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掃除屋  作者: ひよこ倖門
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第一章 4

 午後からの作業は、貴族の屋敷内での清掃と敷地内の整備である。

 貴族の屋敷はあるが、ココノツは貴族によって統治されているわけではない。各国へ渡れる洞窟ルートがココノツにあるため、貴族ではなく、防衛の意味も込めて王(みずか)らの領地となっている。

 しかし、王が領主になるわけにもいかず、ココノツの住民たちが暫定的に一年(ごと)の持ち回り制にしていた。現在は三代目として、掃除屋の親方が領主の責務を(にな)っている。

 ココノツは終戦後からは国境を守る土地として存在を誇示しているが、戦前から氷山より吹く冷気を緩和させるよう常設されている暖炉を有効活用したサウナを伴う治療院が多く、観光事業の一つとして確立されていた。

 そのためココノツにある貴族の屋敷の大半が治療院で湯治する際に使用する別宅であり、屋敷に滞在することが決まればその都度掃除や整備を行うシステムが()られてる。

 今回も王都から半月ほど湯治滞在する貴族の屋敷の整備一式を任されていた。

 屋敷中の掃除や整備は掃除屋であるティナが(まと)めて担当しているが、洗濯だけは苦手としているため担当が別に就いている。

 カーテンを始めとする大物を洗濯場へ持っていくと、顔馴染みのタリアが細々(こまごま)とした装飾を洗っていた。

 タリアはマルト食堂のウェイトレスでありながら、フリーの洗濯屋でもある、“掛け持ち(ジョブジャンキー)”というこの国では珍しい職業に就いている。

 掛け持ち(ジョブジャンキー)は、仕事を掛け持ちしなければ生活できない貧困者として差別の対象になりやすい職業だ。彼女がそんな差別の対象になりやすい掛け持ち(ジョブジャンキー)に就いているのは、貧困者だからではなく、色々な職業を体験しておきたいという彼女の変わった事情からである。

 事情を知っている者は少ないが、タリア自身はその人柄から性質を判断されることが多く、今のところ差別されるような大きなトラブルに遭うことはなく仕事を()なしていた。

「貴族のお屋敷に滞在があるのも久し振りですけど、まさか由緒正しき貴族が来るなんて、そっちのほうが驚きですよねぇ」

 ティナとタリアがこの日担当している屋敷は、由緒正しき貴族の直系であれば誰であろうと使用する権利のある、由緒正しき貴族全体の不動産である。

 不動産の管理はココノツにある由緒正しき貴族館の職員たちが、各家庭のスケジュール管理調整を始め、滞在中の食事や王都からココノツまでの馬車の手配まで一括して取り(まと)めていた。滞在前の掃除屋等の手配も彼らの仕事の一環である。

「そうなのか?」

「あら、ティナさんは知らなかったんですか? 今度このお屋敷に滞在されるのは、由緒正しき貴族のコインズ侯爵夫人とマダナノ侯爵夫人ですよ」

「へぇ、侯爵夫人が二人もか。由緒正しき貴族が来るとなれば、街の対応も大変だろうな」

 どちらの侯爵夫人もこの国で知らない人はいないだろうというほど、名は知れ渡っていた。 

 コインズ侯爵夫人はおっとりとした雰囲気をもつ貴族らしい女性であり、マダナノ侯爵夫人はキツめ目元が印象的な威圧感を与える女性である。正反対な二人だが、彼女たちは由緒正しき貴族夫人としての矜持(・・)を強くもっていると言われ、由緒正しき貴族の中でも中枢を(にな)う存在だ。

 王の領地であるココノツは、王が(おこな)う改革に反対する者が多い由緒正しき貴族や正貴族と相性が良いとは言えない。しかし、王の領地になる前から湯治目的で訪れる貴族が多いため、対応は他の領地よりも気を遣わなければならないのも実情だ。

「そうですね、王様が階級撤廃を決められたとはいえ、貴族のかたに失礼な真似できないって、皆さん緊張してるみたいですよ」

 大量の洗濯物を洗い上げる手を休めることなく、掃除屋の男たちと同じように収集してきた情報をティナに教えるタリアは「困りますよねぇ」と苦笑した。

 彼女が苦笑した理由は、恐らく昼間の噂のせいもある。ウェイトレスや洗濯屋のように、人の流れによって仕事量が変動しやすい職業は街が不安定になれば仕事を失うことにも繋がるからだ。

