序章
その国は国土の70%が溶けることのない氷と、氷山に覆われていた。
歴代の国王は30%の氷のない国土を大事に大事に開拓し、国民に与え、産業の発展や繁栄を促し、王族と国民が互いに寄り添うように国造りを行ってきた。その長年の信頼関係のおかげか、30%の氷のない国土だけでも民が飢えることはなく、また他国とも協力し合い、戦争も貧富の差も少ない安定した国として定評がついていた。
だが、現王はそれを良しとしなかった。
王族の証である金と銀の混じった髪が彩る美貌で他者を誑かし、末端の王族から王へと登りつめた男は欲に塗れていた。
男の欲は留まることを知らず、長年蓄えられてきた国財を貪り尽くし、足りなくなった国財を求めるよう国土を拡げることを推奨した。しかし推奨は形だけであり、臣下の賛同など求めず、宣誓も何もなく、隣国へと攻め入ったのだ。
ただ唐突に軍隊を差し向けられた隣国は、戦に対応する暇すら与えられずに敗北した。
それに気を良くした現王は敗国から奪えるもの全てを奪った。金銀財宝をはじめ、食糧や女、家畜や産業といったものまで奪い尽くした。
国庫を散財し、女を所構わず侍らせ、饗宴に耽る現王を諌めようとする者は、皆その場で処刑された。
女を孕ませても気に入りでなくなればゴミのように捨て、気に入りでなくなれば生ませた子供諸共斬り捨てることもあった。
欲しいものができれば子供のように強請り、与えられなければ与えられるまで周囲に当たり散らし、まるで幼い子供のような現王の口癖は「ないのなら、あるところから奪ってこい」になった。
そんな現王を見捨てず、捨てられたものを丁寧に拾い集め、奪われたものと同等のものを返せるように尽力し、謝罪に足の豆が潰れて血だらけになっても練り歩き続け、時に罵倒と暴力の嵐に苛まれる王子がいた。
狂い堕ちていく現王を見捨て逃げていく臣下が多い中で、齢十歳にして国の醜い部分を受け入れ続けた王子は変わり者と周りから嘆かれていた。
変わり者と称された王子は紛れもなく現王と血が繋がった子であったが、現王は変わり者の王子を気に止めることはなかった。むしろ、現王自身の快楽を最優先に生活を続けており、王子の現王を咎めるような進言の類いは全く聞かず鬱陶しそうに暴力を振るうことが多かった。
堕落し続ける現王を何とか留まらせようと、自国や他国での理不尽さえも飲み込み、必死に足掻いてきた王子が十二歳の時、それは起きた。
王子の目の前で母親と幼い弟妹が現王の手によって斬り捨てられたのだ。
現王はニヤニヤと嘲笑いながら「うるさかった」と、悪いのは躾られなかった母親と幼い弟妹だと王子を好き勝手に責め立てた。明らかに鬱陶しい王子を屈伏させるためのデモンストレーションであったが、王子はそれに気づきながらも現王を罵倒したり泣き喚くこともせず、ただ淡々と母親と幼い弟妹を供養したのだ。
その姿を見た国民は、今まで王子を庇うことすらしなかったというのに、非常な上に非情であるとこちらも好き勝手に責め立てていた。
国民にとって王子の存在は、現王の尻拭いのため犠牲になり国民の生活を支えている王子ではなく、現王の堕落を止められない出来損ないだという評価だったのだ。
特に貴族は内政を知っているにも関わらずその傾向が強く、王子が如何に出来損ないか平民たちに吹聴しているようだった。
長年安定した国造りを続けていた王族の堕落を正せないまま、さらに二年の月日が過ぎた頃、現王はついに自国を取り囲む各国へ宣誓し、全てを奪い尽くすことを目的に戦を仕掛けた。
その戦は、現王を支持する貴族たちが中心となり、金銀財宝を報酬にして国中を無理矢理引き込み、従わない者たちの大切な者を人質にして兵士を挙げさせた即席の力だけしかなかった。
