第一章 2
国土の70%が氷に覆われている国“氷の国”の王都“ヒトツ”で唯一の高層な、氷山を模したような王城“氷王城”。背後にはこの国で一番大きな氷山が聳え、その壮大さを物語っている。
宰相であるラルフ・イノーリは王城の廊下を早足で執務室へ向かっているところを、弛んだ身体に行く手を塞がれた。相手に気づかれないように嘆息しつつも、それを表情に出さないようにすることはラルフにとって日常である。
弛んだ身体の持ち主は、氷の国の由緒正しき貴族の一つ、ダルダルン侯爵だ。大戦後より宰相を務めているラルフの出自を厭み、侯爵という己の身分をひけらかし見下してくる一人でもある。
氷の国には、建国した当時からの階級が存在し、未だに勢力を保っていた。その建国した当時からの階級のトップに立つのが、由緒正しき貴族である。
由緒正しき貴族は十の家系があり、建国した王族の信頼できる家臣だったという。その後から国より与えられた貴族を正貴族、それ以外を平民という三階級がある。実際はそれぞれの中でも階級が存在しているため、正確には三階級ではないのだが、国として正式に認めていた階級はこの三階級だけなのだ。
この階級制度で言えば、ラルフは最下層の平民出身であり、由緒正しき貴族からすれば、平民は炉端の石ころ程度の存在だという。現在はその階級制度を廃止させつつあるのだが、現王に反発を抱いている者も多く、未だ扱いに差が出やすいのが現状である。
ニヤニヤと下品な笑いかたをしている侯爵に、感情をのせることなくラルフは問いかける。
「何かご用でしょうか」
その間にも周囲を観察することは忘れず、各所に護りとして配置していた衛兵が誰一人としていないことを確認する。
脅されたのか、金を積まれたのか、はたまた両方であるか、理由はどうとあれ、大戦が終わって三年も経つというのにラルフの味方は少ない。
由緒正しき貴族や正貴族には、侯爵のようにあからさまに見下してくる者が7割、有利に転んだほうに付けるよう水面下で画作している者が3割。つまり、ラルフの味方をする由緒正しき貴族や正貴族はゼロである。
「王子…いえ、王はどちらに行かれましたかな。ここ一年ほどまともにご挨拶もできておらんのだが」
「おや、今朝も貴族協議に参加されておりましたが、侯爵には王の姿が確認できなかったと?」
「ワシら貴族の一人一人と挨拶も交わせん協議に参加されておっても、ご挨拶させてもらえてることにはならんだろう?」
締まりのない弛んだ身体を揺らしながら文句を垂れる侯爵に、宰相らしく平坦に返すラルフであったが、侯爵はそんなことでは納得できないとばかりに詰め寄ってくる。
出会い頭のニヤニヤと下品な嗤いかたをしていたことから、ろくでもないことを考えていると確信は持てているのだが、未だ貴族の力が根強く残っているこの国では、平民出身の後ろ楯のないラルフの力ではとても弱く対抗できない。侯爵はそれを踏まえた上でラルフに絡んでくるため、追い返すにしてもかなり苦戦を強いられる。
だからといって、早々に丸め込まれ、侯爵に降る気など更々ないラルフには些細なことだ。
「大戦から三年。いえ、まだ三年なのです、侯爵。王はこの国の復興のため死力を尽くしております。それを支えて差し上げるのが、臣の役目というものではないでしょうか」
信用や信頼を崩すことは一瞬でできるが、信用や信頼を築き直すには以前の倍以上の時間がかかる。前王の失態から失われた信用や信頼が、現王の時代で回復すれば良いことだが、次世代へ持ち越してしまう可能性もゼロではない。その隙を狙われて現状のようになっているのだが、逆にそれを理由に王への直接的謁見を断っている。
それらは王位を受け継いだ時から王が最も懸念していたことでもあり、またこれから先を見据えた上で最も重要とされることでもあり、三年経つ現在でもその天秤を調整している最中だ。
