04 面談/トオノ『翼虎』大隊第1中隊・1
第1幕開始。
【霧壁】
東京都区部および東京湾臨海部を覆い包むエーテルの結界。有毒、帯電、催眠。
夢と現を隔つべきや否や。最新の幻想は賢しくも恐るべき社会侵略概念なれば。
「知らない天井だ……って、言わなかったそうね。あんた」
ひどくつまらなそうに言われたから、高瀬はとりあえずスミマセンと謝っておいた。
埼玉県和光市の南端、大型家電量販店のエレベーターを表示よりも更に降ったフロアのオフィスルームである。エスプレッソマシーンの隣にロボットアニメ風の強襲揚陸艦と人型戦闘機が飾られ、陸上幕僚監部技術情報資料やら野戦築城教範やらと物々しい書籍の合間に神話解説書、オカルト大事典、ファンタジーRPG設定資料などが入り交じる。
「オタク系の素養があるなら話は早いのに。その歳ならテレビ放映ドンピシャの世代でしょうに」
特別な位置のデスクに座る三十がらみの女性は、先ほどから不機嫌さを隠しもしない。二本線に星一つの階級章は彼女が少佐という階級にあることを高瀬に教えている。
彼女はトオノ。漢字はおろか、それが苗字なのか名前なのかもわからない。
この組織ではフルネームを教え合わない決まりなのだと、これもまたひどく嫌そうに、面倒で仕方がないという態度で説明されていた。
「ゲームなら、多少は嗜んでいますが」
「VRMMORPG、ログアウトありデスゲー、フロム難度、強制TSアバター。あんたのこれからはだいたいそんな感じよ」
「スミマセン。VR機器は持っていなくて……デスゲー? TS? FPSならそこそこやっていました」
「FPSはダメ。得意なやつほど勘違い行動が多くてやってらんないわ」
「勘違い、ですか」
「プロゲーマーもゲーム実況者も死にやすいったら。使えるやつが多いのは武道経験者とバードウォッチャーね……ゲームの他にはスポーツの一つもやるでなく、読書趣味で、赤貧の独身暮らし……裏切んじゃないわよ、あんた」
「はあ……それは、はい」
高瀬は気だるさを深呼吸し、この場に至るまでのことを思い返してみた。
目を覚ますとベッドの上だった。場所よりも先に確認しなければならないことがあった。身体だ。右手は失われており、肉腫めいた部分は切除されていた。残る左手で胸と股間をまさぐった。男だった。慌てて動かしたから肩に激痛が走った。
悪夢と地続きの今であるという自覚は、ひどく億劫だった。もう終わっていてよかった。
今まで通りにゲームもできない身体になったのだから、なおさらに面倒だった。
再び寝た。看護士に声を掛けられるまでずっとだ。書くように言われた書類を埋め、促されるままに検査を受け、指示を待つ間は自販機の品ぞろえを眺めていた。
「とにかく、あんたは国連軍へ志願して、私の指揮下へ着任したってことなのよ。それで合法になるし給与も出るんだからいいでしょ? 希少適性持ちだから未訓練のくせに准尉待遇だし、小隊の隊長っていう肩書と役職手当もつく。今のところ小隊員はあんただけだけど」
国連特別作戦軍総司令部直轄第十三特殊機動猟兵大隊―――トオノ翼虎隊の本部なのだ、ここは。
右から左へと聞き流した状況説明によると、あの病院の騒動からはすでに四日が経っているという。バケモノ騒ぎは当たり前のように隠蔽され、職場への退職手続きや保険その他も専門家によりつつがなく進行中とのことだ。
「……すぐにも前線へ放り込むわよ。あんたが使ったアバターもベクターも最新兵器で最高機密。もうあんたにしか使えなくなっちゃったんだから、軍はあんたを最大限に活用するの」
「拒否はできない、ということですね?」
「いちいち確かめないとわからないなら、軍は莫大な戦費をドブに捨てたってことよ……ナルミ、あとは任せる」
ウンザリしたような手払いをして、トオノ少佐は席を立ち、奥の扉の向こうへと消えた。
応答したのは妙齢の女性軍人だ。高瀬をこの部屋へ連れてきたのは彼女であり、トオノ少佐の副官を務める少尉であると名乗られていた。日傘の似合いそうな風貌と雰囲気だが、腰には白鞘の日本刀が、品良くも物騒に存在している。
微笑まれたので、高瀬はお辞儀をしたものだが。
「修正」
