プロローグ
第四章 大砂海編 開幕です。
気楽に読んでいってください。
ロザン皇国は西の端にほど近い峠の茶屋。一見して喧騒とは無縁と分かる鄙びた佇まいに、カイエン達は旅の疲れを癒すべく休息に立ち寄っていていた。
「はあ、くつろぐわぁ」
湯気に溶け込んだ茶葉の香りが薄っすらと立ち昇る湯呑をぼんやりとくゆらしながら、リンカはいつになくのんびりとした口調で、遠くの空を流れる雲にしみじみと目をやる。
白くたなびく雲が刻々と形を変えてゆく様は、どれだけ眺めていても飽きがくることはない。
「なんだよ、いきなり年寄り臭いことを言い出す奴だな。調子が狂っちまうや」
「わぉん」
こちらは親の仇に挑むかのごとき血相で、山盛りに重ねられた団子に喰らい付いていたカイエンが、頬をパンパンに膨らませながら文句をつけてくる。
同じく団子をパクついていたヘイが間髪入れずに鳴き声を上げるが、こちらはカイエンへの賛同でも非難でもなく、リンカの体調を案じるものだった。
霊獣・雷尾の幼体であるヘイは、宿している雷の精霊の能力を応用することで、限定的ではあるがテレパシーのように、言語を経由しない意思の疎通を可能としていた。そのため傍目には、漆黒の毛並みの仔犬がただ鳴いているようにしか見えなくとも、リンカとカイエンにはヘイの伝えたい意志がきちんと伝わっているのだ。
「ありがとうヘイ君。私が疲れているのか気にしてくれるだなんて、相変わらず優しいのね」
「いや、多分あんたが柄にもない事を言いだしたから、吃驚してるんだと思うぞ」
無論、同じ意志を伝えても受け手ごとの解釈は発生しうるのだが。
ともあれ、歯に衣着せないカイエンの台詞にリンカが反応しようとしたその瞬間、茶屋の奥から小柄な老婆が姿を見せた。
「はい、お待ちどうさまですじゃ。お茶と団子のお代わりをお持ちしましたぞえ」
独特の方言を交えつつ、両手で抱えたお盆から溢れそうな量の団子を運んでくれば、カイエンは目を輝かせてそちらへ吸い寄せられていく。
いつも通りの脊髄反射っぷりにリンカが苦笑していると、老婆は空になった皿を片付けながら、「ふぇふぇふぇ」という耳慣れない笑い声と共に話し掛けてきた。
「お客様方はここから西に向かいなさるんで?」
「ええ、そのつもりよ。西域の方に少し用事があるものだから」
「左様でごじゃいますか……ということは、大砂海を渡るおつもりですかの?」
「ひゃいひゃかい?」
早くも口一杯に団子を詰め込んだカイエンが、耳慣れぬ響きに反応して首をグリンと回してくる。
その様子がツボにはまったらしく、老婆は口元を抑えると「ふぇっ、ふぇふぇっ……」と中途半端に笑い声を噛み殺した。
噴き出すのを堪えるのに精いっぱいな老婆に代わり、カイエンの疑問にはリンカが答える。
「大砂海というのはね、この峠を越えた先に広がっている、見渡す限り砂で埋め尽くされた土地の名前よ」
「もぐもぐ……ごくん。見渡す限り砂だって? ははっ、そんな土地があるわけないじゃん。いくら俺が世間知らずだからって、そう簡単に騙せると侮ってもらっちゃ困るぜ」
頭から嘘と決めてかかり、リンカの説明を笑い飛ばす。するとようやく笑いの発作を飲み込んだ老婆が、目尻に浮かんだ涙を拭きながらカイエンの言葉を否定した。
「いやいや、お嬢さんの言っている事は本当ですじゃ。世の中には砂漠と呼ばれる、砂しか見当たらない土地があちこちにありましてのう。大砂海はその中でも特に大きな砂漠でして、皇国と西域を実質的に隔ててもおりますじゃ」
「ふーん、そうなのか。そいつは知らなかったや」
老婆の言葉に感心したように何度も頷くカイエン。