国の復興は三年で回復するようなものではないと、王もラルフも理解しているのだが、由緒正しき貴族を始めとする一部の人間には全く理解できていない。
理解できていない人間に理解させることも年月がかかるため、王はその先を見据えた政策に手をかけている。
だが、その政策は由緒正しき貴族たちに知られることのないよう秘密裏に行われているため、王からラルフへ呉々も国を奪われるなと託けられている。それらを含めた政策のため王城に留まるラルフこそが、王からの信頼の証でもあることに気づいている人間はいない。
「ふん、そんなことは貴様に言われんでも解っておるわ。ワシは王が貴族一人一人を蔑ろにしておるように見えると忠告しておるのだ。王はまだまだ若いのだから、古参の味方を作るべきだとな」
だからこそ、暗に自分を味方にしろと告げた侯爵の言葉は軽く受け流し、話しは終わりだとラルフは侯爵の横を通りすぎようとする。
「……噂話にしかすぎんかもしれんが、ここ最近、国のあちらこちらで王…王子が、饗宴に耽っていると聞く。これが真実だとなれば、この国は終わりだ。その時に誰に選ぶのか、よくよく考えておくことだ」
「―――、ご進言受け取っておきます」
静かに礼をして、侯爵の横を通りすぎていく。侯爵がその後ろ姿に向かって「後悔するなよ」と悪態を吐いているが、後悔などするはずがないとラルフは断言できる。
王とラルフはもう七年以上も付き合いがあり、今更由緒正しき貴族が出張ってきたとしても、簡単に崩せる関係ではない。三年もラルフを勧誘し、失敗している理由がそこにあることに、侯爵はきっと気づいていないのだろう。
味方の少ない現状を打破することよりも、国を復興させること。王はそのために現在も奔走している。
一つ一つ慎重に積み上げるように、国民から信用と信頼を得るために、国の復興の様子を己の目で確認するために。
ほんの少しでも、自国からも他国からも危うい地域があれば、率先して駆けつけていけるように。
それが王の現状なのだが、味方の少なさから現状が伝達されることはなく、侯爵のような思い上がりも甚だしい者が増えてしまっている。
「もう少しですね、王」
執務室近くの窓辺に止まる鷹から書簡を外し、執務室に入り一人呟く。書簡を開くとそこには、ラルフが欲していた情報が記されていた。
「ようやく終わりそうです」
くすりと笑う、宰相であるラルフ・イノーリは、七年以上も前から氷の国の王“システィアリ・ヴァル・カルティス”の忠実なる臣下なのである。
宰相が去っていく後ろ姿を憎々しげに睨みつけ、ダルダルンは「後悔するなよ」と呟いた。平民出身である宰相は、由緒正しき貴族であるダルダルンを敬う姿勢すら見せず、王に忠実であると毅然とした姿勢を崩すことが全くない。
ダルダルンはこの国の由緒正しき貴族の一つである侯爵で、由緒正しき貴族の中でも上流階級として国に貢献してきた。しかし、若い王はそのことを知りもしない。
王は即位してから、階級というものを取り払うように協議で発言し、由緒正しき貴族や正貴族の反対を押しきって階級の撤廃を決定した。階級があるが故に国が回っているということを理解しないのである。
階級の撤廃を忠実に実行し、表面上は対等な関係を持ち始めた国民だが、潜在下では元の階級で人柄の判断をしているし、関わりもそれに倣っていた。
城勤めの人間の多くは、由緒正しき貴族や正貴族の子供たちが奉公に上がっているため、平民出身の宰相を見下している。宰相自身もそれに気づいているはずだが、王が階級撤廃を推しているため文句が言えないようだ。
平民出身であることを擁護すると宰相に申し出たが、きっぱりと断られたのはダルダルンの記憶にも新しい。
弛んだ身体を揺らしながら歩き、ダルダルンは次なる策を練り始める。
