02 戦闘/国際サイタマ病院・2
【アバター】
欺瞞影。男性性を偽る遠隔操縦疑似女体。エーテリック環境下でのみ稼動する。
隠れよ。しからずんば偽れ。超常の理不尽に抹消されるより前に、疾く。疾く。
瑞々しく、しなやかで、軽やか極まる。
若さだけでは説明のつかない身体感覚を確かめて、高瀬は小さく吐息した。頬に肩に銀色の髪が揺れる。歯の舌触りすら違うのだ。女子高生風のブレザーやスカートを気にするどころではない。
『どうだい? 生まれ変わったかのような心地かい? あるいはヒーローにでも変身した気分かな?』
スピーカーでもわかる含み笑い。分厚い壁とガラスに隔たれて、あちらに先程までの非日常がある。満身創痍の「高瀬公平」が、医療器具と電子機器に凌辱されるようにして横たわっている。
ガラスに映るエメラルドグリーンの瞳……それが今は自分の瞳だというのだから、異常事態だ。
『ずっとそのままでいたいだろうけれど、残念、連続稼働限界というものがあってだね……省エネにつとめても八時間、戦闘出力でなら一時間ともたない。アストラル固着の問題もあるしねえ』
異常にして新しい、なお一層の非日常が、ひどく見目よく始まりつつある。
中年男性が美少女になって戦う現実など、どこの誰が望んだものか。
高瀬には想像もつかないが、しかし、国際社会においてはさして非常識でもないのかもしれないと考えた。なぜならば機材のあちこちに、左の肩口にすらも、国連のロゴマークが刻印されているのだから。
『そうそう、今回に限っては別の制約もある。君の尊厳、魂の根幹に関わることさ……』
やはりここは地獄の底で、パカラダ博士と名乗った女性は悪魔なのだろうとも思う。これほどの悪夢の中にいるのだ。何につけ代償があるほうが自然であろう。
『排泄だよ。具体的には尿と便だ』
足を手術台にぶつけた。博士は悩ましげである。
『尿管カテーテルも直腸用チューブも見つからなくてねえ……とりあえず大人用のオムツをはかせておいたが、君、すでに結構漏らしていたじゃあないか。いい歳した男が締まりのないというか、開放的に過ぎるというか』
「武器はどれを使えば!?」
遮る声もまた可憐だが、つくづくそれどころではなかった。
実際、処置室には実に様々な凶器が並んでいる。剣、斧、ナイフ、槍、鎖、弓……どれも中世ヨーロッパ風ファンタジーに出てくるようなものばかりで銃器は見当たらない。
『一番大きなやつを使いたまえ。台に置いてある……そう、それだ』
これも武器だったのか、というのが高瀬の率直な感想である。
鋼鉄のスノーボードに持ち手をつけたようなそれは、分類するならば特大剣だろうか。宗教美術のような装飾が隙間なく施されており、柄頭の王冠のようなデザインが特に印象的である。
『剣大王ユグドクラウン。現時点で最も火力の出せるベクターさ』
「ベクターとは?」
『攻性解像器。エーテリック環境下において有効な唯一の兵器だ。畢竟、アバターを操縦してベクターを振るうのが国連特殊機動猟兵……通称TS兵の仕事になる。君も、もはやそれなのだよ』
柄を握った。重いが、想像したよりは軽い。水中で重量物を持ち上げるような感覚だ。
振ってみた。速い。大質量の高速に空間が揺れた。
『すまないが鎧甲冑の方はまだ届いていなくてねえ……ま、何とかしてくれたまえ。多少は壊しても構わない』
頷き、廊下へ出た。早足でだ。来る時とは異なりシャッターが閉じている。端の防火扉を通る。幾つも駆け抜ける。エレベーターの扉が開いている。長方形の暗闇から瘴気のごときものがこぼれ落ちてきている。
特大の剣を抱えて、高瀬は暗闇へ跳び込んだ。
エレベーターワイヤーをつかみ、下方へ放り、反動で昇っていく。落下するような上昇である。重力が弱い、あるいは弱まっている。それもまた水中に似た浮遊感であり、それでいて空気中よりも抵抗が少ない。
五感とは別の感覚があって、高瀬に状況を分析させていく。
今、空気と重なるようにして不可思議な透明が空間を満たしているのだ。それがつまりは「エーテリック環境下」とやらであり、バケモノの跳梁跋扈を許す異常性の原因であり、高瀬の身体を変異させかけた猛毒なのだろう。
「蜘蛛の糸……」
近づく明かりを見据えて高瀬は苦笑した。その声の違和感に苦さは増すも、笑いきる。
「……いいや、戦うためだ」
飛び出すなり剣大王を振った。覗き込もうとした骸骨と、その後ろの数体とを、ただの一撃で吹き飛ばした。
