青龍偃月刀の襲来3
結局、リンカは社の中には立ち入ることなく、元来た道を引き返していた。
正直なところ、後ろ髪が引かれ過ぎて百本単位で引っこ抜けそうな程に未練はあるのだが、それよりも波止場の方から聞こえて来た歓声の正体を確かめる方を優先したのである。
もしも踏み込んでいれば、持ち前の好奇心のせいで一歩も動けなくなっていたことは想像に難くないため、リンカの判断は断腸の思いであると同時に、的確な自己評価の賜物でもあった。
そんな訳で先を急いでいたリンカだったが、はたとその足が止まる。理由は単純明快で、何者かが高速で接近していることを感知したからであった。
感知といっても、気配や勘といった曖昧なものではない。
これまで島中を歩き回っていた際に張り巡らせておいた、影の糸による探知網に反応があったのである。
影の精霊を宿した霊紋持ちであるリンカは、影の形状を自由自在に変化させられる他、糸状に伸ばした影に何者かが触れた際、それを検知することを可能としていた。
影の糸は物理的な強度を持たない代わりに、切り裂いたり取り除いたりすることは不可能であるため、今回のような警戒線を構築するにはうってつけなのだ。
ともあれ何者かが近づいて来る。設置しておいた影の糸に次々と触れていく速度は常人では到底出せないものであり、霊紋持ちとしか考えられない。
では、一体何者なのか。カイエンがダ=ジィルと共に島を離れている以上、リンカには心当たりがまったくなかった。
「となれば、まずは様子見かしらね」
リンカの宿している影霊は、直接的な戦闘力は皆無と言っていい代わりに、応用範囲の広さにおいては群を抜く。特に潜伏や隠密といった方面への適正が並外れており、視覚への依存が強い人間という生き物が相手であれば、警戒厳重な城塞への侵入すら可能としていた。
ましてや身を潜める場所に事欠かない屋外ともなれば、本気で隠れたリンカを見つけることなど不可能に等しい。
案の定、リンカが手近な立木の陰に身を隠した直後、荒々しい気配と共に踏み込んできた少女は、リンカの姿が見当たらないために困惑している様子であった。
「おかしいねえ、確かにこっちから精霊の気配がしたと思ったんだけど……」
油断なく周囲を伺いながらぽつりとそう零したのは、身の丈の倍はあろうかという青龍偃月刀を肩に担いだ、初見では十代にしか見えない少女――アミン=ナナであった。
客人の一人が島を探検していると聞き、どんな奴かと顔を見に来たのである。
「全体的に薄く等分に引き伸ばされた精霊の気配……あたしでもまったく出所が掴めないとは、客人とやらもなかなかやるじゃないかい。さすが、ダ=ジィルと引き分けただけはあるって事かね」
身を潜めている相手が霊紋持ちと察したため、アミン=ナナはその相手こそがダ=ジィルと戦った霊紋持ちだと勘違いしてしまっていた。
アミン=ナナは『客人の一人が霊紋持ちで、ダ=ジィルと互角に戦った』とだけ、ダの民から噂伝いに聞いている。それは要するに、ダ=ジィルと戦った相手、つまりはカイエンの容姿や特徴について、何も情報を持ち合わせていないということの裏返しでもあった。
普通ならば、たった三人と一匹からなる隊商の中に二人も霊紋持ちが含まれているなどまず有り得ないため、霊紋持ちという特徴だけ判別できれば個人の特定には十分事足りる。
しかし運の悪いことに、カイエンほどおおっぴらにしているわけではないが、リンカもまた第二階梯の霊紋持ちであった。おまけに砂鮫狩りと揉めた際にはリンカは沈黙を保っていたため、ダの民達も誰一人としてリンカが霊紋持ちだとは気付かず、アミン=ナナの勘違いを予防することが出来なかったというわけである。
「まあいいさ。この辺りに潜んでるってんなら、力尽くでも引きずり出してやろうじゃないかい!」
吠えるアミン=ナナの四肢に仄かに輝く紋様が浮かび上がる。
