動き出す者達3
(どうしよう……)
緊張でガチガチに固まった笑顔の裏側で、ダ=シィフはそんな事を自問していた。
周囲が少し薄暗いのは、ここが室内だからだ。
より正確には、橙の一族の拠点たる浮島へ向かっている砂上船の、日除け・砂避けを目的とする船室であった。
アミンの姉妹が乗ってきた砂上船は、四方と天井を簾で仕切った程度の簡易なものではあるが、なんと船室を備えていたのである。
ちなみに砂上船に乗っている三人のうち、アミン=ナナは外で舵を取っているためこの場にはいない。
それはすなわち、残るアミン=ミミとダ=シィフが、狭い船内で差し向かいとなっている事を意味していた。
はっきり言って、とても気まずい。
とはいえ、アミン=ミミがダ=シィフを拒絶しているだとか、その逆だったりというわけではない。
むしろ、どうにか会話のきっかけを掴むために話題を振ろうとしたところ、奇跡的な確率で二人同時に相手に話し掛けてしまい、お互いに譲り合った結果、膠着状態に陥ってしまったというのが真相だ。
そんな焦れったい膠着状態を打破したのは、拳をぎゅっと握り締め、改めて気合を入れ直したダ=シィフであった。
「あ、あの、アミン=ミミさんっ。お兄ちゃんと出会った時の話って、聞かせてもらっていいですか」
「ええ、構わないわよ。もっとも、ダ=ジィルから聞いているかもしれないけれど――」
「いえ、アミン=ミミさんから聞いてみたいんです!」
前のめりとなり、若干食い気味に頼み込む。現状、この二人の間で共通の話題となると、考えるまでもなくダ=ジィル関連一択なのだ。もしもこの機を逃してしまえば、互いの距離を縮めるのはますます難しくなるだろう。
果たして、アミン=ミミにも何かしら思うところがあったのか、神妙な面持ちで頷くと、ゆっくりと噛み締めるように語り出した。
「私が初めて会った時、ダ=ジィルはそれはもう酷い怪我を負っていたわ。聞いた話では砂鮫が脇腹に食い付いたらしくて、一番深い傷は骨を砕いて内臓近くまで達していたの」
当時の事を思い返してか、睫毛を震わせて目をつむる。
悲鳴と怒号が飛び交うあの凄惨な光景は、どんなに忘れようと努力してみても、瞼の裏にしっかと焼き付いて薄れてくれない。
ふと気を抜けば、傷口から溢れ出る血液の暖かさすら、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せるほどだ。
それだけアミン=ミミにとって、ショッキングな光景だったのである。
いかに砂鮫狩りが常日頃から厳しい訓練で己を鍛え上げているといっても、生物として比較してしまえば、砂鮫が人間より強靭・狂猛・凶悪なのは火を見るより明らかなのだ。
そんな格上の敵と相対すれば、ほんのわずかな気の緩みですら、生死に直結する致命的失敗へと直結する。
大砂海に生きる者にとって決して避けては通れない、この上なくシンプルな弱肉強食の摂理。
だというのに、どんな勇猛果敢な戦士であっても死を受け入れざるを得ないほどの大怪我を負ってなお、ダ=ジィルは生きることを一切諦めなかった。
とても焦点が合っているとは思えない虚ろな視線のまま、治療のために湯や包帯の準備をしているアミン=ミミの手を条件反射のように握ると、彼女にだけ聞こえるほどの声音で囁いたのだという。
「あの時、ダ=ジィルはずっとあなたの名前を呼んでいたのよ」
「お兄ちゃんが、あたしを……?」
「ええ、一命をとりとめて意識が戻るまでも、時々うわ言でね。だから目を覚ました後、私は真っ先に尋ねたわ。ダ=シィフとは誰なのか、ってね」
いつの間にかアミン=ミミの柔らかな双眸は、過去の記憶ではなく目の前の少女へと向けられていた。
名前だけは何度も聞かされ、自分が想い人と結ばれれば義妹になるはずの少女。
自分に対して一言では言い表せない複雑な感情を抱いているだろうに、必死にそれを押し隠し、歩み寄ろうとしてくれるその姿は、アミン=ミミにとってどんな宝物よりも眩く映る。
「ダ=ジィルは動けるようになるまでの間、あなたの事を何度も話してくれたものよ。気付けば私はダ=ジィルに惹かれ、共に生きたいと願うようになっていた。でも、それと同じくらい、私はあなたとも共に生きて行きたい。だって私が愛したのは、あなたをこの上なく大事に思っているダ=ジィルなのだもの」
そこまで語ってから、アミン=ミミは不意に不安に駆られた。
あまりに一方的に喋りすぎたのではないだろうか。共通の話題を探していたはずなのに、気付けば自分の想いをひたすらに語ってしまっているではないか。
もしかして自分勝手だと思われたのではないだろうか。それどころか気味が悪かったのではなかろうか。これまで知人を介してしか面識のなかった相手から、いきなり熱烈な愛の告白をされたようなものなのだ。
嫌悪感を抱かれたとしても仕方のない事を仕出かしてしまったのでは?