最初の計画では前王が崩御されるタイミングでの王族排除を目標としていたが、予測していたよりも崩御があまりに早く、ターゲットを現王へと変えざるを得なかった。
その代償が三年という月日である。王が代替わりして三年、計画の一部を変更させながらも、水面下で王族を根絶やしにする算段をし直し、一つ一つ地道に種を蒔き続けてきた。
それらが少しずつ芽吹き、実を付け始めている。
「ダルダルン侯爵、準備は整いましたぞ」
廊下で一人策を練っていたダルダルンは、不意に掛けられた声の方へ振り向いた。宰相が去っていた逆の廊下から優雅に歩いてくるのは、財務大臣を担っているコインズ侯爵である。
コインズ侯爵も由緒正しき貴族の一人であり、ダルダルンに賛成し協力する一人でもあった。
どのようにして王に取り入って国の要の一つである財務を握ったかは不明であるが、それで満足するような野心家ではなく、更なる高みを目指し、ダルダルンの国家乗っ取りをバックアップしてくれている。
「ふむ、これでワシらの時代が来たも同然。三年も美味しい思いをさせてやったのだ、そろそろ返してもらうとしよう」
「そうですな、私たち由緒正しき貴族を虚仮にするような王にはご辞退いただかなくては」
財務大臣であるコインズ侯爵がダルダルン側に就いたことで、由緒正しき貴族や正貴族たちの大半はダルダルン側へ流れてきている。ただ三年もの長い間口説き続けている宰相がなかなかダルダルン側に就こうとしないことが、唯一の気がかりではあった。
宰相以外の王派は確認できていないが、それでも王を蹴落とすことができず、何が要因なのかすら不明なのである。宰相と王との繋がりを断ってしまいたいダルダルンとしては、今後のために何かしらの策を講じなければならない。
だが、それを差し引いたとしても、ダルダルンは王よりも優れていると自負していた。
由緒正しき貴族としての教養、由緒正しき貴族としての各地との繋がり、領地を正しく運営し、貯蓄もかなりある。そして誰よりも知恵が回り、由緒正しき貴族を始めとした味方も多い。
ダルダルンは十年以上かけた自分自身の計画が完璧であると、微塵も疑ってなかった。
意気揚々と、自分の計画に狂いがないと確信しているダルダルン侯爵を見送って、コインズは先程まで浮かべていた笑みを消す。そこには人当たりの良さそうな表情は消え、冷え冷えとした人を駒のように使う表情のないコインズ本来の姿があった。
今回ダルダルン侯爵の計画に乗ったのは、王族を根絶やしにしたほうが、財務関係も含め、もっと権力も金も地位も手に入りやすいだろうと判断したからにすぎない。もちろんダルダルン侯爵の計画だけでは根絶やしにすることは不可能であったため、コインズ自身も裏で幾つか手を回しておいた。後々それを交渉の材料として使うつもりである。
十年近く王族を根絶やしにする計画を立てていたダルダルン侯爵だが、そのわりには計画が杜撰であるし、運任せのようなところも多かった。逆に言えば、そうであったからこそコインズが介入しやすかったとも言える。
大戦を経験したコインズだからこそ、金と力の強さがあれば押しきることが可能だと知っていた。
若い王も前王時代の国庫減少を食い止め、若い王が望む未来への投資計画を提出すれば、前王時代に王の側近であったコインズを疑うことなく財務を任せるような浅慮さである。もちろん一年は若い王が敢えて任せたのかと疑っていたが、若い王がコインズの計画を積極的に後押しするため、その疑いはほどなく消えていった。
代替わりとは、新しくなるだけではなく、隙も生まれやすくなる。コインズはそこを上手く誘導し、若い王へと取り入ったのだ。
「主さま、国境側の準備も整いました」
コインズ以外誰もいないはずの廊下で声がかかる。その声に頷くことで応えたコインズは、順調に進む計画にこれからの未来を信じて疑うこともなかった。