第一章 1
「あぁ? おれを誰だと思ってる? この国を救ってやった王子様だぞ?」
ドガッとテーブルを蹴る鈍い音に、食器類が割れ飛び散るガシャーンといった大きな音が重なり、覆い被せるように女たちの悲鳴が重なり、酒場内は阿鼻叫喚といった惨状だった。
蹴り倒されたテーブルの先では、割れた食器や、食器から投げ出された料理を被ったウェイターが悔しそうに歯を食いしばっている。そのウェイターの背後では、ウェイトレスたちが怯えたまま固まっていた。
「おれに逆らうのは国に逆らうことだ。反逆罪で捕らえてもかまわねぇんだぜ?」
にたり、と下品に嗤った男の台詞に動揺が広がる。
酒場には冒険者や護衛の職に就く屈強な男たちも多くいたが、それでも国家権力に逆らってまでウェイターやウェイトレスを助けだそうとする者はいない。
阿鼻叫喚としていた酒場内が、しんと静まりかえっている。誰にも助けを求められない現実が、目の前に突きつけられていた。
「おれたちが欲しいと言えば、女も金も全て差し出せ。それが守ってもらった貴様らの義務だ」
誰一人として文句が言えない状況下で、男は優雅に立ち上がり、酒場中を見下すような蔑む色を目にのせて宣言する。
前王が討たれ、ようやく平和を感じることができるようになってきたこの国で、再び王族の饗宴による恐怖政治が始まろうとしていた。
国境がある街“ココノツ”。
大戦の影響は国のあちらこちらに未だ見られているが、それでも穏やかな日々は戻りつつあった。
ココノツでも従来通りの日々を過ごせる者が多くなってきており、隣国からの旅客も少しずつではあるが戻り始めている。
重税で疲弊し、男手を戦に取られ嘆いていた姿も、適切な税に戻り、生き残った男手たちが戻ってきたことで笑顔も多くなっていた。
煙突が多く見られる街の屋根の上から時折歌が聴こえてくる。街の賑わいに紛れて聴こえてくるその歌は、この地域に古くから伝わる子守唄の一つだった。
「ひはねむり よはおきる
きらきらと きらきらと
ゆれるひかり つきのかげ
かなしみわすれ ぬくもりを
よはねむり ひはおきる」
優しいその旋律を口ずさみながら、屋根の上で箒を動かす少年。髪を全て覆うように巻かれた布を風にひらひらとたゆませ、凹凸の多い屋根の上でバランスを保ちながら清掃する姿は、若さから見ても堂に入っている。
氷山に囲まれ、氷に覆われた土地をもつココノツは、通年を通して気温が低い。そのため暖炉を使用する頻度が高く、また氷山からの風の流れが強くなりやすい地域でもあり、屋根には暖炉の灰が溜まりやすい。
そういった事情から、屋根清掃という作業は日常の一部であり、少年は一年程前からこの街で掃除屋として働いていた。
「ティナ坊、昼飯だぞ」
屋根の下から、ココノツの掃除屋を取り締まる親方が声をかける。ティナと呼ばれた少年は梯子も使わず、ひらりと屋根から舞い降りた。
その際に、筒上のケースに収めた清掃道具一式を担いでくるのも忘れない。重さはさほどなくとも、長さはそれなりにある掃除道具一式の自由の利かなさを知っている親方は、その身軽さを感心しながら見ていた。
だが同時に長さゆえの危険性も理解しており「梯子使わんか」と短く注意することも忘れない。ティナはこくりと頷くが、この注意は一年ほぼ毎日繰り返されているため、ある意味日常会話の一つである。
掃除道具を所定の場所に片付け、二人揃って街にあるマルト食堂へ向かう。特にここだと決めているわけではないが、このマルト食堂は安さと量の多さが売りであり、ティナにしっかりと食べさせたい親方は大抵ここへ連れてくる。しっかりと食べても太りにくい体質らしいティナは細く見え、親方からすると食べさせてやらなければならない使命にかられるらしい。
昼食時ということもあり、店内はとても賑やかで席の大半は埋まってしまっている。けれど、親方の顔馴染みを見かけ、同じ席に寄せてもらう。
「タリアちゃん、注文いいか?」
「はーい、何にします?」
各々好き勝手に注文し、それを受けたタリアは厨房へ伝達に戻っていく。
午後からの仕事も残っているため酒を注文することはないが、それでも男たちが集まれば酒などなくとも酒場の勢いである。酔っ払いなど一人もいないというのに、熱気と賑わいに溢れていた。
厨房から戻ってきたタリアに「今日も可愛いね」だとか「一回くらい付き合ってくれよ」と酔客のように絡んでいる客もいるが、にっこりと笑顔で「ありがとうございます」とか「仕事中なので」とあしらわれている姿もある。人気者のタリア見たさに通っている客が多いのだが、あしらわれて終わりというのが現実であった。
酒の代わりに水を呷り、互いの持つ情報を交換する。国境が近いこともあり、戦の火種になりそうな情報や、商売に関係する情報を持つことは常識の一つとして認識されていた。
大戦から三年経っているというものの、国同士の和解が済んでいても、人同士はそうもいかない。ちょっとしたことで大戦を仕掛けた側が悪いだとか、偏見の目で見られ一方的に悪者にされたりだとか、そういった小さな諍いは頻繁だ。言わば、自衛のための情報交換でもある。
