を徴収したこと。神社は歴史があるというけれど、社殿が立ったのはせいぜい江戸時代で、それ以前は何をしていたのか確かな証拠がないこと。
本当は何者なのか知れたもんじゃない一族をさも大物のように語り、栄光だのなんだのと怪しい話をする。大叔父の話は妄想みたいなものだ。せいぜいそのつもりで聞いておけ。
ガッカリした。
言われてみればその通りだ。うちのご先祖は神主か、下級の武士か、さもなければ農民かで、似たような一族なんて日本中にいくらでもいるだろう。
優秀な人材が生まれたとしても、たかだか中の上程度の人間で、明治維新に関わるような仕事をしたなどと、そんな御大層なことがあるわけない。
俺の人生はせいぜい「こんなもの」だ。
変にスレて自分を過小評価し、達観しているようなフリをする。そういう思春期にありがちな冷笑主義も相まって、私は大叔父の話を一旦忘れた。
忘れていた。
現実に、自分が異常な体験をするまでは。
これまで話したことを辿ってみよう。
コミケでたまたま小説家志望者や漫画家志望者の有望な人材に出会い、何を書くべきかを教えた。これは、ちょっと運が良い程度のことだろう。
私のところに話を聞きに来た芸能界の人物が、偶然、私の過去の知り合いを連れてきていていて、芸能界と政治家に予想外のコネができた。妙に運が良いが、不自然ではない。
ハリウッド映画業界から企画を探してやってきた人に遭遇したこともある。そこからコネを広げていろんな映画俳優や映画監督に会い、多数の映画を立案した。これも驚くほど幸運だけど、理解不能ではない。
IT業界のイベントに行ってみたら、なぜか世界的な機関投資家がそこにいて、声をかけられて、意見を求められ、さらには歴史への干渉が可能となった。
これは、運が良い……のか? いったい何が始まったのだろうか?
プーチンが来たのは?
アメリカの議員が来たのは?
保守政治家のS氏に会ったのはどうだ?
私は自分の身の丈に合わないことが起きるたびに、自分の正気を疑ったものだ。
ひょっとして、私が現実だと思っている世界は、誰かの作った芝居なのではないか。
私はそんな偏執病じみた恐怖に駆られる。
自分の周囲を見渡して、誰かがカメラを回しているのではないか、芝居の監督がどこかで私を見ながら拙い演技に舌打ちしているのではないか、そんなことを考えて視線をさまよわせる。
もちろん、どこにもそんな人はいないのである。
そして思い出したのは大叔父の話である。
私がそういう「役目」を負っていると仮定すれば、一応、なんとか、この非現実も受け入れられなくもない。……かもしれない。
私は強引に自分を納得させ、必要な情報を、必要とする相手に提供したのである。
それにしても、大叔父は何を知っていたのだろうか。
彼はずいぶん昔に死んでしまって、もう話を聞くことはできない。何を知っていたにせよ、それを突き止める手段は失われている。
大叔父の言う「明治維新を起こした人物」の子孫はご存命であり、ある政治団体が、私と、ご子孫のDNA鑑定を試して比較してみたところ、幕末ごろに共通の親がいるという鑑定結果がでてしまった。本当に血がつながっていたのだ。
大叔父の話の少なくとも一部は本当だったわけだ。
私が「この程度」だと思っていた現実こそ、偏見に満ちた妄想だった。
逆に大叔父の妄想だと思っていた話こそ、現実の一面だった。
なんなのだこれは。
この話の締めとして、言わせてほしい。
もしも現実のすべてが、神の考えた芝居であると仮定するなら、彼は脚本家として最低である。
あらゆる事件が全部「たまたま、偶然、幸運でした!」という理由で起きるご都合主義だらけの脚本なんて、ド素人でも書かないだろうから。
そんなものを平然と本番にお出しするんじゃあない。お客さんを舐めるな。
可能なら、神を机に座らせて小一時間ほど脚本のアラを詰めてやりたいところである。