 凶行が噂されている王子一行が近隣の街に現れたとなれば、いつココノツに現れても不思議ではない。

 女を玩具のように扱う王子一行が、由緒正しき貴族が滞在している時に現れ、由緒正しき貴族夫人を玩具のように扱いでもすれば責任は街に問われる。領主が持ち回りであるために、王の領地であるココノツで悪行の限りを尽くされたら、王は失脚を(まぬが)れない。

 昼間の噂だけでは、王子一行の居場所や凶行の審議は(おこな)えず、情報収集の専門職人たちが噂の真相を探りに()っているはずだ。

「まぁ、噂がどこまで真実なのか解らないのに心配するのはどうかなって思うんですけど。この国も、この街も、復興したばかりだから」

「そうだよな、好き勝手な理由で振り回される身にもなってほしいよな」

「本当にそれです」

 雑談を()わしながらも屋敷を整えていく二人のスピードは落ちることなく、夕方には乾いたカーテンなど大物を二人で協力して飾りきり、屋敷を整え終えた。

 普段であれば、掃除屋か洗濯屋のどちらかの親方が最終的な確認を(おこな)うのだが、この日は業務を終えてもどちらも来る様子がない。それを不思議に思ったティナとタリアは街の業務報告所まで戻り、現状を確認することにした。

 二人揃って屋敷を(あと)にしようとした時、カンカンカン、カンカンカン、カンカンカンと高い音が辺りに鳴り響く。

 間を開けず、等間隔にカンカンカンと三回鐘が街中へと鳴り響いていく。

 これはココノツの警戒の鐘だ。

「タリア、街に戻って非難誘導を」

「解りました! ティナさんは」

「おれは検問所へ()く」

 三回続きの鐘が等間隔に鳴る警戒鐘は、鐘の種類の中でも特に緊急性が高い。この鐘が鳴る時は、盗賊等の手を汚すことを躊躇(ためら)わない犯罪的集団が近づいていることを()すからだ。

 タリアが街中へ戻っていくのを視線だけで見送りつつ、ティナは検問所へ向かって走り出す。走り抜けていく間にも、皆が街中から街の奥にある砦へと避難していく姿が確認できた。

 ココノツでは国境守備の影響で、幼い頃から警戒鐘の種類を学び、種類(ごと)の危険性を覚えさせられているため、皆慌てることなく避難していく。

 砦には国境警備隊が控え、検問所が破られた時には私兵団の代わりを(にな)い、ココノツを守護するのだ。国境警備隊も鐘の種類を把握しているため、避難誘導を請け負い、皆もそれに従っている。

 検問所が近づくにつれ、血の臭いが濃くなっていくのを肌で感じながら、ティナは検問所までひたすら走り続けた。

 辿り着いた検問所は血の臭いが充満し、私兵団からの増員と砦からの医師派遣がされている。私兵団は意識のある同僚から状況を問いただし、街中へ団員たちを振り分けているようだ。砦から医師が派遣されているのは、街中の医師では戦闘で負傷した者を診ることができないからだろう。

 私兵団に混ざり、負傷した団員たちに近寄るティナを()める者はおらず、息も絶え絶えに同僚に報告している負傷兵に近づいた。

「……最後に見たのは、コイン、ズ侯爵……の紋章が入った馬……車が通りすぎ……たところ……だ」

「コインズ侯爵だと? 滞在は明後日からのはずだが」

 報告を受けた団員はそれも伝令に走らせ、申し訳なさそうに手当てを受ける負傷兵に「おまえがやられるなら大概の団員がやられてる」と慰めている。負傷兵はそれに苦笑して、ついには意識を飛ばしたようだ。

 負傷した団員は三名と少ないが、国境警備隊と同等の力量をもつ私兵団員を落とせるほどの実力者であることは周知、早々の対応をしなければココノツ全体の被害は予測できない。

