カイエン包囲網1
本日3連投の1本目です。
ナキョウの宿に帰って来た翌朝、カイエンは宿の裏庭で拳法の修行に励んでいた。
ここ数日、霊紋持ちとの戦いに巻き込まれることが多かったため、改めて己を鍛え直すことにしたのである。
そもそも我流の拳法を編み出してしまうことからも分かるように、拳法とはカイエンにとって、切っても切り離せない半身のような存在である。
九鬼顕獄拳の型を一つ一つ確かめる様に構え、型の術理に沿って最初は緩やかに、徐々に機敏に、最後には荒々しく全身を動かしていく。
全ての型を流し終えた時、始める前はまだ地平線の下に隠れていた太陽はすでに宿の屋根の上に顔を覗かせ、街特有のざわめきと活気が仄かに漂ってきていた。
「ふう、良い汗をかいたぜ」
顔を振って額から滝のように流れ落ちる汗を払っていると、何者かがカイエンの背後に立った気配がした。
「朝っぱらから随分と精が出るね」
「む、女将さんか」
カイエンの修行が一区切りついたタイミングを見計らい挨拶の声をかけてきたのは、この宿の女将であるナキョウであった。
初めて会った時と同じ調理帽と割烹着だったが、手に持っているのは包丁ではなく一枚のタオルである。カイエンが挨拶を返すと、ナキョウはそのタオルを放って寄越してくる。
「励むのは結構だけど、汗まみれじゃないか。そんな恰好で宿に入って来られちゃ迷惑だからね、厨房の裏にある井戸で水浴びでもして汗を流してきな」
「ありがとさん。井戸か。街じゃ井戸で水浴びをするのが普通なのか?」
問われたナキョウは、何を当然といった面持ちで、
「そうだねえ。金持ちやウチよりもっと高級な宿屋じゃ、温めたお湯につかる風呂って方法もあるけど、一々湯を沸かすなんて一般庶民にゃとてもじゃないけど手が出ないからね。大抵は、近場の井戸で汲んだ水を浴びるのが精々さ」
「そうなのかぁ。折角街中を水路が走ってるんだから、そこに飛び込むのが一番手っ取り早そうなんだけどな」
正直なカイエンの感想に、ナキョウも肯定するように頷くが、すぐに回答を示してくれる。
「時々そうしてる奴もいるけどね。昔、いきなり飛び込んだら足を攣って溺れた馬鹿がいたのさ。それ以来、わざわざ水路に飛び込んで水浴びするなんて真似、まともな奴なら誰もやらなくなったってわけ。そういやあんた、今日はどこかに行くのかい?」
ナキョウが尋ねると、カイエンは胸を張って答えた。
「いーや、リンカがくれた金が結構残ってるから、しばらく仕事はしないつもりだ」
「そう聞くと、質の悪いごく潰しみたいに聞こえちまうよ。そうじゃなくて、あんた、世界を見て回ってるんだろ。だったら、折角東都にいるのに、この街を見物しないなんて勿体ないと思ってね」
「おお、言われてみれば!」
目から鱗が落ちた気分でカイエンは同意する。少年の見せる素直に反応に、珍しくナキョウは頬を緩ませた。
「そうと決まれば善は急げだ。今日は東都を観光することにするよ! 良い事を教えてくれてありがとうな!」
早速街に繰り出すべく、部屋に置いてある荷物を取りにカイエンは宿に駆け込――もうとしたが、敷居をまたぐその直前、素早くナキョウに襟首を掴みあげられ、子猫のように吊り下げられた。
ナキョウはとてもいい笑顔でカイエンを覗き込むと、噴火直前の火山を彷彿とさせる口調で言い含める。
「つい今しがた、あたしは言ったよねぇ、そんな汗まみれの格好で宿に上がるなって。観光に行く前に、とっとと水浴びをしてきな!」
「う、ういっ」
霊紋持ちすら圧倒するその気迫に、カイエンは首を縦に振ることしかできなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
汗を流してさっぱりした後、部屋に戻って東都観光の準備を始めたカイエンだったが、今は部屋中をひっくり返していた。
