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プロローグ

第五章 降魔都市編の開幕です。

本章が最終章の予定ですので、願わくば最後までお付き合いください。

「あー、くそったれめ。こいつは手の施しようがねえ」


 大きく傾いた荷台の下から這い出ると、四十がらみの親父顔に厚い胸板を兼ね備えたその男は、不機嫌極まる態度で荷台を蹴りつけた。

 考えなしに蹴っ飛ばしたせいで、逆にじんじんと痛みを訴えてくる爪先から意識を逸らすように、男は背後の雇い主にお手上げのジェスチャーをしてみせる。


「駄目ですぜ、座長。車軸が完璧にイカレちまってる。こいつは修理するより、買い直した方が時間も金も安く済みまさあ」

「そうかね。まあ、君の見立てならば確かなのだろうが……これは困ったことになったな」


 丁寧に撫でつけられたチョビ髭を弄りながら、座長と呼ばれた老紳士は抑揚の薄い口調で呟いた。

 年齢は七十代に差し掛かっているが、真っ直ぐに伸びた背筋は衰えを感じさせない。

 派手さは無いが堅実なリーダーシップには定評があり、一座に属する全員から尊敬を勝ち取っている老紳士ではあったが、そんな彼にとってもこの事態は深刻であった。


 一座の目玉を乗せた馬車が立ち往生してしまったのである。

 彼等は大道芸や珍しい動物を見世物にしている旅芸人の一座であり、今日も次の街を目指して街道を進んでいるところだった。


 芸人や動物の世話係など結構な大所帯の上に、長距離移動に向かない動物は檻に入れて馬車に積んでいるため、一日に進める旅程はさほど長くない。

 だからこそ街から街への移動には細心の注意を払い、盗賊の出没情報や道の荒れ具合は旅立つ前に入念に調べておくのだが――まさか一月前に点検してもらったばかりの馬車が故障するとは、夢にも思っていなかった。


「ちっ、あの酔っ払い修理屋め。大方カードゲームに負けた腹いせに手を抜きやがったな」

「確証もないことで他人を恨むのはやめたまえ。それよりも今考えるべきは、次の街までどうやって旅を続けるか、だよ」


 大道具などの裏方全般を仕切っている男が罵るのをたしなめながら、座長は目下の課題を明確にする。

 水や食料、路銀にはわずかながら余裕がある。早晩行き倒れる事態にはならないはずだ。

 となれば、残る問題はただ一つに絞られる。ただし、それこそが他のどんな問題より無理難題であることは明白だった。


「まさか、こいつ専用の馬車がダメになっちまうとはなぁ」


 傍らに立つ一座の目玉をぺしぺしと叩き、男は恨みがましい視線を送る。

 そこには控えめに言って、二度見必至の生き物が鎮座していた。


 人間の胴体よりも太そうな四肢に丸っこい頭部。にゅっと首を伸ばしてやれば、街道脇に茂っている樹々の梢にだって届くだろう。

 何より特筆すべきは、胴体を丸ごと覆っている小山のごとき甲羅であり、大の大人が五人寝転がってもまだ余裕がありそうなサイズを誇っている。


 その生き物とは巨大なゾウガメであった。

 並のゾウガメの二倍、いや三倍でも足りないだろう。

 見上げる威容は街道のはるか彼方からでも視認できるほどであり、一座の顔としてこれ以上に相応しい動物もなかなかいるまい。

 気性も大人しく、体格からすれば信じられない程に少量の餌で済むため、かつかつなお財布にも優しい。


 そんなゾウガメ唯一にして最大の欠点が、いかんせん足が遅いことであった。

 街から街への旅を続ける一座にとって、移動速度は生死に直結する最重要のファクターとなる。

 そのため座長は、このゾウガメのために二頭引きの馬車を特注し、移動時にはその馬車に積み込むことで足の遅さを補っていた。

 それゆえ、街と街のちょうど中間地点にあたるこの場所で馬車が壊れてしまったことは、一座にとって看過しかねる大問題といえた。


「全員がこいつと同じペースで進んでいては、さすがに干乾びてしまう。背に腹は代えられないという。ここは一座を二つに分けるしかあるまいよ。何人かがここに残ってこいつの面倒を見ている間に、他の者は先行して次の村に赴き、回収の手筈を整えて――」

「おおっ、すげえデケえ亀だな。もしかして食うのか? 食うのか?」

「わぉんっ」

「二人とも違うからね。あのゾウガメは見世物らしいから、食べるんじゃなくて、お客さんに見せてお金を巻き上げるのよ」

「なら安心だな。俺、1カンたりとて持ってないからな!」

「わふっ!?」


 座長の指示をかき消すように、能天気な声と犬のような鳴き声と微妙に悪意を感じる声が割り込んでくる。

 その場にいた者達が一斉に振り返ると、そこには道着を羽織った少年を先頭に、奇抜な格好をした者が多い旅芸人の一座に負けず劣らず特徴的な三人が、足を止めて立ち往生する馬車を眺めていた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「よっこいせっと」