頬を打たれていた。左右両方ともだ。左頬を平手打ちされた後、目にもとまらぬ速さで右頬を裏拳で殴られたようだと、高瀬は痛みを実感する中で察した。
「シャンとなさい。切っ掛けこそ不慮の戦災ですが、あなたは自らの意志で武器を手に取ったのでしょう?」
フラッシュバックする戦闘記憶―――確かに高瀬は武器を求めた。自ら望んで戦場へ跳び込んだ。子どもが犠牲になることを見過ごせなかったからだが。
深甚な考えなどなかった。咄嗟の、緊急の、衝動的な措置でしかなかった。
その場に居合わせた民間人に、その後の責任まで負う義務はあるのだろうか。
「……AEDの使用者が、必ず、その後熱心な医療従事者になるとでも?」
嫌味な言い方になったかもしれないが、なけなしの意地もあった。両の頬が痛みを伝えている。
「アバターにしろベクターにしろ、誰にでも扱えるという代物ではありませんよ」
追撃はなく、白い手指が頬に触れてきた。半歩下がってその小さな涼感から離れた。
「あなたには特別な才能があり、その才能を知る縁があり、その縁を活かす行動力がありました。誇りなさい。その上で覚悟を決めなければなりません」
「軍隊の都合を理解し協力する覚悟を、ですか?」
「あなたの目の前にぽっかりと開いた大穴を認め、それを埋めるべく働く覚悟をです」
何の謎かけだと漏れかけた失笑が、真剣そのものの眼差しに出くわし打ち消された。
「今、世界は未曾有の危機にあります。あまりに危険であるため、一般には隠されているほどの危機……核戦争をすら上回る恐るべき脅威……あなたはその解決に関われる立場となりました。詳細を教えることもできますが、あなたの心身の健康を鑑み、今は身近で具体的な一つだけを伝えましょう」
聞き流せなかった。言葉に重みがあって、脅しでも戯れでもないと察せられてしまった。口調はむしろ誠実で、ある種の申し訳なさすら感じられる。
ふと気づいた。日本刀の鍔と柄頭に触れ心地のイメージできる金属装飾……ベクターではあるまいか、それは。しかも随分と使い込まれている。彼女の身体がアバターなのかどうかはわからないものの、少なくともあのおぞましい戦場を幾度となく経験した人間ではあって、それゆえの切実さが重く聞こえてくるのではなかろうか。
ゴクリと、高瀬は喉を鳴らせた。
「あなたが助けた子は、今も霧壁の向こう側にいます」
「……どういう意味ですか?」
「言った通りの意味です。あの日、霧壁が一時的に拡張しました。収縮する際にエーテリックの影響を受けた一切合財を引きずり込みましたから……生存者も、あなたのアバターも、『トーキョーハイロウ』に囚われてもうこちら側へ移ること叶いません」
トーキョーハイロウ。
新たに聞こえた未知の言葉が、考えないようにしていた他の未知を想起させてとどめようもない。
魔女、アバター、ベクター、エーテリック、エーテル、アストラル、そしてトーキョーハイロウ……どの一つもこれまで一度も聞いたことのない言葉である。それらと無縁であることが平穏な日常であり、聞き知り関わることが悪夢の非日常であるのだろうと思われた。
「現地の戦闘部隊によって保護してはいますが、戦況は厳しく、安全の保障などできるものではありません。そして我々は一人の市民のために作戦行動を妥協しません。状況が変われば保護を打ち切るでしょう。自助努力に期待する、などと冷たく告げてしまって」
「許されるんですか、そんなことが。国連軍なんでしょう?」
「許されます。なぜなら、我々はわずかの誇張もなく、人類の存亡を懸けた戦いをしているからです。七十億人の安全とたった一人のそれとではどちらが大切か、迷う余地もありません」
さあ、とナルミ少尉は手の平を向けてきた。
「見て見ぬふりをしなかったあなたは、知って、知らぬふりをしますか?」
「ひどい言い方ですね……本当にひどい……」
「そう感じるのは、あなたがこの穴を埋めなければと思う人物だからですね」
「誰でも同じでしょう。子どもは護られるべきでしょうに」
「さて……世界は大小様々に穴だらけです。どの穴を特に問題視し、埋めるべく取り組むのか……それがつまりは大人の品格ではありませんか?」
高瀬は頷かなかった。見つめ合い、しばらくしてナルミ少尉の後について歩き始めた。