昼食時のため情報を精査する時間はないが、嘘を吐いて信用を失えば生死に関わってくることもあり、8割がた信用されている。時々、噂を誇張するだけの情報もあるのだが、そういった情報は持ってきた本人自ら噂だと告げてしまうため、ここの男たちの情報収集能力は高く、また正確であると言えるのだろう。
「そういや、ティナ坊がココノツに来て、もうすぐ一年だな。どうだ?」
「相も変わらず、永住は拒否しやがる」
「おれは流しの掃除屋なんで」
「ったく、ティナ坊は頑固だなァ。この街が嫌いってわけじゃねェくせに」
男たちが残念そうにそう零すのは、ティナがココノツを嫌っているわけではないことを確信しているからだ。
国境近くのココノツが復興に向けて動き始めた頃に、ふらりとやってきたティナは、徐々に復興していく街を見ながらとても嬉しそうに笑っていた。あの嬉しそうな笑顔は本当にココノツが好きでなければ見られるはずはないと、男たちの意見は一致している。
復興する前から何も特産もないココノツで、若い少年が穏やかに暮らしている事実は、この街ではちょっとした不思議として語られていた。
苦笑して、それ以上踏み込ませないようにやんわりと拒絶されることも、いつも通りの光景だ。男たちも引き際を間違えることはない。
その距離感が互いに心地好いと心得ている。
「そういえば話は変わるがよォ、この近隣の街にもついに現れたらしいぜ?」
「あァ?」
「ほら、あの王子一行だよ。前王に負けず劣らず饗宴に耽っているっつー」
「あァ、そういや、そんな噂もあったなァ」
「王都のが女も選り取りみどりだろうに、噂に上がってくるのは辺鄙なところばっかりなんだよなァ」
「元々王都に住んでっから、王都の女に飽きちまってんじゃねぇのか? 羨ましい限りだぜ」
がはははと豪快に笑う男たちの話す、噂に上がっている王子一行というのは、大戦の立役者である“鮮血の王子”こと現王のことだ。
大戦が終わって一年も経つと、前王の喪が明けるのを待っていましたとばかりに各地にふらりと現れた彼らは、前王と同じく饗宴に耽り始めた。大戦の立役者ということを笠に着せ、好き勝手やりたい放題で、前王よりも酷い時代が来てしまうのではないかと危惧されている。
ようやく大戦の傷が癒え始めたとこの時を狙ったかのような、傍若無人な振る舞いをする王子一行。その聞くに耐えない噂はココノツにも届いていた。
「前王も女にゃだらしなかったが、やっぱり血は争えねぇのかねぇ」
「どうだろうな、おれたちは噂くらいしか知らねぇからなァ」
「タリアちゃんも気をつけねぇと、その王子一行の慰めになっちまうぜ? そろそろ、どっか雲隠れしとくべきなんじゃねぇか?」
「やめてくださいよ、火のないところに煙は立たないって言うじゃないですか。もう少し、正確な情報入ったらそうしますけど」
前王との違いは戦を好まないところくらいで、女の扱いについては前王より酷いという。
王子が楽しんだ女を下賜するのだが、扱いが売春婦以下だというのだ。家屋内では人に見せられない行為を、野外や街中の路上での行為を強いるだけでなく、大人数で一人の女を犯し、見世物にすることさえある。
女を玩具のように扱い、玩具のように捨てるという凶行は各地に流れ、王子一行が近くにいる地域では自衛のため女たちは目につかないところへ隠れている。見つかれば王子一行に殺されるようなものだからだ。
それでも、王子の饗宴や凶行を誰も止めることができないのは、大戦で疲弊しているこの国では各国と戦をしないということが、まだ国民を救っているからにすぎない。
まともに大戦の立役者である王子一行を相手どれば損害がどれほどになるか、それらを含めてが王子を止められない理由である。
本音を晒せば、大戦の立役者である王子よりも優れた者がいれば、早々に代わってほしいと思われているほどだ。
「ようやく平和になってきたってぇのに、王子、いや、王様は何がしてぇんだか」
「そうですね、大戦で前王様を討った時はこれで解放されると思ったんですけど。このままだと、今も昔も変わらないのかもしれないですね」
戦場では“鮮血の王子”と恐れられていた王子が一転、“堕落の王子”と様変わりしているらしい。あくまでも噂の一つでしかないのだが、被害者が多く出始めていることが少しずつ不信感を募らせている。
大戦の立役者は身代わりであった、王に成り代わりたいだけであった、金を湯水のように使いたいだけであった、などと事実の確認がしにくい噂ばかりが各地で流れていた。
「大戦後に王のお披露目してねぇし、王子時代から国民に顔見せしてねぇから、そいつらが本物かどうかは判断できんだろ」
親方の静かな突っ込みに「まあなぁ」と噂話を始めた男が苦笑する。それでも男たちの噂話から始まった王子への批判は止まらない。
男たちの噂話に口を挟まず、黙々と昼食を摂っていたティナの眉根がきつく寄せられていたことは、誰一人として気づくことはなかった。