 軽い口調と共にカイエンが全身に力を込めると、その手足が淡く発光した。

 光っているのはカイエン自身。より正確には、体中に蠢く紋様だ。

 刻一刻と形状を変えるその紋様は、浜辺に打ち寄せる波のようにも風に揺らめく緑なす山々のようにも見える。


 この紋様こそ精霊紋章、略して霊紋と呼ばれる超人の証である。

 想像を絶する修行の果てに精霊を宿すことに成功した者には、すべからくこの霊紋が刻まれ、十人力とそれを振るうに足る強靭な肉体を獲得する。


 そうして霊紋持ちと呼ばれるようになった者達は、たった一人で百の兵士を凌駕すると言われており、畏怖と好奇とその他諸々の対象となるのだ。

 道着を羽織った、年の頃十七、八の精悍な顔付きの少年――カイエンもそういった霊紋持ちの一人であった。


 光が眩さを増すほどに霊紋がもたらす恩恵も増し、鍛え抜かれた鋼のごとき肉体との相乗効果によって、不動の象徴と錯覚するほどだったゾウガメの巨躯がゆっくりと浮き上がる。

 常識外れの重量をたった一人で支えているカイエンの足元は、足首の近くまで街道にめり込んでおり、目の前の光景が手品や奇跡の類ではなく、純然たる力技の産物であることを物語っていた。


 己の眼で見ているはずなのに信じがたいその光景を前にして、一座の者達からは普段ならば彼等自身に向けられているであろう、驚愕と感嘆の溜息が漏れ聞こえてくる。

 そんな周囲の視線を気にもとめず、カイエンは背を揺すってゾウガメの重心を微調整すると、ずんずんと音でもしそうな重厚な足取りで歩き出した。


「あなた方が偶然通りがかってくださったおかげで助かりました。改めて、お礼を言わせて頂きたい」

「いえいえ、こういう時はお互いさまですから。それにお気持ちは謝礼という形で頂戴していますので、お気になさらず」


 カイエンに背負われている分、更に遠くからでも目立つようになったゾウガメを先頭に、移動を再開した旅芸人の座長が手を差し出すと、意を汲んだ相手――リンカは肩辺りで切り揃えられた銀髪を揺らして握手に応じる。


 事情を聞いたカイエンからの申し出により、次の村までゾウガメを背負って運ぶこととなったのだ。

 背負って運ぶと聞いた時には己の耳を疑った旅芸人達だったが、こうして目の前で軽々と持ち上げられてしまってはぐうの音も出ず、ただただ唖然とすることしかできない。


 そんな超重量を背負っているカイエンの足元では、手触りの良さそうな漆黒の毛並みの仔犬が、ちょこまかとすばしこく駆け回っていた。

 ヘイと呼ばれているこの仔犬は、実のところ仔犬ではない。

 では何者といえば、雷尾と呼ばれる霊獣の幼体というのがヘイの正体であった。


 霊獣とは精霊を宿した獣、つまりは人間でいうところの霊紋持ちにあたり、中でも雷尾は雷の精霊と共生関係にある。

 まだ子供であるヘイでは、雷霊の力を十分に引き出すことは困難であったが、意志を電波に乗せて飛ばすことで、会話によらない意思疎通をすることを可能としていた。


「ところであなた方は、どこを目指して旅をされているのですかな?」


 穏やかな昼下がりの午後の日差しに目を細めながら、座長はふと尋ねていた。

 一目で異邦人と分かるカイエン達を見て、好奇心が頭をもたげたのだ。


「俺は爺から言われて、世界を見て回ってるんだ。ヘイとリンカは旅の途中で出会ったんだよ」

「ほう。では当てのない旅というわけですか」


 息一つ切らさず、ゾウガメを背負っているとは微塵も感じさせないカイエンからの回答に、座長は目を丸くする。同時に、どこか納得している自分がいることに、彼は敏感に気付いていた。

 明らかに異質な彼等の旅路に、明確な目的地を想像することができなかったためである。

 だが、そんな座長の言葉を否定するように、リンカが横から割り込んで来た。


「カイエン君の大目的はそうかもですけど、ひとまずの目的ならありますよ。私達は西域にいるという巨鳥の霊獣を一目見るために、ロザン皇国からやって来たんです」

「なんとっ、大砂海の向こうから遥々ですか!?」


 予想だにしなかった告白に、座長の声のトーンが跳ね上がる。

 大陸に生きる者として、ロザン皇国の名前くらいならばさすがに耳にしたことはあった。

 中原の覇者として名を馳せている、大陸随一の大国である。


 そんなロザン皇国ではあるが、多くの小国家群が入り乱れてひとくくりに西域と呼ばれているこの地域との間には、直接の交流は実はほとんどない。

 その理由は、ロザン皇国と西域の間に立ちはだかっている砂漠地帯にあった。


 大砂海と呼称されるその砂漠を超えるのは非常に難しく、適切な準備をしても命の危険を零にすることが困難なのだ。ましてや気軽に足を踏み入れでもしようものならば、砂の下に潜む獰猛な肉食生物の腹におさまるか、獲物を手ぐすね引いて待ち構える砂賊に身包みを剥がれるのがオチというものだろう。