 ティナが街中に逃れた馬車の行方を考え、ぐるりと視線を巡らせていると、領主たちが検問所へ向かってきているのが見えた。

「ティナ坊、こんなとこで何してる」

 襲撃現場に関係のないティナに気がついた領主が疲れきった表情(かお)で問う。それによって周囲に認識されたティナは嘆息して「鐘が鳴ったんで、なんか役に立てないかと思って」と答えた。

「あぁ、人手は足りてねェが、ここは私兵団の連中に任せときゃいい。おれたちァ、ここにまで人手割けねェからな」

 親方としてではなく、領主としての意見にティナは頷く。検問所に来る前に領主たちに何かがあったことは明白だが、それをここでティナに明かすつもりもないようだ。

「それよりも馬車の行方を追わねェと、面倒なことになりそうだ」

「解った、馬車の行方のほうに回る」

「全くお貴族様ってのァ、自由(・・)だな」

 ガリガリと頭を掻きながら嫌味混じりにぼやく領主に「そうですね」と苦笑する。

 国境を(にな)う土地ということもあり、ココノツは街としては馬車でも一日では回れないほど広く、国境を越えずとも隠れる場所はいくらでもある。それを知っているからこそのぼやきに、ティナたちは早々に街中へ散っていった。

「ったく、次から次へと厄介事ばかり持ち込みやがって」

 走り去っていくティナたちを見送りながら、溜息を()きながら(こぼ)した領主の呟きは誰に聞かれることもなかった。

 砦へと避難していく人たちの間を縫うように慌てた様子で走るティナたちに気づき、道を開けてくれる人が多いおかげで立ち()まることもない。

 鳴り続けている鐘とティナたちの様子から、かなりの非常事態だと判断した人も多いようだ。

 馬車の通れない路地裏を駆け抜け、マルト食堂のある商業エリア方面へと足を向ける。住居エリアを選ばなかったのは、街中へ押し入ったのが恐らく貴族だからだ。一般的な町民と貴族では姿格好から差が出るため、隠れるには向いていない。

 商業エリアであれば、宿屋も営業しているため、貴族が馬車で移動していても不審には思われず、ましてや皆が徒歩で避難している中での馬車移動は貴族だと勝手に納得してしまうのだ。

 不審な馬車や人たちかいないか視線だけで確認しながら走っていくと、何処からか金属がぶつかり合う音が(かす)かに聞こえる。

 一度立ち()まり、耳をすませ、音の方向を探った。

 建物に反響して解りづらくなっているが、マルト食堂がある大通り方面から強く聞こえてくる。音の方向を定めて、再び走り出した。

 大通りでは二人の男が剣を(まじ)えている。一人は私兵団の制服を着ているが、他の団員より少し華美になっており、恐らく団長クラスだと思われた。もう一人は御者の格好をしているが、御者で私兵団と打ち合えるほどの実力者だと知れるところをみると、恐らく襲撃者の一人だろう。

 激しいぶつかり合いをしている二人の決着の行方をそれぞれの陣地で観ている人たちがいた。ティナは大通りへ出ることなく、物陰に隠れて状況の把握を優先する。

 数度打ち合って決着がつけられないと悟った二人がそれぞれの陣地に下がると、御者の背後から扇で口許(くちもと)を隠した女が進み出てきた。

「なんですの、ココノツでは由緒正しき貴族を迎え入れる時に兵を差し向けるんですの?」

 ぱしんと扇を掌に打ちつけながら、小首を(かし)げているのはコインズ侯爵夫人。その隣では無様にも路上に座り込んで立てずにいるマダナノ侯爵夫人を、護衛や侍女たちが周囲から隠すよう取り囲んでいる。

 その集団の前にはココノツの私兵団員たちが武器をかまえ、警戒を(あら)わに立ち(ふさ)がっていた。

「滞在は明後日よりと伺っております。滞在が変更になったことを連絡もされず、街の検問も門番の団員を気絶させ通っているとなれば、お話しを聞かせていただくのが我らの仕事です」

 苛立ちや見下(みくだ)す色を隠すことのない侯爵夫人たちに怯むことなく、私兵団の団長と覚しき青年は答える。

 団長と覚しき青年の言葉通りであれば、いくら由緒正しき貴族とはいえ、国法に(のっと)り調書することは可能だ。しかし、由緒正しき貴族たちは国法よりも、階級からの圧力(プレッシャー)で事態を乗りきろうとする。