泡のように膨れ上がった焦燥に突き動かされ、アミン=ミミは恐る恐るダ=シィフの顔を見やり――つい息を呑み込んでしまった。
真っ直ぐにこちらを見つめ返す少女の目の端に、透明な滴が滲んでいたからだ。
「ダ=シィフ、泣いているの? もしかして、私のことが怖くなった……?」
「ちがっ、ぐすっ、違うの。どうして涙が出るのか、分からないのに、止められなくてっ……」
自分でも制御不能な感覚に振り回され、止め処なく零れ落ちる涙を拭いながらダ=シィフは訴える。
もしもリンカがこの光景を見ていたならば、すぐに答えに至ることだろう。ダ=シィフにとって、兄以外の人間からここまで真っ直ぐに想いを伝えられたことはなく、それゆえに驚きと嬉しさに揺り動かされて膨張した感情が、閾値を越えてしまったのだと。
ふと気付けばアミン=ミミは、そんな理屈とは無関係に、己の内から湧き上がる衝動に従ってダ=シィフを抱きしめていた。
それだけこの少女を愛おしく、手放してはいけないように感じたからである。
強くかき抱いたアミン=ミミの腕の中で、ダ=シィフはしばらくの間泣き止むことはなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
泣きじゃくるダ=シィフがどうにか落ち着いた後、目元を腫らしながらも彼女が興味を示したのは、アミン=ミミの荷袋に収められていた調理道具の数々であった。
元々、料理上手として知られるアミン=ミミに弟子入りするという名目であったため、少し早いが料理技術について講義をすることとなり、手始めとしてアミン=ミミが持参していた様々な調理道具を解説することにしたのである。
「うわあ、こんなに種類があるんだ」
並べられた数々の料理刀を前に、ダ=シィフは目を丸くする。
物心つく前に流行り病で両親を亡くしているダ=シィフは、料理の手ほどきも最初は兄であるダ=ジィルから受けていた。
だが、ダ=ジィルが砂鮫狩りとなるべく鍛錬を始めていた年頃だったこともあり、基礎を卒業する頃にはほぼ独学で調理技術の習得に励むようになっていく。
実地で学んだと言えば聞こえはいいが、要は我流である。
要領は悪くなかったので最低限のポイントこそ押さえていたが、知識の面から見れば抜け漏れができるのも無理からぬ話だろう。
そんなダ=シィフにとって、アミン=ミミの所持する調理道具の数々は、中身の分からぬビックリ箱に近い感覚だった。
「家に着けばもっと沢山の道具があるわ。全部持ってこようとしても場所が足りないし、使う頻度を考えて絞ってきたのよ」
たった今まで解説していた、砂鮫の鱗剥がし用の料理刀を荷物の中に戻し、アミン=ミミは楽しそうに微笑む。
ダ=シィフとの距離が縮まったのも理由の一つではあるが、純粋に料理そのものが好きなのだろう。
その情熱こそ、アミン=ミミを自他共に認める料理上手へと押し上げた、原動力だといえる。
と、その時である。次の道具を探していた手が、異なる感触を探し当てた。
取り出してみればそれは、ハカクと名乗る大砂海の外から来た行商人から譲り受けた、ひと塊の岩塩であった。
姉が好き勝手やらかした尻拭いに奔走した結果、不思議な成り行きと妥協の産物として、これを進呈されたのである。
本当に受け取って良かったのか若干の疑問は残っているが、今更それを言ってもどうしようもない。
それに何のかんの言っても、大砂海の外からもたらされたという調味料には、少なからず興味が湧く。