精霊を宿し、十人力と異能を体得した証、霊紋だ。
全身に漲る活力に身を任せ、アミン=ナナは口元に笑みを浮かべると、担いでいた青龍偃月刀をおもむろに振りかぶった。
ただそれだけでなんという圧力か、ビリビリと肌を刺す殺気が周囲に充満する。
ここまで来れば馬鹿にでも分かる。アミン=ナナは相手がどこにいるかも分からないまま、当たるを幸いに周囲一帯を薙ぎ払おうというのだ。
まさしく脳筋オブ脳筋の発想に、隠れているリンカの背筋を戦慄が走り抜ける。
何よりも困ったことに、その一手こそがこの状況でリンカを発見するための最善手なのであった。
相手の能力に対する考察や論理的思考の結果ではなく、動物的直観で最適解へと辿り着く戦闘勘。カイエンの野生の本能にも通ずるそれは、リンカにとって最も相性が悪いタイプといえるだろう。
「さあて、ぶった斬っちまっても文句は言わないでおくれよっ!」
「いや、言うに決まってるでしょ」
アミン=ナナが技を放つその寸前、リンカは呆れた声と共に姿を現す。
その途端、張り詰めていた殺気は嘘のように雲散霧消し、興味深そうにジロジロとリンカを眺め回すアミン=ナナがそこにいた。
「はんっ、そんな所にいたのかい。まったく気が付かなかったよ。聞いていた通り、なかなか使うみたいじゃないか。あんた、名前はなんて言うんだい?」
「お嬢ちゃん、人に名前を尋ねるなら、まず自分から名乗るのが礼儀だって、ご両親に教わらなかったかしら?」
「誰がお嬢ちゃんだ! あたいはアミン=ナナ、これでも当年取って二十三だよ!」
「え、嘘! まさかの二十歳越えですって!?」
明日世界が滅びると告げられたかのように愕然とするリンカ。どう見ても未成年としか思えない相手のまさかの実年齢は、リンカをしてポーカーフェースを保つことを許さない。
対してアミン=ナナは不機嫌そうに唸る。
「ふん、そんな事よりあんたも名乗ったらどうだい。あんたの要望通り、あたいの方は名乗ってやったはずだよ」
「あ、え、ええ、そうね。私はリンカ、旅の……まあ、歴史研究者とでも言っておきましょうか」
いまだ治まらぬ動揺を抱えたまま、リンカは慌てて答えた。いつもであればもっと人を食ったような物言いをしているはずなので、アミン=ナナの年齢はそれだけリンカの心に衝撃をもたらしたといえるだろう。
「ははん、リンカか。悪くない名前じゃないか。それじゃあリンカ、一丁あたいと手合わせしてもらおうじゃないかい!」
「え、お断りするけど?」
青龍偃月刀の切っ先をピタリと突きつけ、隠し切れぬ高揚を滲ませてアミン=ナナが高らかに告げる。
一方、リンカはきょとんとした表情で即答した。
一瞬の沈黙。二人の間をひゅるりと風が吹き抜けていく。
両者の熱量差のあまり、空気の対流が発生したのかもしれない。
「……今、何て言ったんだい?」
「お断りだって言ったのよ。あなたと手合わせ? そんな面倒な事をするメリットが、私にはまったく思いつかないわ。第一、私って暴力方面は専門外なのよね」
至極真面目な表情でリンカはのたまう。一片の曇りも無い瞳は、アミン=ナナには口から出まかせを言っているようには見えなかった。まあ、リンカの場合は何食わぬ顔で真っ赤な嘘をついている可能性も捨てきれないのだが。
しばらく固まっていたアミン=ナナだったが、リンカが踵を返そうとした時になって、ようやく再起動すると慌てて言い募る。
「ちょ、ちょっとお待ち! まさか逃げる気かい!?」
「いやいや、逃げるも何も、手合わせはお断りしたじゃない」
冷静に突っ込むリンカであったが、興奮した人間の標準行動としてアミン=ナナは相手の言い分にはまったく耳を貸さず、一方的にまくし立てる。
「くっ、まさかダ=ジィルはこんな腰抜けと引き分けたっていうのかい? まさか、そこまで腑抜けた奴だったなんて……そんな様じゃ、あたいのかわいいアミン=ミミを娶ろうだなんて到底認められないねえ!」
