01 戦闘/国際サイタマ病院・1
【トーキョーハイロウ】
今や忌まわしき東京を言祝ぐ名称。あるいは最新の幻想へ投げつけられた諡号。
決断せよ。既存既得の通用せざるがゆえにこそ、未知未踏はそこにありうる。
「俺の手、だよなあ」
高瀬公平は四十肩である。肩が動かず、痛み、手指の脱力を伴う。ゲームくらいしか心慰める手段を持たない彼にとってそれは足しげく通院するに足る疾患だったが。
「とれちゃったよ」
涙、鼻水、涎、その他諸々を漏らしながら高瀬は笑おうとした。笑えなかった。吐いた。目の前には己の右腕の肘から先が、もげて、大根か何かのように転がっている。見慣れた深爪が血に染まっている。
もだえ震える彼のことを、誰も構ってくれやしない。
誰も彼も、それどころではない。
数分前まで厳かな総合病院であったはずのそこは、阿鼻叫喚の地獄絵図へと一変してしまった。瓦礫と死体がそこかしこに転がり、粉塵と血煙が押し合い圧し合い充満し、物と人の悲鳴がひっきりなしに鳴り響く。
パニックだ。いや、非現実的なパニックホラーだ。
バケモノどもが暴れているのだから。
皮膚も筋肉もなしに動く骨格群――人骨のようであったり、獣のそれであったり、巨人や怪獣としか言いようもない何かであったり――いずれにせよおぞましい赤色のそれらが逃げ惑う人々を襲っている。幾度か聞こえた銃声らしきものもすでに途絶え、一方的に人の命が奪われていく。
天井の穴から一体、跳び下りてきた。高瀬は血反吐の床からそれを見上げるばかりだ。
「はは、は、ゾンビでないだけマシか。ちゃんと死ぬ。死ねるんだろう? やっと……とうとう……」
高瀬は嗤った。孤独が、ピタリと心身を包んでいて隙間も余分もない。誰に惜しまれることもない死の、何とみじめなことか。惜しむところのない生の、何と情けないことか。
それでも誠実には生きたのだ。
己の命の安さを受け入れて、八つ当たりをせず、労働し納税した。節約し、国連人道機関へ定期的な寄付もしてきた。苦難へ寄りそう人々へ尊敬の念を抱きながらだ。
ひとつきりの未練が脳裏に閃いた。それは女学生の姿をしていた。
艶やかな黒髪。白磁の美貌。怜悧な眼差し。
色褪せの四半世紀を経て今なお鮮やかによみがえる、その学友の、在りし頃の面影。
「……君の最期は、こんな風じゃなかったのなら、いいなあ」
鉤爪のごときものが振りかぶられ―――それきり動きもしない。
赤い頭蓋骨が横を向いている。虚ろな眼窩が何かを注視している。
そちらから床を叩く音。引っ掻く音も。ベンチの陰からのそりと立ち上がった男は、見るからにまともではない。服装も体格もくたびれた中年男性のそれだが、顔が異様だ。血眼で、血涙を流していて、血を吹くほどに歯を噛みしめている。
赫怒、憤慨、激発、憎悪……いったい何が、一人の男にかくも狂猛な表情をさせるのか。
知らず見入り、高瀬もまた奥歯を噛んだ。
取っ組み合いが始まった。男も赤骸骨も尋常な膂力ではない。壁は砕けるし床も弾ける。どちらも高瀬のことなど眼中にないから、おずおずと、彼は這いずりはじめた。そのうちに立ち上がり、歩く。水の中にいるかのように身体が重く、息苦しい。逃げるというよりは、ただ離れる。
現在位置は四階だ。まだ稼動している下りエスカレーターへ乗った。
惨劇のパノラマが高瀬を囲った。
エントランスホールは屠殺場もかくやという有り様だ。ミサイルでも撃ち込まれたものか高層の天井が崩壊、降り注いで出入り口も逃げ道も塞いでしまっている。赤い骨が人間を……よく見ると殺されているのは男ばかりだ。医療従事者か患者かの区別もなく、ただ男だけが狩られている。
「……逆より、いいさ」
つぶやき、笑おうとした頬が引きつった。
惨状の中にセーラー服姿を見つけたからだ。
十歳にも満たないような、性別も定かでない子どもだ。瓦礫をどかし、挟まれた老人を助けようとしている。必死の形相だ。そこへ赤い骨が幾体も近づいていくではないか。
その子の生命は高い、と高瀬は判じた。理屈を後回しにした独断で、自分よりも老人よりも貴いと信じた。
