キャッチャー・イン・ザ・ファーム
「ちょっと、そこアタシの場所なんだけど。退いてくれる?」
ぶっきらぼうに投げかけられた声に驚いて顔を上げると、今まで見た中で最も美しい部類の顔が視界に入ってきてより一層驚いた。切れ長の目が印象的な、どこか憂いを含んだ妖艶な顔立ちだった。
しかしとても見惚れている場合ではない。僕は絶対に反論せねばならない立場だった。
何と言ってもここは牧場なのだ。どうして牧場の芝生に座って羊の群れを眺めているだけなのに立ち退きを要求されなければならないのか。
敷地の所有権を主張する人間がいるとすればこの牧場のオーナーであろうが、およそそのような風貌ではない。
つまり僕はこの芝生の上でくつろぎ続ける権利を主張して争う必要があるのだ。
「そうは言ってもね、ここは牧場だし、君はここの管理者でもなさそうだろう。芝生なら目の前にいくらでも広がっているんだから、別のスポットをあたってみてくれないかな」
我ながら上手く言い返すことができた。全くもって理にかなっているし、尚且つ角を立てる事もない言い方だ。
「ダメよ、退いてちょうだい」
ー驚いた。人間の性格というはかなり顔に出ると思っているから、こういう美人は芯のあるタイプだろうなと予想はしていたが、それにしてもいささか芯が通り過ぎている。
言い換えてしまえば、余りにも強情だ。
「やれやれ、勘弁してもらえないかな。僕はかれこれ三十分は前からここであそこの羊たちをながめているんだ。三十分も続けていればもう僕にとってはこれが今日の仕事みたいなものさ。今更やめる事もできなくてね、どうにかお嬢さんの方が遠慮してもらえると助かるんだけど」
存外、僕の方も自分が思っているより強情な様だった。
今までこれほど長い台詞が初対面の人間に対して出た事などあったであろうか。
「まぁ、あなたって見かけによらず聞き分けがないのね。いいわ、隣に失礼するから」
そう言うと女はあろうことか私の隣に腰を下ろした。
牧場の景色におよそ似つかわしくない、甘い香水の香りに思わずドキリとする。
「あなたは知らないでしょうけどね、私毎週ここに来ているのよ。それでいつもここに座って羊たちを眺めているの。ちょうどあなたが今そうしていたようにね。まさか先客がいるなんて思いもしなかったけど。
あ、そうだ。今日はこんなに天気が良いでしょう。なんだか私の気分まで良くなっちゃって、おやつ買ってきちゃったのよ。食べる?普段はこんなの買うことないから、これってすごく特別なことなのよ?」隣に座るや否や、女は矢継ぎ早に僕に話しかけてきた。
確かに女の言う通り、僕はその女が毎週この牧場にやってきてここに座っていることなど知らなかったし、今日はすごく朗らかな秋晴れの陽気でポカポカとしていた。
しかし僕の方はなんだか気恥ずかしさばかりが勝ってしまって、相槌を打つ事さえできなかった。
僕にできた事と言えばただ女の手からクッキーを受け取る事のみだったのだが、クッキーには牧場で取れた有機栽培のニンジンが使われているらしく、素材の甘みが優しく口の中に広がるのが感じられ、非常に美味かった。
「おーい、今日も来てくれたのかい」僕がクッキーの風味を心の中で批評していると、後ろから野太い男の声がかかった。来客の多さに辟易しながら振り向くと、いかにも酪農家然とした格好の大男が、牧場用のバイクから降りて駆け寄って来ているところだった。
「あら、蓼原さん。こんにちは。今日はすごく良い天気ですね。私なんだか嬉しくって、初めてこのクッキー買っちゃいました。とっても味が薄いんですね、彼は随分気に入ったみたいですけど」
南無三。この蓼原と呼ばれた男はどうやらこの牧場の経営者で、かつこの女とは知り合いらしい。
僕は喧嘩を買う相手を間違えたようだ。
「はっはっは!そりゃ君の口には合わんだろうなぁ!ところでミヨちゃん、そろそろ決まったかい?」