「あー、多分この人、私とカイエン君を混同しちゃってるわね……」
怒髪天を衝かんばかりの勢いで吠えるアミン=ナナの言葉の端々から、おおよその事情を察したリンカは頬を掻きながら呟く。
その口元が、不意ににんまりと弧を描いた。
「アミン=ナナ、そこまで言うならば勝負してあげてもいいわよ」
「本当かい! 覚悟しな!!」
惚れ惚れする程の脊髄反射でもって、アミン=ナナは青龍偃月刀を構えた。
だがリンカは構えることはせず、ひらひらと手を振ってみせるのみ。
「落ち着きなさい。勝負してあげるのは構わないけど、条件があるわ」
「条件だってぇ?」
いきなり何を言い出すのかと、胡散臭いものを見る眼差しでアミン=ナナはリンカを睨み付ける。
自他ともに認める胡散臭さの代表枠であるところのリンカは、己に向けられた視線にこれっぽっちも怯むことなく、さも当然と言いたげに頷いた。
「ええ、さっきも言った通り、ただの手合わせじゃ私にまったくメリットが無いもの。それにあなたが勝負を仕掛けてきたのだから、条件はこちらが決めた方が正当でしょ。このまま勝負をゴリ押しして、たとえあなたが勝ってもそんなのは卑怯者の手口よ。それともあなたは、卑怯者と呼ばれても私に勝ちたいのかしら?」
「そんな訳ないさね。ふん、いいさ、その条件とやらを聞かせてもらおうじゃないかい」
売り言葉に買い言葉でアミン=ナナは威勢良く応じる。
あまりのチョロさに内心苦笑を浮かべつつ、外見的にはまったくそうと悟らせない真面目ぶった表情で、リンカは指を二本立てた。
「まずは一つ目、私が勝ったら……そうね、私の指示に一度だけ従ってもらうというのはどうかしら。ああ、もちろん私に負ける程度の人に、無理難題なんて押し付けるつもりは毛頭無いから安心して頂戴」
隙を見せることなく、むしろさりげなく挑発を織り込んでいく。案の定、頭に血が上り始めているアミン=ナナは条件を吟味することなく、即座に首を縦に振る。
いつの間にか条件が複数になっているのだが、そこに気付く余裕すら失っているらしい。
「いいだろう。その条件呑んでやろうじゃないかい。吠え面かかせてあげるよ」
「あっそ、できるといいわね。そして二つ目、こっちは勝負の形式よ。さっきも言った通り、私は武芸や拳法の方には疎いのよ。その代わりといってはなんだけど、ゲームで白黒つけましょうか」
「ゲームだあ?」
思いもよらぬ提案を受け、アミン=ナナの顔に警戒の色が浮かぶ。
大砂海の砂鮫狩りにとって、勝負といえば一対一の決闘に他ならない。それ以外の方式を匂わされ、霊紋持ちとしての能力を十全に活かせない可能性を危惧したのである。
無論、そんな見え見えの警戒心などリンカにとっては先刻承知の要素でしかなく、軽く肩をすくめると小馬鹿にするように言い放った。
「ゲームと言ってもただの追いかけっこよ。勝負開始から十秒待って、あなたは私を追いかける。制限時間までに私を捕まえられればあなたの勝ち、逃げ切れば私の勝ち。簡単でしょ? 制限時間は、とりあえず砂鮫狩りの人達が帰ってくるまでとしましょうか」
「正気かい? 砂鮫狩りが帰ってくるまで、たっぷり半日はあるよ。それまで逃げ場の無いこの島の中で、あたいから逃げおおせられると本当に思ってるのかい?」
「愚問ね。あなたがどれだけ足に自信があるか知らないけれど、決して私に追いつくことは出来ないと予言するわ。せいぜい私の背中に追いつけるように頑張って御覧なさい」
「腰抜けのくせに吠えるじゃないかい。いいよ、その勝負乗ってあげようじゃないさ!」
こうして急遽、ダの民の浮島を股に掛けた、霊紋持ち同士による世紀の追いかけっこが開始されたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日の夕刻、砂鮫狩りの砂上船に乗って帰還したカイエンが目撃したのは、地面に寝転がって荒い息をつく青龍偃月刀を携えた少女――アミン=ナナと、その傍らで胸を張って勝ち誇っているリンカの姿だった。