「無い、無い……こっちにも無い」
旅の間中持ち歩いていた肩掛け袋の中身をすべてぶち撒け、部屋中の家具という家具を軒並み動かしその下を確認する。
それでも見つからずカイエンは途方に暮れる。
だが、いつまでもこうしていても仕方がない。カイエンは覚悟を決めると、肩掛け袋を提げると部屋を出て、一階の受付カウンター内で事務作業をしていたナキョウに声をかけた。
「あー、女将さん。ちょっといいかな」
「なんだい、シケた面なんかして。今日は観光に行くんじゃなかったのかい?」
「そのつもりなんだけど……ごめん、鍵を失くしたみたいだ」
一切の言い訳を挟むことなく、カイエンは正直に告げて頭を下げる。さあ観光に行こうと意気込んで鍵を掛けようとしたところ、部屋の鍵が見当たらないことに気付いたのである。
大慌てで部屋中をひっくり返したが結局見当たらず、カイエンは諦めてナキョウに申し出た。
ナキョウは黙って、頭を下げ続けるカイエンを見つめていたが、見ている方が緊張する程凝視し続けた後、はあと小さく息を吐き出した。
「全く、仕方がない子だね。弁償はしてもらうから、覚悟しておくんだよ」
「え、あ? それはもちろんだけど……怒らないのか?」
予想と異なる女将の対応に、カイエンは目を白黒させて尋ねていた。
対してナキョウはフンと鼻をならし、普段通りのわずかに不機嫌そうな様子で答える。
「全く怒っていないって言えば嘘になるけどね。あたしが一番嫌いなのは、自分が悪いってことを認めようともせず、いつまでもウジウジグチグチ言い訳を重ねる奴さ。あんたは自分が悪いと思えば素直に頭を下げられるみたいだから、そこだけは評価したげるよ」
「ありがとう。あと、ごめん」
重ねて謝罪するカイエンに、ナキョウは腕を組んで貫禄満点の態度で告げた。
「ふんっ、一度このあたしが許すと言ったんだから、それ以上の謝罪は不要だよ。それよりとっとと鍵の弁償金を払っちまいな。この時間なら、鍵屋を呼びつければ今日中に交換できるかもしれないからね」
「ああ、分かった」
ナキョウの告げた額の貨幣を取り出すとそれを積み上げる。満額揃っていることを確認すると、次はしっしと手を振ってカイエンを追い出しにかかった。
「これで払うものは払ってもらったんだから、あんたがこれ以上ここにいても邪魔になるだけさ。東都を観光するんだろう? この街は大きいから、一日じゃ到底見て回れないだろうけど、こんな所で時間を無駄にするくらいならさっさと行ってきな」
こくこくと頷き、カイエンは追い立てられるように宿を後にする。
一方のナキョウは、廊下の掃除をしていた通いの従業員を呼びつけると、手間賃を握らせて鍵屋を呼びに行くように告げる。
従業員が出ていくのを見送ると、頭を切り替えて事務作業に戻る。それからしばらく経った頃、帳簿と睨めっこをしていたナキョウだったが、宿の扉が押し開けられ大勢の足音が入ってきたことを察して視線を持ち上げた。
宿に入って来たのは、東都の治安維持を担う武力警察である追捕使の者達だった。
五名が無地で濃紺の制服を着た平隊員。それを率いているのは、制服は同じだが金属製の階級章を襟元に縫い付けた指揮官らしき男である。
宿に入ってきたはこの六名だったが、開けっ放しになっている扉の向こうには、宿の前に十人以上の追捕使達が整列している様子が見て取れた。かなり規模の大きい捕物のようだ。
「やれやれ、大勢で押し掛けてくれたみたいだけど、どうやら泊り客って雰囲気じゃなさそうだ。それじゃあ、あんまり歓迎はしてやれそうにないねぇ」
「仕事中失礼する。我々はある重大事件の犯人を追跡しているのだ。ご協力をお願いしたい」
嫌味を含んだナキョウの呼びかけを無視し、指揮官の男は受付カウンターの前までやってくると、背筋をぴんと伸ばして張りのある声で告げた。