岩塩自体は大砂海の一族も日常的に用いているが、外界の物はどれだけ味が違うのか、好奇心は尽きないからだ。
そんな考えが表情に出ていたのか、ダ=シィフも興味深そうにアミン=ミミの手元を覗き込んできた。
「アミン=ミミさん、それは何?」
「岩塩らしいわ。ハカクさんにもらったのだけれど、少し味見をしてみる?」
「え、いいの?」
ダ=シィフの問いに頷いてみせるアミン=ミミ。
実際、少なくとも一度は自分の舌で味わってみなければ、料理に組み込めるものかどうかも判断がつくまい。塩の味見程度ならばさしたる時間も掛からないだろうし、ダ=シィフにとっても珍しい食材に触れることは有益なはずだ。
そうと決まれば善は急げとばかりに、一番小さい料理刀を取り出すと、アミン=ミミは岩塩の包装を解き、顔を覗かせた白っぽい結晶の一部を削り落とした。
ひと欠片をダ=シィフの手に乗せてやり、自分も削り出された岩塩の端くれを口に運ぶ。
舌に乗せ、神経を集中させること数秒。真っ先に口を開いたのはダ=シィフであった。
「全然味がしないね……」
「そうね。これ、本当に岩塩なのかしら?」
つい根本から疑ってしまう。
とはいえ、それも無理はあるまい。無味無臭に近いそれは、二人のよく知る岩塩とは似ても似つかないものだったからだ。
包装には文字らしきものが見て取れるが、生憎と外界の文字のため何と書いてあるかはさっぱり理解できない。
「どうするの、これ?」
「一応、姉さんにも味見をしてもらいましょう。それでも味がしないとなったら……うーん、貰い物なのだけれど、使い道が無さそうなら捨てるしかないのかしら」
困惑の表情を浮かべ、頬に指をあててアミン=ミミは唸る。
もしかしたら岩塩という言葉の指す意味が、大砂海の外では異なっている可能性も捨てきれないのだ。思っていたものと違うからといって放り出すのは、いささか短慮が過ぎるような気もする。
だが、残しておいても場所を占有してしまうだけで、有効活用できるビジョンがまるで浮かばない。
当初の想像以上に手こずりそうな食材を前に、アミン=ミミは一旦考えるのを保留した。
砂鮫狩りとして多少なりとも大砂海の外の知識を持ち合わせている姉であれば、もしかしたら心当たりの一つでもあるかもしれない。
そんな一握りの期待と共に立ち上がり室外へ出ると、ダ=シィフも後に続く。
複数の事態が同時に発生したのは、まさにその時であった。
一つ目は鋭い叫び声だ。
「どこかに掴まりな!!」
アミン=ナナの声が轟く。周囲を圧して放たれた警告には、非常に珍しいことに切羽詰まったような響きが感じられる。
そしてもう一つは、砂上船の両側からほぼ同時に姿を見せた。
橙一色に染められた砂を割り、人間など一飲みにできそうなサイズの大口が二つ、うねりながら飛び出してくる。
仮にも大砂海の民であれば、その脅威を見間違えることは決してあるまい。大砂海の民とは切っても切り離せない生物の代名詞、砂鮫だ。
突然の強襲に対して、アミン=ナナの反応は間違いなく最短最速であった。
片時も離さず握られていた青龍偃月刀が、振りかぶられたと思った瞬間には振り下ろされている。
ただし、間合いの遥か外で。一見すれば空振りにも映る。
だがしかし、アミン=ナナの霊紋が物理法則を凌駕する。
振り抜かれた刃が分離でもしたかのように、銀光となって空を裂いた。