一方のリンカは、ぷくりと頬を膨らませる。
「ちょっと、カイエン君! どうして私の言葉は信じないくせに、お婆さんの説明は鵜呑みにするのかな?」
カイエン、何を当然とばかりにあっけらかんとした態度で曰く、
「だってあんた、時々意味も無く嘘を吐くだろ。だから、いざという時以外は疑ってかかるように心掛けてるんだ」
「うぎゅう……」
痛いところを突かれたらしく、折り畳むような呻き声を漏らして沈黙する。
世間知らずのカイエンを揶揄って遊ぶのが最近のマイブームだったのだが、見事にしっぺ返しを食らった格好である。
沈黙するリンカの無言の抗議をさらりと流すと、カイエンは鼻の穴を膨らませながら勢い込んで尋ねた。
「そんなことよりさ、海って確かあれだろ、川の先につながってて、到底飲み干せないくらい大量の塩っ辛い水があるっていう」
「……その通りよ。ちなみになんで砂海と呼ばれているかというと、皇国西部の砂漠地帯には他の地域の砂漠とは大きく異なる点があって――って、カイエン君?」
気を取り直して解説を始めんとしたリンカであったが、ふと気付くとカイエンはあれだけ大量にあった団子をペロリと平らげ、淹れたばかりで火傷しそうなくらいに熱々のお茶を躊躇なく喉奥に流し込むと、すっくと立ち上がっていた。
興奮を堪えきれないといった面持ちで、ウキウキワクワクしているのが手に取るように分かる。
「砂ばっかりなのに海なのか。全然想像がつかないや。俺、早く大砂海って奴を見てみたくてウズウズしてきたぞ! 確か、峠の先にあるんだろ?」
「はいな。峠を越えればすぐにでも見えてきますじゃ」
「よっしゃ、ヘイ、早速見に行こうぜ!」
「わォん!」
そうと決まれば善は急げとばかりに、止める暇も無く駆け出していく。
相変わらずの即断即決というべきか、呆れるほどに熟慮というものが抜けている。
慌てたヘイも後を追いかけて転がるように駆け去ってしまい、一人取り残されたリンカは諦観を込めて首を振ると、残っていたお茶を一息に飲み干した。
足元に置いてあった葛籠を背負いながら、老婆に幾枚かの硬貨を手渡す。
「騒がせて悪かったわね。お代よ」
「へへえ、確かに。しっかし元気なお連れ様だことで」
「まあ、カイエン君の目的は『世界を見て回る』ことらしいから、見たこともない景色があると知ったら、どうしても見に行きたくなるのでしょうね」
訳知り顔で理由を挙げると、老婆は納得した表情を浮かべて頷いた。
「ははあ、そういう理由でごじゃいましたか。しかし、お客様自身はそれほど大砂海に興味をお持ちでないご様子でごじゃいますが、大砂海には足を踏み入れたことがおありでしたかの?」
「これでも私、旅慣れてますから。まあ大砂海そのものは初めてですが、他の砂漠なら経験がありますし、大砂海の事も噂話程度には聞いています。例えば、どうして大砂漠じゃなくて大砂海と呼ばれているか、とか」
「なるほどですじゃ。しかし、同じ事を言っていたお客様が、次の機会にここを通った時にはすっかり虜になっていたこともありましたからのう。何事も百聞は一見に如かず、聞くだけでは伝わらない事もありますじゃ。是非とも堪能して行ってくだしゃれ」
そう言って「ふぇふぇふぇ」と笑ってみせる老婆の眼差しは、どこか優しい光を湛えている。少なくとも悪意から出た言葉でないのは間違いあるまい。
リンカは老婆に向かって返答代わりに微笑むと、すでに峠の先に姿を消してしまったカイエンとヘイを追うべく、登り道を歩き出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ……」