最初に名乗る事もしなかったので僕は今初めてこの女の名前を知った。
ミヨというらしい。どういった字を書くのだろう。
美夜、美代、美世、いくつか候補を思い浮かべてみたが、いずれも美しいという字が頭に浮かぶのは、僕が少し舞い上がってしまっている証拠だろうか。
僕の情けない考え事をよそに、二人は会話を続けている。
「実はまだ決めかねているんです。ご快諾いただいたのに優柔不断で済みません。」ミヨは大層申し訳なさそうに言った。
「いやぁ構わんよ。ミヨちゃんにとっても人生の大きな分岐点だろう。お供はじっくり選ばなければ。隣に座っているソイツなんてどうなんだい」
僕はいきなり話を振られたことにも驚いたが、何よりいきなりソイツ呼ばわりされたことに腹が立った。
しかし僕が何か言い返すよりも先にミヨが口を開いた。
「まぁ、よろしいんですか!かなり若いのでまだダメかと思っていたんですけれど。どうにも彼とは気が合うみたいで」
ミヨが気が合うと言ってくれた事は素直に嬉しかったが、全く状況が飲み込めなかった。
どうしてこの二人は僕を置いて話を進めてしまうのだろうか。
僕は少しの憤りを含んだ声でミヨに訊ねた。
「ねぇ、少し待ってくれよ。一体全体君達は何の話をしているんだ。少しは僕にも分かる様に話してくれないと」
しかし僕が言い終わるより先にミヨはこう言った。
「あなた山陰は好きかしら?」
「は?」
考えるよりも先に声が出た。
山陰?どういう事だ?しかし僕は山陰側の土地に行ったことがないので好きとも嫌いとも回答のしようがなく口籠もっていると、ミヨはこう続けた。
「私仕事を辞めて山陰に移住しようと思っているのよ。都会のしがらみを離れて自然の中で生きる方が自分の性に合っているのね、きっと。あ、住む所とかはもう決めてあるから心配しなくていいわよ。私こう見えてお金はかなり持っている方なんだから」
ミヨはクールな見た目とは裏腹に、どうやら喋り出すと止まらない性分の様だ。
「それでね、一人で行くのって余りにも寂しいじゃない。私一人で生きるのって気にしないんだけど、それでもお供がいた方が楽しいじゃない。だからこうやって引き取り手を募集している牧場を訪ねて、一緒に連れて行ける羊を探してたってわけ」
なるほど、それで今日たまたまここに座っていた僕に白羽の矢が立ったというわけだ。
「そんなことソイツに言っても分からんだろう」と、横から蓼原が笑った。
相変わらずのソイツ呼ばわりにうんざりしたが、至極真っ当な感覚だ、と僕は思った。
羊は人間の言葉を理解しないというのが、人間の常識だ。
「でも、なんだか分かっているような気がします。この子に関してはですけど」
ミヨがそう言ってくれたので、僕は一言同意しておいた。
「その通り」
メェ、と彼らには聞こえていることだろう。
「ほら、ね?今きっと返事をしたのよ、きっとそうだわ。うん、私この子にします」そうはしゃいで言うミヨの口振りは、まるで小さな子どもの様だった。
自分の言葉を認知されずに話がまとまっていることにいささかの不満はあったが、それを口にするのが野暮であると感じるくらい、僕はもうミヨに盲目的だった。
それに何より、僕はこの牧場に生まれてからと言うもの、羊であるにも関わらずどうにも集団での生活に馴染めないでいた。
ある程度の自由と快適さの中で生を終える事が受け入れられず、願わくばもっと違う世界を見てみたいと日々夢見ていたところだったのだ。
まさかこんな形で夢が叶うことになろうとは。やれやれ、羊生というのも、どうしてなかなか分からないものだな、と僕は思った。
新しい未来の予感と共に、午後の陽だまりに照らされた芝が優しい風に揺られるのを、ただただ眺めていた。
ノルウェイの森を学生時代ぶりに読んだ後に書いたのでこんな感じになりました。初めて書いた小説で、初投稿なので読みにくかったらすみません。
小説の登場人物がゴリゴリの女性言葉で話すのがとても好きです。