霊紋持ちが武器を振るうのと何ら遜色ない速度で飛翔したその銀光は、大口を開けて迫っていた砂鮫まで瞬時に到達すると、さしたる抵抗も見せずにその巨体を二枚に卸してのけたのである。
飛ぶ斬撃。
それこそが第二階梯の霊紋持ちであるアミン=ナナにのみ許された、超常の業であった。
全身から淡い光を放つ小柄な女傑の背後には、ぎらりと光り輝く刃を備えた青龍偃月刀を携える、均整の取れた人影が浮かび上がっている。
第二階梯の霊紋持ちが能力を振るう際に顕れる、実体を持たぬ幻。霊像と呼ばれる現象だ。
返す刃で逆側から迫っていた砂鮫も真っ二つに斬ってのけ、短くも濃密な戦闘はあっさりと幕を閉じた。
砂鮫との戦いなど体験したことのないダ=シィフがついそう思ってしまったのも、無理はあるまい。
それこそが油断だった。
がつんっ、足元から突き上げられる感触。
先の二匹の陰に隠れて忍び寄っていった三匹目が船底目掛けて体当たりをかまし、砂上船が大きく揺れる。
アミン=ナナが立ち回ることを想定しているため、同サイズの他の船と比べると特に安定性に重きを置いているのだが、それでもなお吸収しきれなかった衝撃が乗っていた者達に襲い掛かった。
「きゃああっ!?」
悲鳴と共にバランスを崩したのはダ=シィフだ。
砂鮫の襲撃が終わっていないことを本能的に察していたアミン=ナナは当然としても、姉の咄嗟の警告で手近なものに掴まることができたため、アミン=ミミも支障なく両足を踏ん張り転倒を回避する。
しかし、その辺りの機微を理解できてはいなかったダ=シィフだけは、戦闘が終わったと早合点して気を緩めてしまったせいもあり、完全に無防備な状態で突き上げの直撃を喰らってしまったのである。
ふわりと体が宙に浮かび、無重力の感触がもたらされる。
だが、それも一瞬の出来事、小柄な体躯はいとも容易く船外へと投げ出され――しかし砂海へ落下するよりも早く、持っていた岩塩を放り捨てたアミン=ミミの手が伸び、間一髪で繋ぎ留めた。
「ダ=シィフ! 怪我は無い!?」
「は、はい、大丈夫です! ありがとうござ――」
礼を言いかけたダ=シィフの眼前を、いつの間にかアミン=ミミが投げ捨てていた岩塩がくるくると舞い、まるでダ=シィフの身代わりのように大砂海に呑み込まれる。
反射的に後を追うように手を伸ばしかけるダ=シィフであったが、アミン=ミミはこれまで一度たりとて聞かせたことのない、鋭い声音で叱りつけた。
「何をしているの! あんな物どうだっていいでしょ!」
「で、でも、砂海の外から来た珍しい物なのに――」
「あなた以上に大事なものなんて、あるわけないわ!!」
叱責と同時にダ=シィフの身体が引き戻される。
船上へと引き上げられながらダ=シィフが見ていたのは、恐怖と安堵が等量でミックスされ緊張に強張るアミン=ミミと、その奥で第三波を警戒して青龍偃月刀を油断なく構えながらも、気遣うように時折りこちらを見やるアミン=ナナであった。
怪我や病気をした時に兄から向けられていたものと同質の感触に、ダ=シィフはようやく『家族が増える』という言葉の意味を理解できた気がする。
それは同時に、極限まで引き伸ばされていた緊張の糸が、ぷっつりと途切れたことを意味していた。
結果として、ダ=シィフの口から出た「お姉ちゃん」という呟きが言葉になるかならないかの内に、彼女の意識は寸断されたように暗転したのだった。
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