捨て置けないと踏み出すや、高瀬は吹き飛んだ。
爆発だ。空から飛来する光るものを垣間見たから、空爆の類かもしれない。
天も地もなく振り回され、気づけば観葉植物の鉢に突っ込んでいた。ガラスの破片がいくつも手足に刺さっているし、打ち付けたらしい鈍痛も全身のいたるところでうずく。どうも地下階へまで落下したらしかった。もうもうと立ち込める煙の向こうでエレベーターは跡形もない。階段の位置もわからない。
冷たい視線を感じた。何かと思えば油絵だった。
壁に架かった巨大なそれは、無傷で、奇妙なほどの存在感を放っている。木立の中心に白い服の女性がいて、手に捕虫網を構えており、背後の幼い少女たちなど視界にも入れないという様子だ。
「おやおや、これは僥倖だ」
驚き振り向いた。面白がるような声を放ってきたのは白衣の女性だった。一見したところ医者のようだが……高瀬は残った手で目をこすった……頭に動物の耳のような何かがある。たまに動く。
「来たまえよ。死ぬことも終わることもないようにしてあげよう」
「お医者様……でしょうか」
「免許は持っているねえ」
安っぽいスリッパのたてる音が、何とも言えず呑気で、高瀬は声が大きくなった。
「あの! 一階のエントランスで大変なことが! 階段の場所を教えてください!」
「隔壁で封鎖されたよ。空でも飛べない限り、しばらく上へは行けないねえ」
「子どもが! 子どもがバケモノに襲われているんですよ!?」
「どちらもさして珍しくあるまいよ。子どもなんて国内でも年間数十万から産まれるのだし―――」
笑みに細められた双眸が、肘から先のもげ落ちた右腕へ向けられた。
「―――バケモノにしたって、ほら、君自身なりかかっているじゃあないか」
見る。いつの間にか痛まなくなった右腕は、少し長さを取り戻していた。剥き出しの筋肉のようなものが、脈動しつつ徐々に伸びているのだ。力んだからか収縮した。動かせるのだ。悲鳴が出た。
「眼球が染まる前に処置すれば大丈夫さ。ほら、乗りたまえ」
動揺したままに乗り込んだ無骨なエレベーターが、期待とは逆に下降していく。深く深く降りていく。
「ラボの気密は完璧だが、さて、エーテル爆撃にはどこまで耐えられるのかねえ……ま、用済みではある」
激しい呼吸と鼓動を他人事のようにして、高瀬は地獄の底にあるものを想った。雄々しく生きられず、きちんと死ぬこともできず、女子どもの危機を見過ごした男が下るのだ。さぞかし恥知らずで醜悪なものに違いない。
しかし、現実は想像だにしない奇怪さでもって、高瀬を待ち受けていた。
エレベーターを降り、幾度か自動ドアを通り越した先に、それはあった。
パイロットランプとガラス器具が複雑ながらも安っぽく星空を模す部屋の中央に、保存された青空のようにして大きな水槽が発光していて……銀髪の少女が沈んでいる。信じ難いほどに美しい少女だ。まるで朝露と初雪とを用いて神が彫刻した偶像ででもあるかのように。
一点、ぼんやりと開かれた瞳だけが美を損なっている。透明なのだ。空っぽのガラス容器が連想させられた。
「なかなかのものだろう? 対魔女決闘用の特製アバター、その初号機さ」
知らない言葉で何かが説明されている。意味はわからずとも、聞いてしまえばもう後戻りできない内容だということだけは感じ取れる。
「エーテリック環境下におけるエネルギー増幅率は汎用アバターの五倍以上。対群戦では砲撃戦力としての運用が期待できるが、真価を発揮するのはもちろん対魔女戦さ。そのために開発したのだからね。最大の特長は機体の特化性なんだが……何ともはや、ターゲットとは別の魔女が釣れてしまったようだ。レギオーから察するに『D』かな? 困ったことだねえ」
呪文のような長口上と、プールを思い出す生臭さと、遠く高いところから伝わってくる振動と。
つまりは何らかの兵器であるらしい、神々しいまでに美しすぎる少女。
「君にはこのアバターへログインしてもらうよ……そのみすぼらしい身体とはオサラバしてね」