身の丈に合わない馬鹿でかい得物を持っていることから、疲労困憊といった様子の少女が霊紋持ちだとは推測がつく。
どうやら勝負事に興じていたようだが、あの様子を見ればどちらが勝ったかなど訊くまでもないだろう。
「あらカイエン君、おかえりなさい。ヘイ君もおかえり」
「うぉん」
「砂鮫狩りってのもなかなか面白かったぜ。そっちはどうだった?」
挨拶と共に発せられた問いに、リンカはほんの少し思案した後、艶々とした顔色で答える。
「ええ、色々と興味深いものを見て回れたわ。予想外の収穫もあったし」
「ふーん、そいつは良かったな。ところで、何でそんな服を着てるんだ?」
カイエンがつい尋ねたのも無理はない。今リンカが身に纏っていたのは、今朝カイエンが出掛けた際に着ていた衣服ではなく、ダの民の女性が着るような民族色豊かな衣装だったのである。
化粧や、銀髪を覆い隠している砂避け用の髪留めもダの民から借りたらしく、これまで旅路を共にしてきたカイエンですらうっかり見間違いそうになったほどだ。カイエンの場合は視覚のみならず嗅覚でも人を識別しているため、すぐにリンカと気付くことが出来たが。
「なかなか似合ってるでしょ。まあ、ちょっとした勝負服といったところかしら」
にこにこ笑顔でヘイを抱き抱えながら、リンカは服の裾を引っ張ってみせる。
これこそがリンカの仕掛けた最大の罠であった。
やった事は言葉にすれば至極簡単である。
開始直後に影の囮を駆使してアミン=ナナを別方向へ誘導すると、稼いだ時間で通りすがったダの民の女性から衣服や装飾品を借り受け、素早く着替えてしまったのである。
あとは霊紋の力を一切使用することなく、着替え一式を借りた女性を手伝って夕刻まで家事手伝いに勤しんでいた。
一方のアミン=ナナは、リンカの放った囮の影像をいくら斬っても手応えが無いことに気付き、急いで本体であるリンカを探し回った。
しかし、彼女が探したのはあくまで大砂海の外からやってきた、余所者の格好をした霊紋持ちであり、リンカが大砂海の一族と同じ姿で紛れ込んでいる発想にはついぞ至ることはなかった。
その理由として挙げられるのは、第一にここがダの民の拠点であったという点だ。
アミン=ナナも何度か訪れたことはあったが、基本的に他の一族とは交流を持たない間柄だったため、同じ霊紋持ちであるダ=ジィルや長老であるダ=ベインとは顔見知りになっていたものの、それ以外の数多くいるダの民達の顔と名前が一致するところまでは至っていなかったのである。そのため、紛れ込んだリンカだけを識別することはできなかった。
第二の理由は、勝負の開始前に仕掛けたリンカの心理作戦だ。
挑発的な言葉の数々は、アミン=ナナをこちらに有利な土俵に引き込むと同時に、足の速さに自信があるような口振りや霊紋持ちとしての誇りを逆撫でするような言い方、何よりも追いかけっこというゲーム名でもって速度勝負と誤解させたのである。
内実は変装したリンカを見つける、追いかけっこというよりもかくれんぼというべき勝負だったのだが、数々の誘導で視野を狭められたアミン=ナナがそれに気付くことはなく、どこを探しても姿の見えないリンカを求めて浮島中を駆けずり回る羽目になったというわけだった。
「相変わらず嫌らしい手を使う奴だな。俺がやられたらと思うとうんざりするよ」
「あら、カイエン君の場合は匂いですぐ気付くだろうから、こんな手は通用しないじゃない」
あっさり否定してみせると、上機嫌に鼻歌を口ずさむ。
その様子を恨めしげに見上げるアミン=ナナは、事情を聞いたダ=ジィルとアミン=ミミによって慰められるのだった。
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