カイエンの喉奥から絞り出された驚愕の声は、尾を引いて段々とかすれ、遂には絶句へと変わっていた。
それは目の前の光景が期待外れだったから、ではない。
まったくの逆だ。想像を絶する光景に、思わず息継ぎを忘れてしまったのである。
目を見開いたカイエンの眼前には、つい先程聞いた通りの光景が広がっている。
峠という高台にいるにも関わらず、カイエンの視界の遥か彼方、地平線の先まで茫漠とした砂の大地が続いているのだ。足元に視線を転ずれば、整備された街道は峠を少しくだったところで途切れており、それを境に世界がぐるりと様相を変えているのが一目で見て取れる。
人の立ち入らない山中で育ってきたカイエンにとって、一切の緑が見当たらない光景というのはまるで想像できかったのだが、それゆえに初めて見た砂漠の景色は、一際鮮烈な印象を脳裏に深く刻み付けてくる。
ちなみに隣では、ヘイも目を丸くして壮大な景色に見入っていた。
「あらあら、これは想像以上のスケールね。さすが音に聞こえた大砂海といったところかしら」
ようやく追いついてきたリンカも、カイエンとヘイの隣に並ぶと感心した様子で呟く。
旅慣れているリンカをして、大砂海のスケールは別格と評して余りあるものであった。
そんな代物を前にして、カイエンが興奮を抑え込める道理などあるわけもない。
「すっげー! すっげー! なんだあれ、なんだあれ!?」
堰を切ったかのようの語彙力を全力で投げ捨てた口調でまくし立てる。詰め寄られたリンカは、暴れ馬と見紛うほどに鼻息を荒げるカイエンをどうどうとなだめた。
「落ち着きなさい、カイエン君。あれが大砂海よ」
「本当にあれが全部砂なのか? 木も草も全然見当たらないぞ? 夢でも幻でもないんだよな!? こうしちゃいられねえ。触って、嗅いで、味わってみないとな!」
「あ、こらっ! 待ちなさい!」
引き止めんとするリンカの手をするりと躱し、カイエンは一目散に峠を駆け下りると、そのまま速度を緩めることなく大砂海へと突っ込んでいく。
その途端、砂地に足を取られて盛大に転倒したかと思えば、その勢いは止まることを知らずにごろんごろんと砂の上を転がり回り、最終的には全身砂まみれの状態で仰向けに停止した。
「ぺっぺっ、うわ不味っ!?」
口の中に入ってきたじゃりじゃりとした塊を吐き出すと、慌てた様子で飛び起きる。
全身をぶるぶると震わせて砂を振り落とすと、足元の砂を一掴み拾い上げ、クンクンと臭いを嗅いだ。
「ふーん、思ったよりも臭いはしないんだな。てっきり目玉が飛び出すような臭いがするのかと思ってたよ」
「もしも全部の砂がそんなに臭かったら、砂漠を通るなんて私は絶対ご免被るわね」
追いついてきたリンカが嫌そうにツッコミを入れる。見渡す限り一面の砂から異臭が立ち上る地獄絵図を思い描けば、言葉にならないその恐怖に背筋が震えてしまう。
そんな想像の引き金を引かせた当のカイエンはというと、リンカの言葉など右から左へ聞き流していたらしく、しみじみとした口調で感想を述べた。
「いやー、すげえな。本当に砂しかないんだな、ここ。そういや食べ物と水はどうするんだ? これだけ広いと、通り抜けるのだけでも一日や二日じゃ済まないだろ?」
カイエンが疑問を呈すると、リンカは意味ありげな笑みを浮かべてみせる。
「よく気付いたわね。その通り、砂漠を通過するには入念な準備が必要となるわ」
「やっぱそうだよな。だとしたらどうすんだ。確か、そろそろ持ってきた分は尽きるって言ってたよな?」
つい昨晩の野営の際、リンカがそのような事を言っていたのである。