 恐らく検問を強行突破した彼らを探し出した団員たちが調書しようと声をかけたことで、侯爵夫人のどちらかが悲鳴を上げた。それに反応した護衛たちと団員たちとが剣を(まじ)えた(あお)りを受けて、マダナノ侯爵夫人は座り込んでしまったのだろう。

「なんて野蛮なんですの! 下々の分際でわたくしたち由緒正しき貴族に指図するなんて、一体ココノツではどういう教育をしているんですの?」

「少なくとも有無を言わさず、検問の団員を殴り飛ばすことはしないだろう。それに階級制度は廃止が決定されている。由緒正しき貴族というのなら、そのくらい知っていて当然だろうな?」

「貴様、由緒正しき貴族であるコインズ侯爵夫人とマダナノ侯爵夫人を侮辱する気か!」

 コインズ侯爵夫人の圧力(プレッシャー)を受け流し、嫌味を(まじ)えて答えられるほどには団長と覚しき青年の頭の回転は早い。国法が改正され始めて三年も()っていないというのに、階級制度の廃止決定まで理解している青年に護衛が()える。

 ()える護衛には全く目を向けず、団長と覚しき青年はコインズ侯爵夫人から目を離さない。

「階級制度廃止がなんですの? わたくしたち由緒正しき貴族がいたからこそ、この国は栄えてきたんですの。わたくしたちを(ないがし)ろにするような国はあっという間に()ちていくだけですの」

 口許(くちもと)を扇で隠しながら高らかに宣言するコインズ侯爵夫人に、彼女を取り巻く護衛たちも同意を示した。マダナノ侯爵夫人もコインズ侯爵夫人の隣に並び、団長と覚しき青年を見据える。

 ピリッとした一触即発の空気の中、カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンと、先程まで鳴っていた警戒鐘とは別の鐘が鳴り響いた。

 連続して鳴り続ける警戒鐘は、避難所へとにかく逃げて籠城しろ、である。

 由緒正しき貴族たちには馴染みのない警戒鐘に驚いているコインズ侯爵夫人とマダナノ侯爵夫人に「今は早く砦へ逃げろ」と叫ぶと同時に、私兵団員たちは街の検問所へ向かって走り出していった。

 そんな彼らの様子を見ていたティナは侯爵夫人たちの傍に寄り、警戒鐘の種類を教えることもせず、緊急事態だと全面に押し出して告げる。

「今は私兵団の言う通り、早く砦へ逃げてください」

 急に現れて指示をしたティナを視界に映し、コインズ侯爵夫人は扇を彼に突きつけた。

「砦に泊まるなんて有り得ないですの。別宅の手配はしてあるのだから、ぐずぐずせずにさっさと案内するんですの!」

「この鐘が聞こえませんか? 砦に逃げなければ、貴女がたの安否は保障できません」

「何を勝手なことを言ってるんですの? 由緒正しき貴族であるわたくしたちに砦のような、人が住むところではないところで過ごせと言うんですの? 早く別宅に案内するんですの!」

 おっとりとした雰囲気とは裏腹の態度にティナは現実を伝えるが、大戦中も王都でたくさんの護衛たちに守られていたのであろう彼女たちには通じなかった。

 気づかれないように溜息を()いたティナは、別宅に案内しても安全ではないことを理解させるよりも、御者のような私兵団に匹敵する者が護衛として就くほうが安全かと、彼女たちの指示に従うことを選択する。

「安全の保障はできません。それでかまいませんね?」

 念を押すように問いかけ、視線はコインズ侯爵夫人たちではなく、御者に向けた。御者は勘が良いようでティナの意図に気づき、軽く頷きを返してくる。責任はどうやら御者にとってもらえるようだ。

