その参 意地
柳川城の攻略には九州勢の加藤清正、黒田如水、鍋島直茂らが赴くこととなった。
その中で立花討伐の先鋒に任ぜられたのは、関ヶ原も半ばから東軍に豹変した鍋島勢三万二千の大軍勢であった。
最強を誇る立花鉄砲隊と戦火を交えれば甚大な損害を被ることは分かりきっていた。
さすがの家康も当初から東軍に属していた清正と如水には、立花相手の先鋒を命じることは出来なかった。
そこで日和見の鍋島を噛ませ犬に仕立て、清正と如水を講和の役回りと定めたのは本多正信の筋書きである。
柳川城に迫る鍋島三万二千に対して宗虎がとった行動は、まったく定石外れなものであった。
戦国最強、最速の速射術を誇る立花鉄砲隊である。
城下に幾筋もの堀を巡らせた堅城、柳川城である。
この組み合わせであれば如何なる大軍勢に取り囲まれようとも硝石と兵糧の尽きるまで幾らでも持ち堪えることが出来たはずである。
島津の援軍を待ち、定石どおりの後詰籠城戦を展開すれば、相手にも相当な損害を与えることができたはずである。
にもかかわらず宗虎がとった行動は ・・・・
「鍋島軍の迎撃には某が参りまする」
立花家次席家老の小野鎮幸は自ら玉砕の役回りを買って出た。
「殿を西軍に誘いしは某の言上によるところにございます。
今、立花家存亡の危機に際して立花の面目と徳川への恭順を両立させる為には清正殿からのご提案を受け入れる他ございませぬ」
正信が立案し、清正に携えさせた落とし処とは、鍋島相手に一合戦仕掛けた後、柳川城を開城。
立花宗虎は一旦浪々の身となった末に頃合を見て大名に復帰させるという内容であった。
頃合とは島津と徳川との間で手打ちが済んだら、との意である。
宗虎はこの話を呑んだ。
『大恩ある太閤殿下を裏切ってまで徳川に味方するぐらいなら死んだほうがましである』
そう啖呵を切って領国柳川を出陣した宗虎である。
鍋島如き日和見大名と同列にされることは生き恥以外の何物でも無かった。
「鎮幸、決して死に急ぐでないぞ ・・・・ 」
かくして立花家の家名と家運とを賭けた、鍋島三万二千対小野鎮幸三千の苛烈な戦いの火蓋が切って落とされた。