始めは順調に各国と渡り続けていたが、元々戦に慣れていない寄せ集めの兵士ばかりだったため徐々に押されだし、次第に国内からの反発が強くなっていった。しかし、その反面で多くはこれまで通り王子が何とかしてくれるだろうと思っていた。
どんなに理不尽に扱われても国に尽くしていた王子が、この現状を見捨てられるはずがないと高を括っていたのだ。だが、王子は予想外にもこの戦関連の出来事には一切手を貸すことはなく、不平不満が各所から上がっていても聞き入れなかった。
戦前であれば、現王に届かない不平不満や親書も王子が全て吟味していたが、突如王子がそれを放棄したため、それらは全て現王と現王を支持する者たちに降りかかった。
今まで王子に全てを押しつけてきた現王や現王を支持する者たちでは、国民からの不平不満や他国からの親書に関する執り成しを上手く解消できなかった。
国民の多くはこの時初めて、王子がどれだけの犠牲を払い、どれだけ自国や他国を想い、どれだけ我慢を強いられてきたのかを自覚した。
王子の手助けが待てども来るこはないことに遅まきながら気づいたのか、それとも自国がかなり押されて危ういことに苛立ちを覚えたのか、はたまた国民からの不平不満の大きさを見たくなかったのか、現王は自ら戦の前線に立つことを選択し、役に立たないと判断した兵士を斬り捨て始めた。
敵になるか味方になるかも気分次第という現王に恐怖した兵士たちは、王子に対し罪の意識に苛まれながらも詫びることすら許されず敵陣へ向かい、一人また一人と敗れ、敵地に散っていった。
そんな兵士たちを踏み台にして、自らも敵を屠り敵陣を潰していくことで新たな快楽を覚えた現王は、自国の、そして自身の強さを信じて疑わなかった。
斬り捨てた国民や敵兵士でできた血みどろの山の上で誇らしげに立った現王が、敵陣を睥睨し次の一手を打とうとしていた正にその時、何の前触れもなく王子が現れた。
まるで瞬間移動でもしてきたかのように突然現れた王子に驚く現王の首は、次の瞬間刎ねられた。
周囲の誰にも悟らせることをせず、気配を読ませることのない暗殺者の如く、王子は現王を葬った。
この戦で国民に多くの犠牲が出ることは予想するまでもなく、現王の性格を把握していれば最悪の事態は簡単に予測できた。それでも、王子が戦に手を貸さずに現王の暗殺を実行したのは、戦の中であれば必ず隙ができ、尚且つ、暗殺であることを隠しやすかったからだ。
父親である現王を見捨てることなく支え続け、安定した国造りを取り戻すために尽力してきた王子は、母親と幼い弟妹を斬り捨てられたことで、現王を斬り捨てる覚悟をもった。そのために、多くの命が犠牲になるだろうことも、後にその真実が明らかになれば王子こそが多くに恨まれることも、全て受け入れる覚悟をしていた。
現王を葬り去るために、王子は二年の歳月の中で、共に反旗を翻す同志を密かに集め、兵士の中に少しずつ紛れ込ませていた。同志は敵陣を斬り捨てることなく抑え、現王の動向を逐一報告する役目をもっていた。
その結果が現王の死であり、王子が国の頂点に立った瞬間でもあった。
王子のお膳立てをした同志が彼の元へ駆けつけた時には、王子は現王と同じ金と銀の髪に大量の返り血を浴び、彼もその周囲も現王の血で真っ赤に染まっていた。彼の足元には首と胴の分かれた現王が転がっていた。
同志たちはそんな王子に跪いた。
真っ赤な姿をした王子に跪く面々を目撃した兵士たちから、王子は“鮮血の王子”と呼ばれるようになり、それは下剋上だとか親不孝だとか反逆者だとか、そうしたつまらぬ噂と共に国に流れていったという。