舞い戻った地下階にもすでにして十数体の赤色骨格がいた。あちらにこちらにたむろしている。一斉に向けられた虚ろな眼窩。どの一つにも理性はなく、それでいて高瀬を否定している。家電量販店で見かけた掃除ロボットの明滅するセンサーが思い出された。
遠慮も躊躇も殺意もなく、高瀬は剣大王を握りしめた。全力のバットスイングだ。
ほどばしるエネルギーがフロアを薙ぎ払った。
逆巻く風に遅れて、バラバラバタバタと落下音。散らばる骨、タイル、壁材、植物の葉や枝……離れたところでガタゴトと大きな音がした。あの壁掛けの絵が落ちたらしい。どうでもいい。
走る。跳ぶ。エスカレーターの残骸をひと蹴りして地上階へ。
勢いあまった中空から探す。いた。いてくれた。あのセーラー服の子だ。玄関を背にバケモノどもと対峙している。盾のように突き出した受付案内板は半壊していて、たった今、獣の骨格に噛み砕かれた。
「よせ!」
宙を蹴った。放たれた矢のごとく、いや、炸裂を足場としたのだから弾丸のごとき強襲だ。進路上の有象無象を蹴散らせして少女のもとへ。獣の骨格を地面へ縫いとめる一撃でもって急停止。余波が辺りを払った。
「ア、アナタは……?」
声を聞いた。目と目が合った。世界が鮮やかに塗り替わった。
愛おしかった。
心労に穢された空色の瞳が、苦労に汚された黒髪が、疲労に辱められた白い首が手が足が……高瀬の心を激しく揺さぶる。この子の苦境が哀れでたまらず、今この時まで駆けつけずにいた自分が許せず、この子をかくも痛めつけた全てが憎くて憤ろしくて眩暈がした。
「ここは俺に任せて、逃げなさい」
告げる唇が震えている。
幼き者の健気がたまらなかった。老人を助けようとしていたことだけではない。なぜなら外は破片こそ散見されるがまだまともな風景で、老若男女の背中が必死に遠ざかっていくではないか。
時間稼ぎのために踏み止まっていたのだ、この子は。たった一人で。命懸けで。
逃亡者たちを怒鳴りつけそうになり、自らにその資格がないと思いとどまった。だから世界を呪った。理不尽な苦労を子どもに強いる残酷が許せない。
「でも、ボクは」
「大人に護られる義務と権利が、君にはある。子どもを護る義務と権利が、大人にあるのと同じにね」
「え……オトナ……?」
そういえば少女の身体の高瀬であった。
奇しくも制服同士ということで、小学校低学年生と高校生のような差が感じられる。ところでセーラー服にハーフパンツという組み合わせは水兵のようだなと思う。よく似合っているが、言葉を交わしてなお性別がわからない。尋ねるのもはばかられる。
とりあえず咳ばらいで諸々を誤魔化した。
「見ての通り……ではないかもしれないが、その、俺は国連の兵士だ。そういうことになった。この通り戦う力がある」
遠巻きにする骨たちを睨みつけつつ、剣大王を引き抜いた。力強く鳴動する。戦意がそのままエネルギーとなって充足していくかのようだ。
「行ってくれ。大丈夫。俺が、君の代わりをしてみせるさ」
セーラー服の子は何かを答えようとして、しかし答えず息を呑んだ。青ざめた顔で上層を見上げた。
「大言壮語、極まれり」
回答が空から撃ち下ろされた。
天井の破壊に縁どられた空の中央に黒い影―――黒衣の女のように見えて細胞の一片たりとて同じ人間とは思われない、まるで天体が形だけ人間を模しているとでもいうような―――慄然とさせられるほどに巨大な圧力を放ちながらも森閑とするそれは。その絶対的な存在は。
『魔女だ、タカセくん』
頭の中にパカラダ博士の声が響いた。人造の人体ならば、なるほど、そういう機能くらいあろう。
それにしても、魔女。
魔女とは何事か。
実にファンタジーを感じさせる響きであり、同時に因習の薄暗さと群集心理の恐ろしさが連想されもする。かかるむごたらしさの頂点に位置するのなら悪魔や魔物の類語に違いあるまいが。
『さ、そいつをどうにかしてくれたまえ。今の超高出力を継続するなら稼働限界まであと三百八十七秒だよ。威勢がいいよねえ。ところで援軍の到着まではあと十分以上ある。また追って連絡するよ』
魔女のマントがひるがえった。
裏地の複雑怪奇な赤色から、こぼれ落ちるようにバケモノが降ってくる。十、百、千……見る間にエントランスホールが赤い骨格に埋めつくされていく。
「わきまえぬ者、消ゆべし」
バケモノの津波が襲い来た。