 とはいえ霊紋持ちであるカイエンがいるならば、そういった脅威もたやすく払い除けられるに違いない。

 盗賊の襲撃に怯えながら流浪の旅を続けている自分達とつい比較してしまい、思わず嫉妬の念に駆られそうになってしまう座長だったが、ぶんぶんと首を振ると邪な思いを追い出した。


「しかし、巨鳥の霊獣ですか。なかなかに雲を掴むようなお話ですな」

「座長さんはこの辺りを旅して長いんですよね。どこかでそういった話を耳にしたことはありませんか? 噂程度でも構いません。正直、取っ掛かりが無くて、どうしたものかと困っていたんです」


 自嘲気味に力ない笑みを浮かべるリンカの要請に、座長は記憶を巡らせる。

 周辺の都市をピックアップし、過去にそこを訪れた際に耳にした話と照合していくが、心当たりは思いつかない。


 そもそも巨鳥の霊獣などという化け物が現れたのならば、近くの街道は軒並み封鎖されているはずだ。ここ数カ月、どころか年単位で遡って思い返してみても、ヒットする情報は無かった。


「申し訳ありませんが――」

「座長、あそこの王家が祀り上げてる、守護鳥ってやつが関係あるんじゃないですかい?」


 思い当たる節は無いと告げようとした矢先、大荷物を背負ってカイエンのすぐ後ろを歩いていた大道具担当の男の声が耳朶を打つ。

 その言葉に引きずられるように、座長の記憶が揺さぶられた。


「王家……ああ、カルマか。なるほど、言われてみればそうですね」

「えっ、本当にいるんですか!?」


 自分から尋ねておきながら情報が出てくるとは期待していなかったらしく、意表を突かれた表情でリンカが確認してくる。

 座長は一つ頷くと、はるか彼方に薄っすらと霞んで見える山脈を指差した。


「この街道を真っ直ぐに進んで行くと、あそこに見える山脈の麓に辿り着きます。そこにはカルマという、小規模ながらかなり栄えている都市国家があるのですが、カルマの王家が代々崇めているのが、山脈のいずこかに棲んでいるという怪鳥なのですよ。もしかすると、それがお探しの巨鳥の霊獣かもしれません」

「都市国家カルマですか。貴重な情報提供に感謝します! おかげで、ようやく目的地が定まりました」

「なに、我々も酒の席の話題で耳にした程度ですので、確かな情報とはいえませんよ。まあ、よくある噂話程度と受け取っておいてください。あまり信用され過ぎても、何かの保証があるわけではないので」


 あまりの好反応ぶりに、慌てて予防線を張りにかかる座長だったが、聞いているのかいないのか、リンカはすぅと息を吸いこむと、ゾウガメを背負っているカイエンに向けて呼び掛けた。


「聞こえたわね、カイエン君。目指すはカルマ国、この街道の終点よ」

「よっしゃ、分かったぜ。いよいよ『天の角、地の翼』が拝めるんだな。俺、ワクワクしてきたぞ。急いで向かおうぜ!」


 言うが早いか、あろうことかゾウガメを背負ったまま、カイエンはすたこらと走り始めたではないか。

 一瞬呆気に取られる旅芸人達だが、いち早く我に返った者が止めようと試みる。

 しかし、巨大ゾウガメという重石を背負っているにも関わらず、カイエンは軽快に加速すると、芸人達の全力疾走を振り切るような勢いで爆走した。


 あっという間に小さくなっていく背中を呆然と見送りかけてしまう座長だったが、隣を歩くリンカは慣れた様子で足元の小石を拾い上げると、片足を真っ直ぐ天に向けた惚れ惚れするようなフォームを披露する。


「落ち着きなさいっての!」


 投擲。

 大気を焼いて一直線に飛翔した小石は、目を見張るほどの精度でカイエンの後頭部に吸い込まれると、耳を押さえたくなるような痛々しい音を響かせた。


「ぐばっは!」


 つんのめったカイエンの上に、巨大ゾウガメの超重量がのしかかる。誰もがカイエンが押し潰される光景を幻視したが、当の本人はたたらを踏んだ程度で踏み止まると、痛みに涙をちょちょぎらせながら抗議するように振り返った。


「痛いだろ。いきなり何すんだ」

「いきなりも何すんだもこっちの台詞よ。今はそのゾウガメを運んでいるお仕事の最中なんだから、勝手に持って行っちゃったら旅芸人さん達が困るでしょ。少しは人様の迷惑ってものを考えなさい」

「おお、そう言われればそうだな。悪かったな」

「分かればいいのよ、分かれば」


 あっさりと納得するカイエンと何事もなかったかのように話を治めるリンカ。

 座長を含めた旅芸人達は、呆れればいいのか安堵すればいいのか分からず、とりあえず困惑することしかできなかった。

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