言葉こそ依頼の形をとっているが、その口振りや態度からは高圧的――というよりも、余裕のないピリピリした様子が伝わって来る。
指揮官の態度に最初は不機嫌そうに眉を顰めたナキョウだったが、すぐに溜息を吐くと立ち上がり、真正面から指揮官を見据えた。
「ま、あんた達に協力するのは善良な市民の義務ってやつだからね。良いさ、言ってみな。あたしに何をしろって言うんだい」
「は、犯人の手掛かりについて、確認したい事項がある。これを見てもらいたい」
ナキョウの気迫に一瞬だけ気圧されたようにどもる指揮官だったが、すぐに気を取り直すと布に包まれた品物を取り出した。カウンターの上に置き、包みを開ける。
その中身を見た途端、ナキョウは困惑した表情を見せた。
「こいつは――」
「これは犯人が現場に残していったと思われる品だ。心当たりがあるのではないか?」
心当たりはあった。あり過ぎた。
目の前で指揮官が取り出したのは、ナキョウの宿で使っている客室の鍵だったのである。宿の名前を彫り込んだ特徴的な木札を結びつけてあるため、ここを特定するのはさぞ容易かったことだろう。
なによりナキョウが困惑しているのは、その鍵がついさっきカイエンが紛失したと申告していた部屋の鍵だったためだ。それが重大事件の犯人の遺留物? まったく訳が分からない。
「あんた達が追っている犯人ってのは――」
「質問しているのはこちらだ。この鍵に見覚えはあるのか?」
言葉を遮られ、確認される。いつもならばその態度に腹を立ててすっとぼけるところだが、こうして明白な物証を出されては誤魔化しようがない。
重苦しく息を吐くと、ナキョウはそれが客室の鍵であることを認めた。
指揮官は頷くと、重ねて問うてくる。
「では、この鍵の部屋に泊まっていた人物がどこにいるのか、それを教えてもらいたい」
「……東都観光すると言って出て行ったよ」
「ならば、その人物の外見について――」
更に幾つかの質問を重ねて必要な情報を得たのか、指揮官は指の先まで伸びきった完璧な敬礼をすると、「ご協力、感謝する」と言い、来た時同様有無を言わせぬ勢いで出て行ってしまう。
残されたナキョウは、どこか疲れた表情で呟いた。
「カイエン、あんた何をやらかしたんだい?」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
いつの間にか追捕使に追われているとはつゆ知らず、カイエンはふらふらとした足取りで東都の街並みをうろついていた。
彼にとっては初めて訪れる大都市である。見る物聞く物すべてが目新しく、カイエンの好奇心を存分に刺激する。
が、ふと重大な問題に気が付き愕然とした。
「そういや腹が減っていた……!」
思い返せば早朝の修行の後、鍵を失くしたことに気付いてバタバタしていたため、まだ朝飯にありついていない。そうと気付いた瞬間、腹の虫が全力全開で自己主張を開始したため、あっという間にカイエンの脳内は食欲一色に染め上げられた。
するとその時、まるでカイエンが空腹であることを自覚するのを待っていたように、香ばしい匂いがカイエンの鼻に釣り針を掛けた。
脳天に痺れるように届くその匂いに引き寄せられ、カイエンは操り人形のように歩を進める。
そうして辿り着いたのは、どこかで見た記憶のある屋台の前だった。
「おっさん、飯くれ、飯!」
「んあ? って、あんたあの時の!?」
仕込み作業していたらしき背中に声をかければ、振り返ったおっさんがカイエンの顔を見て目を丸くする。
そのリアクションを不思議に思いながらも、空腹のカイエンは止まらない。身を乗り出しておっさんに詰め寄った。
「おっさん、早く肉くれ肉!」
「うるっせえ! とりあえずこれでも食ってろ!」