「貴方も先程の下々と同じなんですの? わたくしたち由緒正しき貴族は、指図を受ける立場じゃないんですの!」

 妥協案を提示したティナに対し、コインズ侯爵夫人は納得がいかないようで、尊大な態度を崩さない。マダナノ侯爵夫人もそれに追随するように毅然とした態度で控えていた。

 警戒鐘はまだ鳴り続けている。ティナは(ふところ)に入れていた別宅まで地図を御者に渡し、侯爵夫人たちに向き直った。

「警戒鐘がこれほど鳴り続けている中、指示に従っていただけないのなら、身の安全は保障しません。それから、ココノツが王の領地であることはご存知だと思いますが、王の領地で堂々と国法を(やぶ)ったり、階級を笠に着せ好き放題することがトラブルにならないと思っているのなら」

 差し向けられている扇に手を伸ばし、扇ごと手を()ろさせる。不審な視線が向けられているが、一切を無視し、ティナは侯爵夫人たちにだけ聞こえる声量で最終勧告を突きつけた。

「それは思い上がりというものだ」

 答えを聞くことなく、ティナは元来た道を戻っていく。

 去っていく後ろ姿にティナの捨て台詞(ぜりふ)反芻(はんすう)した侯爵夫人たちは、それ(・・)に気がつき、顔面蒼白になって崩れ落ちた。





 フィオーネ・マダナノは鳴り響く警鐘の中、震える身体(からだ)を抱きしめながら、彼が走り去っていく姿を眺めていることしかできない。顔は恐らく座り込んでいるコインズ侯爵夫人と同じくらい真っ青なのだろう。

 この日、フィオーネがコインズ侯爵夫人に誘われて訪れたのは、国境の街ココノツだった。

 誘いをかけたコインズ侯爵夫人(いわ)く「夫がココノツで何かするようなので、こっそり見学に()こうと思いますの」とのことだが、婿養子のコインズ侯爵が好き勝手しているのが気に食わないのだと態度から察する。

 それでもフィオーネがコインズ侯爵夫人の誘いに頷いたのは、国境の街を訪れたことがなかったからだ。

 侯爵夫人ともなれば好き勝手に旅行もできず、お茶会や夜会等の社交に忙しい。同じ侯爵であっても、コインズ侯爵のほうが格上なため、今回の旅行は叶えられた。

 けれど、それが間違いだったのだろう。

 いや、どこから間違えてしまったのか、フィオーネにはもう解らなかった。

 コインズ侯爵夫人に仲良くしましょうと誘いを受けた時なのか、由緒正しき貴族の中枢を(にな)う存在をアピールするために媚びを売ったり身分差別を徹底した時なのか、侯爵家であれば叶わぬことなどないと検問所を強引に通り抜けた時なのか、それはもう幾つもの心当たりがある。

 そもそも、由緒正しき貴族の中枢を(にな)う存在にフィオーネがなれたのも、ひとえにコインズ侯爵夫人と懇意にしているからだ。

 彼女の夫であるコインズ侯爵が国庫を取り仕切る財務大臣であるが(ゆえ)に、コインズ侯爵夫人は他の由緒正しき貴族から一目置かれて中枢を(にな)う存在になり、フィオーネはそのおこぼれに(あずか)っているにすぎない。

 つまりはフィオーネの夫であるマダナノ侯爵だけであれば、由緒正しき貴族の中枢を(にな)うことはできなかった。欲のないマダナノ侯爵は生涯由緒正しき貴族の末席のままだろう。

 しかし、それで良かったのだ。高望みはしてはいけなかった。分不相応だと、きちんと理解しておけば良かったのだ。もっと、謙虚でなければならなかった。

 顔面蒼白のままのコインズ侯爵夫人を眺め、フィオーネは(なげ)く。

 由緒正しき貴族の中枢を(にな)う存在であることが、たった一瞬で崩れ去ることなど誰も想定していなかっただろう。

 心の中でマダナノ侯爵に詫びる。

 許されるのであれば領地の片隅で暮らしていきたいが、事の次第はフィオーネにもコインズ侯爵夫人にも(くつがえ)すことはできない。

 ましてや由緒正しき貴族にはその権利が発生することはなくなった。それが彼の答えなのだと、去っていった後ろ姿から感じられる。

 何故(なにゆえ)に大戦が起き、誰がどうして大戦を(おさ)めたのか、フィオーネはこの時初めて自覚したのだ。



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