食料ならば道端の草でも食べれば済むかと軽く聞き流していたのだが、ここまで徹底的に砂しかないとなれば、俄然最重要の問題となってくる。
ところがリンカは慌てる素振りも見せず、自信満々に胸を叩いてみせた。
「それだったら当てがあるから安心して頂戴。まずはファンレンを目指すわよ」
「ファンレン?」
「大砂海の玄関口と呼ばれている街よ。そこで大砂海越えの準備をするの。ほら、ぼんやりとしていないで付いて来て頂戴」
初めて聞く名前に揃って首をかしげているカイエンとヘイを急かし、リンカは取り出した地図と方位磁石を片手に、一路ファンレンへと進路を取った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あれが九鬼顕獄拳のカイエン、か」
観察対象が興奮した様子で砂の上を盛大に転がり回る光景を、曰く言い難い思いで見つめながら、彼はつい先日閲覧が許可された資料に記されていた名前を反芻した。
機密保持のため資料自体は既に破棄済みだが、そこに記載されていた経歴の数々はしっかりと頭に叩き込んである。
いや、そんなに気張らずともあれだけ目を引く経歴ならば、同業者であれば嫌でも注目をせざるをえないだろう。
初めて確認された村で無法者を叩きのめしたのを皮切りに、東都では追捕使と御庭番衆に紅巾党、おまけに霊獣までもが入り乱れた空前絶後の騒ぎの渦中へ突如として姿を現し、事態をしっちゃかめっちゃかに引っ掻き回したかと思うと、最終的には霊獣に打ち勝ってその一件を収束させたという。
つい先日の南都でも、武術祭の決勝まで勝ち残っておきながら試合を放棄するという意味不明の行動をとった他、南都最大の犯罪組織と追捕使の衝突に深く関与していたという裏も取れている。
そして未確認ではあるものの、総勢百人を超える規模かつ複数の霊紋持ちを擁していた巨大盗賊団を壊滅させたという、にわかには信じがたい情報もあった。
上層部が要観察対象としてピックアップしたのも納得できるというものだ。
しかし遠眼鏡越しで見る限りでは、そのような大層な人物には到底見えない。どこをどう見ても年相応の少年そのものである
……いや、それを判断するにはまだ情報が足りないか。
結論を急ぎ過ぎていたと自戒する。何はなくともまずは調査するべきだろう。それこそが彼に課せられた任務に他ならないのだから。
旅の連れらしき女性に先導され、対象がファンレンの方角に向かって歩き出したことを確認すると、彼は遠眼鏡をしまい、身を隠していた岩場からそっと離れた。
近くに繋いでおいたラクダに跨ると、ファンレンへ向かって足早に移動を開始する。
既に仕込みは大半を済ませているが、万が一にも状況が変化しないとは限らない。詰めの一手を間違えれば、折角積み上げてきた細工も無駄となってしまうのだから、急ぐのは当然であった。
ラクダの背に揺られながら計画の流れを確認する。
彼にこの任務が回って来たのは、正直な話ただの偶然だ。彼が活動している地域に、要観察対象が偶々やって来たというだけに過ぎない。
だが、任務は任務だ。
通常こなしている任務とは若干毛色が異なるが、突き詰めれば今回の任務だって、通常任務の延長上にあるといえる。
であれば、気負いも侮りもただの障害でしかない。彼は己が成すべきことを、ただ淡々とこなせば良いのだから。
そう自己暗示をかけることで、気を抜くと沸き上がってこようとする緊張を紛らわせながら、彼は乗っているラクダを更に急がせるのだった。
面白いと思って頂けたら、評価・ブクマをポチってもらえると励みになります。
また、勝手にランキングにも参加しています。
お邪魔でなければ投票してやってください。