作り置きしていた分を取り出すと、温め直す手間すら惜しんでカイエンの口の中に叩き込む。当のカイエンは大口一杯に詰め込まれた焼肉を、もむもむと咀嚼しごっくんと飲み込むと、満足げな笑みを浮かべておかわりを要求した。
「美味い。もう一皿くれ」
「わーかったわかった。今新しく焼いてやるから、少しだけ待ってやがれ」
「おう。ちゃっちゃと頼む」
カイエンが頷くと、おっさんは仕方ないなあというように苦笑し、肉焼きを再開した。
テンポ良いリズムで肉を鉄板に並べながら、おっさんは闖入者の顔を凝視する。
カイエンもおっさんの視線に気付いたのか、不思議そうな表情で尋ねてきた。
「なんだい、おっさん。俺の顔がそんなに珍しいのか?」
「珍しいってか……あんた、この前五番通りで大立ち回りをやらかしてただろ。ほら、紅巾党やら御庭番衆やらと」
「そう言われればそんな事もあったな。おっさん、よく知ってるな」
感心した様子でカイエンが認めると、おっさんは苦笑した。
「……やっぱり見間違いじゃなかったか。あの時もこうして、俺の屋台で飯を食っていってくれたじゃないか。憶えてないのか?」
「ああっ、あの時に焼肉のおっさんか! 悪い悪い、人間の顔を憶えるのはまだ苦手なんだ。でも、今日はこんな所でどうしたんだ? ここは五番通りじゃないだろ」
カイエンの言葉におっさんは苦渋の表情を浮かべると、歯切れ悪く答える。
「御庭番衆が水浸しにしちまったんで、五番通りは復旧工事でしばらく通行止めになっちまったんだよ。仕方がないんでこうして他所の地区まで出張ってるんだが、他所には他所の縄張りがあってな、なかなか五番通りのようにはいかないのさ」
そこまで話したところで愚痴を漏らしていたことに気付き、おっさんは慌てて別の話題を振ってきた。
「あんたこそ、こんな所でどうしたんだい? 今日はあの仔犬も連れていないみたいだけど」
「あいつは元々俺の連れじゃないって言っただろ。あの騒ぎでいなくなってそれっきりだ。そして今日の俺は、東都観光をしているのだ!」
胸を張って自慢気に宣言する。おっさんはと言えば、カイエンの返答が予想外に普通だったことに逆に面食らっていたが、肉が焼き上がっていたことに気付くと慌ててそれを鉄板から取り上げ、調味料をかけて差し出して来た。
「あいよ、お待ち。そうか観光かい。まあ、東都は広いから色々と珍しいもんはあるが……そうだ、イタミ城はもう見たのかい?」
「ひはひひょう?」
早速肉にかぶりつきながら首をかしげる。聞いたことも無い。というか、カイエンにとっては人間の街そのものが珍しいのだが、そんな事を知る由も無いおっさんは、カイエンの相槌に気を良くしたのか、相好を崩して地元の自慢を語り出す。
「おうよ。東都所司代のルントウ様がいる城でな、皇国でも一番と謳われる優美さで評判なのよ。東都まで足を延ばしたんなら、せめてイタミ城だけでも見ておかないと人生の損だぜ」
「ふおお、よく分からんが凄そうだな! 俺、イタミ城ってのを見てみたい!」
「がっはっは、そうだろそうだろ。あっと、イタミ城に行くならこの道をしばらく進めば二番通りっていう大きな道に突き当たるから、後は左手に曲がって真っ直ぐ行きな。城には入れないが、堀の周りは散歩道になっているから、ゆっくり見てまわれるぜ」
「そうなのか。ありがとな、おっさん」
「良いってことよ。その代わり、また今度食いに来てくれや」
こうしておっさんに見送られ、カイエンは一路イタミ城を目指して去って行く。
そのしばらく後、重大事件の犯人を追っているという追捕使達が現れるまで、おっさんは上機嫌で肉を焼き続けたのだった。
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